三 仕事は明日にしよう
ある平日の昼前、警視庁捜査一課の事務室で一人の若い男がデスクに座っていた。男の名は能登弥比古。背丈こそ平均に達してはいるものの、こうした職種にあって場違いなばかりでなく、武道家のような古めかしい名前に似つかわしくない比較的細身の体型と長めの前髪、造作の控えめな主張の薄い顔、とどめとばかりにごくありきたりのセーターにジーンズという私服姿もあって傍目には実に頼りなく見える。
その能登はさも仕事をしているような姿勢をとりながらも、キーボードに置いた指の動きを止めていた。隣の席に腰かける上司の平越が、黒々と生い茂る口髭の下から不機嫌な声を漏らしはじめたためだ。左手に握る受話器の向こうにいるのは、テレビ局のディレクターである。
「昨日の特番、拝見させていただきましたが、事前の説明と違うじゃないですか。基本的に脚色抜きでと念押ししたのに、あれじゃあほとんどフィクションですよ。だいたい、視聴者にいい加減な知識を植えつけていいと思ってるんですか? 『どんな凶悪犯も必ず絞首台に送りこむ捜査一課強行捜査第十三係』なんて物騒な話まで盛って……」
抗議の内容は至極まっとうだ。番組は、単に係の数字と十三階段をかけたかっただけだろう。被疑者を起訴するのは警察ではなく検察であり、刑罰を決定するのは裁判所であるにも関わらず、演出優先でそうした基礎的な知識さえも視聴者としない。大手マスコミの煙たがられる所以だ──とフロアの一同は揃って頷き、仕事に勤しむふりをしつつ聞き耳を立てている。能登も周囲に合わせて同じようにしていたが、次の一言が出ると居心地が悪くなってしまう。
「しかも能登の顔を映さないでくださいと頼んだのに、約束を反故にするとはどういう事ですか? え? 手違い? そんなのはそちらの事情でしょう。挙句、イケメン刑事なんて勝手に渾名をつけてくれたおかげで業務に支障が出たんですよ」
辺り一帯に小さく息を吹きだす音と、どうにか押し殺そうとしながらも唇から漏れる失笑が木霊する。その原因は能登にも分かっていた。
「あれのどこがイケメンなんだとか、単にまあまあ若くて見た目が大人しそうなだけじゃないかとか、うちの署に抗議の電話が鳴りっぱなしだったんです!」
平越が大声で言及した点にも反論の余地はない。当時は寝不足で顔がむくんでいた、などという言い訳を持ちだすまでもなく、自身の容姿など大したものではないとの自覚は元からあった。とはいえ勝手に、しかも公共の電波で素顔を晒された経緯を耳にしては面白くなかった。能登はやおら机の上を片づけると、平越が受話器を置くのを見計らって立ちあがる。
「すみません、今日はこのあたりで帰らせていただいてもよろしいでしょうか」
能登は、心ならずも部下を馬鹿にしてしまったのに平越もばつの悪いをしているだろうと踏んでいた。そうでなければ言動に問題があったと気づかせようとした。早い話が上司の些細なコンプライアンス違反、というより抵触になるかならないかのポイントを突いてズル休みの取得を試みたのである。
捜査一課はひとたび事件が起きると帰宅が遅くなる。あるいは職場に何連泊もすることになる。ならば余裕のあるうちにさっさと帰ってしまおう。完全にサボりでの早退だが、この日のノルマはちゃんとこなした。今の季節は冬だ、インフルエンザにでも罹れば帰らざるを得ない。能登はにわかに湧きおこる良心の呵責に対抗すべく色々と理由を持ちだし、あたかも沈んだような表情を作るなどして落ちこんだ体を装ってみせる。
「あ、ああ。どうかしたか?」
「心身の不調で」
実際、その目論見は成功したといってよい。下手に引きとめてはハラスメントと受けとられかねないと判断したのかどうかは定かでないが、兎にも角にも平越から希望どおりの答えを引きだすことができたからである。
「おお、そうか。また明日な。病院、行ってこいよ」
「では、失礼いたします」
それを聞いてフロアを辞去し、ダウンコートを腕に巻きながら廊下を歩く能登の表情は早くも一転していた。警視庁のマスコットを象ったポップの脇をすり抜けて庁舎の玄関を出るときには、すでに顔から曇りを取り去っていたのである。
むろん変化はこれに留まらない。地下鉄の階段を降りる頃には、通路に掲げられているアニメ風のポスターや看板の前を通り過ぎるたびに頬を緩めるまでに機嫌を上向かせ、電車に乗りこんでスマートフォンのアプリで漫画を読む段になると、ついには目から嬉しげな光を放ち、全身からどこか晴れやかな空気さえ発散するようになっていた。
能登は捜査一課の刑事でありながら、勤務時間以外はどっぷり漫画やアニメに浸るオタクだったのである。しかも本人でさえ刑事がオタクなのか、オタクがたまたま刑事をやっているのか分からないほどの重度の入れこみようであり、勤務から解放されるや否や頭を趣味全開に切り替えるのが常となっていた。
先ほどのような形で庁舎を後にするのも、別にあれが初めてではない。捜査の真っ最中といった業務に支障が出る時期こそ避けてはいるが、仕事で扱う血なまぐさい出来事や職場に充満する無骨な空気から一刻も早く離れ、趣味に費やす時間を少しでも確保すべく何かにかこつけて昼間のうちに帰宅することがちょくちょくあった。周囲からも「仕方ない奴だ」「帰って趣味に没頭しているに違いない」「たぶんアニメかゲームだろ」などと囁かれているのにはうすうす気づいていながら、それでも治らない半ば癖のようになっていたのだった。
しかし、その能登の最大の楽しみは漫画を読んだり、街中に溢れる掲示物を眺めたりすることではない。むしろ有楽町線の終点である和光市駅を降り、自宅に着いてからが本番になる。玄関の扉を閉めて靴を脱ぐ仕草などは、第三者が見ればこのときをよほど待ち焦がれていたに違いないとすぐ分かるほどの慌ただしさだ。そしてその勢いのままカーテンは開けずに灯りだけを点けて生活感のない室内を光の下に晒し、帰り道にコンビニで買ったおにぎりとカップラーメンを胃の中に落としこむや、デスクトップパソコンと卓上のタブレットの起動が済むなり机に向かってスタイラスペンを前後左右にせわしなく動かしはじめる。
能登はオリジナルの漫画やイラストの執筆に至上の喜びを見いだす、正真正銘にして筋金入りオタクだったのである。
手つきからして実に慣れたものだ。真っさらな画面を前に素早く全体の構図を決め、下書きを経て線を画き、配色を決め、ハイライトや影を付けて若い女性の一枚絵を仕上げる。職務の性質からして余暇が保証されていないため、ここぞとばかりに時間が経つのも忘れて作業に没頭しているというのも一因にはあるが、熟達した技術で並の素人なら何日も費やす段階まで半日もかけずに仕上げてしまう。
そのうえ作業終了後の習慣も、ある意味オタクとして堂に入っていた。
集中力を一気に発揮したせいでさすがに神経が緩み、心地よい疲労感に襲われた能登は頃合いと見てこの日の執筆を終えるも、すぐには休憩に入らない。淹れたてのインスタントコーヒーに口を付けつつパソコン本体にデータを保存すると、薄い冊子が数えきれないほど並べられた本棚の奥から洋書らしき背表紙のものを一冊だけ抜きとる。
それは傍目には書籍にしか見えない、外装だけ精巧に作られたフェイクブックだった。表紙と裏表紙がそれぞれ小口の上下半分と一体になった化粧箱に近い構造となっており、蓋を開けると中には外付けハードディスクが鎮座している。パソコン本体に異常が発生しても諸々に支障が出ないよう備えておくのは能登のような活動に励む人間には常識であり、別個に記憶媒体を用意することそれ自体に何もおかしなところはない。にも関わらず、その記憶媒体をかくも面倒な手間をかけてまで隠すのには理由があった。
「男子ひとたび門を出ずれば七人の敵あり」「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし」との先言を引くまでもなく、警察官とは危険な職業だ。地域に関わらず、捜査一課となればいっそうその度合いは増す。ましてや圧倒的な人口を抱える東京都を管轄する警視庁ともなれば、生命の危機に晒される確率は飛びぬけて高い。能登は万が一、自らが命を落としたときに備え、執筆した作品を第三者に見られぬよう厳重に隠蔽していた。パソコンも一定期間、起動させなければ内容が空になるようにアプリをインストールしてある。
もちろんパソコンのデータなどその気になれば復元可能であり、フェイクブックにしても誰かに中身を見られる可能性はあった。たとえ何も知らずにゴミに出されても、処分される前に他の書籍との違いに気づかれればどうなるかは運次第だからだ。そもそも、こうして寛いでいる部屋にもアニメ調のアクリルスタンドとタペストリーが一枚ずつ掲げられている。いくらグッズの数が少ないといっても、どのような趣味の持ち主が住んでいたかは足を踏み入れれば誰でも容易に推測できようというものだ。それでも何もしないよりはましだろうと思わせるほど、能登は蓄積されたデータが警視庁捜査一課に所属する自身の手になるものと知られたくなかったのである。
では、その理由は何か。答えはいつものように外付けハードディスクへのデータの保存を終え、フェイクブックも元のように収納した能登の足元に置かれた段ボールにあった。中には数十部もの冊子が詰めこまれており、全ての表紙に右下に燦然と輝くX指定マークが記されている。紛れもない成人向けの同人誌だ。
能登は友人と共同でサークルを結成し、定期的に同人誌を発行していたのだった。おまけに外部からの評価はかなり高く、このときスマートフォンの画面に表示した通販サイトにもそれが反映されている。特に好評なのが毎回メインに押し出している女性警察官の描写であり、レビュー欄には「制服がリアルで芸が細かいですね」「衣装にこだわりがありますね」といった感想が寄せられていた。職務上かなりの頻度でそれらを目にしている作者にしてみれば当たり前でも、素人にはなかなか難しいらしい。またディティールへのこだわりは制服だけではなく手錠、警笛紐、拘束衣など多岐にわたっており、これらもまた熱心な愛読者を獲得する要因となっていた。
だからこそ能登は、なし崩し的な形で全国に顔を晒されたのに苛立った。同人誌は即売会で販売するため、能登も冊子を発行するサークルの人間としてブースに立つ。その際、顔が広く知られすぎていると都合が悪いのだ。違法行為でない以上、非番の日に何をしようと文句を言われる筋合いはないのだが、「あの刑事が同人誌の即売会なんかに」などと後ろ指をさされては肩身の狭い思いをする羽目になる。趣味のためにたびたび職場を早退するのを見透かされていることは百も承知でも、その内容を細部に至るまで噂されるとなると話は別だ。
もっとも、後から怒ったところでどうにもならない。だいたい、すでに即売会場に警視庁の人間が来ていることは十分に考えられる。具体的な趣味が何であるかを能登本人はどうにか隠し通しているつもりでも、実のところ職場にはとうの昔にばれているのかも知れないのだ。その即売会も次の日曜に迫っている。余計なことは考えずに楽しもう、と気分を変えるためにテレビ画面を点けた。
「さ~て、今日は声優が結婚を発表したときのファンの悲痛な叫びを紹介していくよ」
画面上に流れるのは、オタク界隈のニュースなどを提供する配信動画だ。それらで扱われる情報はたいてい既知のものなのだが、機械音声を使った緩い雰囲気が好みで能登は暇潰しによく視聴していた。
「最初は男性ファンの女性声優に対するものから。どれどれ……
『これからどうやって生きればいいか分からなくなった』
『この十年間、僕は何をやってたんだろう』
『去年のクリスマス、前後にアイツとよろしくやりながらイベントに出てたのかよ』
『もうどうでもいい。グッズは全部売ろう』
うわあ、聞いてるだけで絶望感が漂ってるね。じゃあ、次は女性ファンの男性声優に対する反応を見ていくよ。
『決めた。明日、事務所に車で突っ込むから』
『この売女! 地獄に堕ちやがれ』
『アタシは訴える。友達の弁護士に訊いたら勝てるって言ってたもん』
『何でうちらのモノを奪うんだよ。呪ってやる、祟ってやる』
どひゃ~、恐ろしい。何だかさっきと比べるとずいぶん違うね。男性ファンの方は内向きと言えばいいのかな、ひたすら悲痛な心情を表してる感じだけど、女性ファンの方は追いかけてた声優と結婚するお相手を責めてる。ものすごく攻撃的だね」
能登は動画を眺めながら、口の端を少しだけ上向かせる。ただし、内容を鵜呑みにはしていない。
こうした動画は、往々にして視聴者受けを狙ったエンタテイメントとしての側面が強い。男女のどちらがどんな風に嘆いているかは、実のところ分からないのではないか。全体に占める割合はともかく、男性の声優ファンにも周囲に怨嗟の声を撒き散らす者はいるだろうし、逆に女性ファンでもストレスに耐えかねて心を病んでしまう者はいるだろう。ひねくれ者を自認する能登にはときに強く偏見を避ける習性があり、またそのように振る舞うのに愉しみを覚えていた。
ゆえに刑事が私生活でマジメじゃなくてもいいじゃないか。映画はアクションをはじめとする実写には目もくれず、アニメ一筋でもいいじゃないか。読書といえばハードボイルド小説ではなく、ライトノベル一択でもいいじゃないか。密かに同人活動に精を出してもいいじゃないか。
そうだ、もうすぐ即売会だと能登は一人で勝手に開きなおる。この同人誌が多くの有志の目に触れ、読者の手に渡る今度の日曜は何と素晴らしい日になることだろう。だから、どうか事件は起こらないでほしい。もしそのような事態になれば、一応は休日に充てられている土日祝日でも緊急の呼び出しを受けてしまう。都内で自分たち捜査一課の出番がなくなることはないにしても、せめて即売会が終わるまでは待ってほしい。
能登は心から祈りながら、残りのインスタントコーヒーを静かに啜った。
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