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四 なんて楽しい休日だ

「いらっしゃいませ。新刊入りました」

 どうやらその祈りは通じたらしく、果たして能登は即売会に参加することができた。目の前の机はテーブルクロスに覆われ、その上には同人誌が平積みにされている。

 そして能登の隣には、サークルのもう一人のメンバーである丹下が立っていた。背格好は何の変哲もないダウンコートと能登によく似ているが、男にしてはやや髪が長くメガネをかけている。職業は医師だった。

「能登くん、今更の話だけれども今日は来られてよかったね」

「ああ。この間は悪かった」

「悪かったも何も、しょうがないよね。仕事なんだもん」

 能登があれだけ気を揉んだのは、前回のイベント時には運悪く直前に呼び出しがかかってしまい、参加できなかったためだった。正確に言えば過去形ではない。現実には、こうしている間にもスマートフォンが鳴りはじめる恐れがある。

「その話はしないでもらえると助かる。これからもあんなことがあると思うと憂鬱だ」

「あんまり考えすぎない方がいいよね。あるいは諦めるか」

「やっぱり就職先まちがえたかな。丹下くんが羨ましいよ。休みが確保できてさ」

 能登は丹下を横目で眺めたあと、手元の冊子をぱらぱらとめくった。

 丹下の作品では、女性看護師が古典的なナース服を着たまま患者と絡みあっている。ちなみに能登の方も似たようなもので、違いといえばキャラクターが制服姿の女性警察官と一般市民に置き換わった程度だ。どちらも医師や刑事などの作者と同じ職業の人物は登場しないという共通の特徴もある。

 能登と丹下はコスチュームに並々ならぬこだわりがありながら、自身が抱える欲求を執筆する作品に反映させない妙な遠慮深さを有している、というより元からそこに自己を投影していない、少なくとも自分が直接に仕事関係の人間をどうこうするつもりがない点で似た者同士だったのである。同時に二人は職場を題材に用いた成人向けの漫画やイラストを描くのみならず、同人誌を発行するという奇妙な行動を実践して面白がる感性の持ち主でもあり、それゆえに高校時代からの親交を続けることができていた。

 そのおかげだろうか、今回もサークルとしてコンセプトの一貫した冊子を発行できた、と能登が改めて感慨に浸る傍で丹下がふと呟く。

「それにしても、いつもより静かだね」

 たしかにその通りだった。ふだん参加している即売会では、ここまで二人して話ができるほど暇ではない。冊子の売れ行きも悪くはないが、いつもよりは残部が多い。

「年末の方は抽選、ダメだったからなあ」

 能登たちは当初、年末に開催されるより規模の大きい即売会に参加しようとしていた。理由はそちらの方が注目度が高く、冊子の売れゆきも格段によいからだ。

 もっとも、考えはみな同じである。当然ながら希望者が殺到するために抽選が行われ、外れた者たちが方々でわずかばかりの嘆き節を漏らすのが恒例行事となっていた。そんな中でも二人はこれまで応募が全部通っていたことから特に根拠もなく楽観していたのだが、今回に限って落選してしまったためにこの日の即売会へ参加する運びとなった。

「でもたまにはこういうのもいいんじゃない?」

 能登が辺りを見まわしながら訊ねると、丹下も頷く。

「たしかにね」

 これまで出ていた即売会には及ばないとはいえ、こちらも規模はなかなかのものである。また参加団体の構成に違いがあり、女性向けの同人誌を発行しているサークルが多いのだ。自然と参加者全体に占める女性の比率も高くなる。

「それに、なかなか楽しめる」

 したがって丹下が暗に指摘したように、コスプレイヤーも女性主体となるのは自明の理だった。能登も丹下も自身の作品内で衣装にこだわるせいか現実のコスプレにもうるさく、くわえて二人とも男である以上はどうしても女性を見る方により力が入る。それを証明するかのように、丹下が続けざまに右方向を指さした。

「あれ、見てみなよ」

 言われるがまま視線を向けると、ラバースーツに身を包んだコスプレイヤーが歩いている。能登はやや間を置いて感想を述べた。

「しっかり仕上げてきているみたいだね。生地も安物じゃないよ。それらしい質感が再現できている」

「うん。あのあたりに皺なんか寄ってたら台無しなんだけど、そういうこともない」

 現に衣装は十分に身体にフィットしているらしく、見事なボディラインが会場の風景をバックに映えている。来場者の発する熱気で多少は会場の気温が上昇しているといっても、季節は冬。防寒性を犠牲にしているのは間違いない。四方八方から襲いかかる冷気に耐えるその姿に敬意を表しつつ、今度は能登の方から左を向くよう促す。

「じゃあ、あっちは?」

 そこにはメイド服を纏った売り子がいた。丹下は頭から足先までくまなくチェックするように目を動かしてから、いかにも感心した様子で口を開く。

「キャップもエプロンもちゃんとしてる。靴も大丈夫みたいだ」

「同感。これだったら合格」

 その売り子は黒のローファーを履いていた。能登は軽く目の動きで賛同の意を示しながら、いつぞやのイベントで遭遇したコスプレイヤーを引き合いに出してぼやいてみせた。

「前に似たようなメイド服で、ひどいのがいたからなあ」

「覚えてる。ものすごく派手なサンダルだったね。ああいうのは正直言ってないよね」

 あのときは実に興ざめしたものだ。コスプレは全身に統一感がなければならない。たとえば今しがたブースの真正面を横切った、洋式軍服で男装の麗人に扮した参加者のようにだ。そう能登が声に出す前に、丹下が小さく顎をしゃくって同じ対象を指ししめす。

「せっかくだから、あれを参考にしてほしいよね。小道具にも力を入れてさ」

「そうそう、腰のサーベルなんかも割と重量感が出ているし」

 とりわけ鍔に施された細かい彫りこみが目立つ。少なくとも予算か手間のどちらかがかかっていることが窺えた。

「みんな頑張ってるね。能登くん」

「まあ、お祭りみたいなものだから当たり前ではあるけど、レベルが高いのは間違いない」

 要するに二人はときに頭の中で、ときに言葉を交えて勝手に品評会を始めてしまうのだ。普通、こうした趣味の男はたいてい露出の多少に執着するものだが、この二人はまた違った楽しみを見つけていたのである。

 しかしその品評会も程なくして終わる。遠くからどよめきが聞こえたからだ。刑事の勘からいち早く異常を察知した能登は、声のする方に目を向けて丹下に囁く。

「何だろう?」

「さあね」

 周囲もただごとではない様子に気づいたようで、幾人かの参加者はしきりに互いの顔を見あわせている。固定客があらかた冊子を買っていってしまった二人のサークルは間近で足を止め、あるいは数秒ばかり品定めをする程度の来場者さえイベントが始まった頃と比較して数を大幅に減らしていた。特にここ十数分は、雁首を揃えてブースに張りついていても仕方がないほど閑散としている。

「ちょっと行ってきていいかな」

「頼む」

 丹下が頷くのを確かめるなり、能登は通行人の間を縫って早足で歩きだした。幸いにして会場はさほど広くはなく、それらしい場所に近づくまでさして時間はかからなかったが、その間にも事は進行しているようで何やらヒステリックな声が聞こえてくる。能登は徐々に足の回転を速め、ついにはほとんど小走りで騒ぎの元の方へと向かっていった。

「アンタたち、もっと距離とりなさいよ!」

「そっちこそどっか行って!」

「ああいうふざけたの、描いてんじゃないわよ!」

「それはこっちが言いたいわよ! こんなもの、こうしてやる」

 到着すると、そこでは女性の参加者四人がふた組に分かれて争っているのが見えた。ひと組は片方が相手を床に引き倒しては馬乗りの体勢から頬やら頭やらを拳で殴りつけ、もうひと組は片方が相手を突き飛ばして売り場の冊子を引きちぎっている。もはや何があったかを当人たちから訊けるような状況ではない。

 会場の空気は凍りついていた。何といっても、四人揃って悪鬼羅刹もかくやと思われるばかりの凄まじい形相なのである。あまりの迫力に押されてか、誰も止めに入ろうとはしない。中には面白がって見物を決めこむ者さえいる。能登は気乗りしないながら動かざるを得ないと覚り、野次馬を掻きわけて前へ出ようとした。

 ところが事態を見かねた誰かがすでに運営に通報していたらしく、四人は程なくして現れた警備員に取り押さえられ、会場の外へと連れだされていった。いわゆる強制退場と呼ばれる処分だ。現実に目の当たりにするのが珍しいのか、一部から嘲笑が漏れながらも会場は元の和やかさを取りもどしていく。

 能登は近くに立っていた参加者の一人に事情を尋ねたあと、足早に元のブースに戻った。

「何か分かった?」

 それから訊いた内容をそのまま話すだけという形で、真っ先に丹下の口から出た質問に答える。

「ひとことで言えばケンカだよ」

「そりゃどうして」

「近くに『武士のプリンスさま』の二次創作を扱ってるサークルが二つあって、推しのカップリングが違ってたんだ」

 『武士のプリンスさま』は女性向け恋愛シュミレーションゲーム、いわゆる乙女ゲームと呼ばれるものの中でも息長く楽しまれている一連のシリーズ作品である。現在でこそ人気は往事と比べて落ち着いているものの、かつては業界ナンバーワンのシェアを誇り、一時は熱狂的なブームまで巻きおこすほどの隆盛を極めていた。

「ああ、あれね。かなり前の作品だけど、今度アニメ化も決まったからね。人気再燃ってとこだね。ちなみにケンカしたサークル、誰と誰のカップリングが推しだったの?」

「どっちもナガノブ・オリタがメインで、片方はマルラン・モリオカを推してた。もう片方がイエトシ・マエノ」

 『武士のプリンスさま』のゲーム中で男性同士のカップリングは一切、扱われていない。にも関わらずファンは勝手に頭の中で妄想を膨らませ、今もなお二次創作を世に送りだしている。むろんそれ自体に何ら責められるべき由はないのだが、ときに自分たちが推すカップルに入れこむあまり、意見を異にする相手に激しい攻撃を加えるという好ましからぬ行為に及ぶことがあった。しかもこの日のように単なる口論に留まらず、暴力行為を伴う例が幾つかニュースに取りあげられて問題となった過去がある。

 ただし、これは何も乙女ゲームの愛好者に限った話ではない。類似の闘争は、オタク文化が今日のように陽の目を浴びる以前から連綿と繰り広げられてきた。国民的RPG(ロールプレイングゲーム)『ドランゴンロード』シリーズの一作で主人公の花嫁候補となるビアンシュとフィオラ、日本一の発行部数を誇る週刊少年漫画雑誌で連載されていた大人気学園ラブコメディ『ザクロ一〇〇%』の東野沙耶と西城つばめ、サブカルチャーの枠を超えて社会現象にまで発展したアニメ『世紀末エヴァンス』の浦波メイと飛龍キャスカ……。例を挙げればきりがない。『武士のプリンスさま』においても、その闘争がやや苛烈な形で顕在化したまでのことだ。

「ナガノブに相応しいのはマルランかイエトシか、以前にものすごい論争があったからね。でも、何で今ごろ?」

 イベント開始からは、ある程度の時間が経っている。普通に考えればもっと早くに争いが勃発するはずだ、という疑問はもっともなところだろう。ただ、それも能登は確認済みだった。

「最初は二つの間に別のサークルがいたんだけど、早々に冊子が売り切れて撤収しちゃったんだ。で、お互いに顔を合わせる形に」

「なるほどね」

 丹下はそれだけ言うと納得した様子でいちど黙る。能登も同じく静寂を保ち、物思いに耽った。

 人間は闘争を好む生き物である。それは架空の人物のカップリングが違うというだけでケンカを始めるところを見ても明らかだ。いや、その程度ならまだかわいい。悲しいことに人間は時に些細な諍いで他人の命を奪う、生存と生殖以外を目的に同種の別個体を殺す非常に稀な動物種の一つに数えられる存在なのだ。なればこそ刑事などというものが必要とされる。しかしいわば同好の士の集いとも言えるこのお祭りイベントくらい、せめて平和で楽しい時間が流れてほしい。だから今日だけは呼び出しかかるような事件は起こらないでくれと能登は改めて願う。

 その隣でまた丹下が声をあげる。

「あそこにいるの、能登くんのとこのやつじゃないの? 〈御用くん〉だっけ?」

 はっと我に返って目を向けると、そこには江戸時代の岡っ引きをデフォルメしたキャラクターの着ぐるみが歩いていた。紛れもなく警視庁の新しいマスコットだ。

 長い間、警視庁のマスコットを務めたピーポくんはもういない。裸にガンベルトというデザインが大変に卑猥であるとのクレームを受け、引退を余儀なくされたのである。警視庁は犯罪を取り締まる側にありながら、長年にわたって不適切なマスコットを使用していた汚点を払拭するべく、この〈御用くん〉なるキャラクターを新たに採用したのだ。さらに言えばすでに複数の企画が用意されており、まだオフレコではあるもののキャラクターボイスがつくことがキャスティングを含めて決まっている。

 鳴坂恭治。

 能登は頭の中で、〈御用くん〉の声を務めるその人物の名前を思い浮かべていた。

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