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二 あいつら絶対に許さない ①

 鳴坂はその翌日、西新宿のスタジオでアニメの収録に入ろうとしていた。

 右手に握る台本の表紙には『桃色学園でハーレムを』と記されている。タイトルから想像できるとおり、地上波での深夜や年齢制限を設けてのCS放送、あるいは動画配信サービス等での公開を前提にした性的な描写が多く含まれる作品だ。

 こうした作品のキャストは無名や駆け出しというイメージが強いが、実際には地上波で放送される年齢制限なしのアニメに役名つきでクレジットされる程度にまで出世し、あるいは少なからぬ視聴者に存在が認知されるようになっても、従前と変わらず出演を続ける声優が一定数いる。現にこの作品も、ほとんどの演者が一定以上の知名度を備えていた。

 ただし、それは一般的なレベルの話である。様々なメディアに顔を出すほどの地位に上り詰めておきながら、なおこの類の作品に出続ける声優は少数といってよい。にも関わらず鳴坂がこの場にいるのは、作品に貴賤はないという信条を抱いているからだった。くえわて、これから業界で生きていく後輩に範を示す目的もある。内心でファンに抱く感情は別にして、自身をここまでにしてくれたジャンルに背を向ける行為を大いに嫌うなど、仕事に対しては常に真摯な態度で向きあっていたのである。当然、これらの姿勢を称賛する関係者は多かった。

「鳴坂くん、今日もよろしく」

 アフレコルームに入るなり、声をかけながら近づいてくる音響監督の佐治もそうしたスタッフの一人である。顎や口元に無精髭を生やしながらも人なつっこい笑みを浮かべているように、鳴坂とは個人的にも連絡を取りあう親しい間柄にあった。本来、佐治は細かなこだわりの持ち主であり、収録前の時間もたいてい声優やスタッフとの打ち合わせに費やすのだが、鳴坂に対しては全幅の信頼を寄せるようになって以降、あれこれ指示を出すことはなくなっていた。よって普段ならここで挨拶がてらに軽く話をすれば、あとは本番が始まるのを待つばかりという状態になるところだ。

「こちらこそ」

 しかしこの日に限っては違っていた。理由は言うまでもなく、伊崎ら六人を亡きものとする準備のためだ。鳴坂はあの日から内心で激しい怒りを募らせる傍ら、入念な計画を立てて着々と手筈を整えていた。

「そうそう、これ頼まれてたやつね」

 佐治が一本のUSBメモリを手渡してくる。中には、すでに収録されている他の声優の音声データが保存されていた。鳴坂はそれを受けとり軽く頭を下げる。

「ありがとうございます」

「でも、この形でよかったのか? メールで送った方が便利だと思うんだが」

「そっちの方が楽なんですが、万が一データがどこかから漏れたときに迷惑をかけてしまいますので」

「まあ、そういうこともあるな」

「それに、この場でちょっと聞かせてもらうだけでもだいぶ違うはずですから」

 鳴坂は事前に音声データの持ち出しを依頼するにあたり「一話分の放送を通して流した場合、視聴者が全体として声優のどんな演技を聞くことになるのかを自分の頭でイメージして収録に臨みたい」と、熟慮の末にもっともらしい理由を挙げていた。外部からの証拠を覚られぬようにとの真の目的を隠しつつ、データの受け渡し方法を指定したのもまた然りである。これらの答えには説得力があったようで、佐治も何の疑問も抱いていない様子だ。

「ずいぶん熱心だ。何にせよ鳴坂くんの言うことは理に適っているような気がするから、是非ためして後で感想を教えてくれ」

「はい、喜んで。とはいっても半分、実験みたいなものですけどね」

「本当はどんどん実験すればいいんだよ。他の若手も見習ってくれればいいのに」

「みんな他の仕事があるので、新しいアイディアというのはなかなか出てこないですよ。そもそも全員あつまって一度に収録できるのが本当は一番いいわけですし、今から僕がやろうとしているのも最初に収録した人にはどうしたって出来ないやり方でしょう」

「たしかに。それに誰もが周りを見る余裕があるわけでもなし、今日みたいに早めに現場入りできるわけでもなし。鳴坂くんだって、スケジュールの都合で来るのがギリギリにならざるを得ないときがあるだろうから」

「言われてみれば、そこは盲点でした。やり方は後で考える必要があるかも知れません」

「ただ、そうか。やっぱりデータで送信すればいいのか。コンプライアンスを遵守させて……」

 だが、時間的な余裕がそうあるわけではない。収録開始までに済ませておくべき用がある。鳴坂は時機を窺い、何やらぶつぶつと呟き腕を組みはじめる佐治との話を適当なところで切った。

「まあ、そのあたりはお任せするとして、僕はひとまず失礼します」

 それから急ぎ足で控室へ移動して椅子に腰を下ろすと、テーブル上で起動させておいたノートパソコンにUSBを接続させ、イヤホンで音源を聴くふりをしながらデータのコピーに入る。操作自体はごく簡単であり、画面上に表示されたウインドウ内のアイコンをクリックしてデスクトップに貼りつけるだけ。ロックや暗号化処理も施されておらず、作業はあっという間に終わった。念のためノートパソコンへ移しかえた方のデータから音声を再生してみると収録済みの音声がしっかり聞こえ、台本に目を通したところでも内容の一致が照合できる。つつがなくコピーが完了している証拠だった。

 あとは自宅でどこを使うかを吟味すればよいのだが、それでも鳴坂はしばらく耳にイヤホンを装着したままでいた。座席が控え室の隅に位置しているおかげで画面を盗み見られる心配はないものの、あくまでデータをこのスタジオでのみ確認している体をとっている。あまり早く席を立つと後で怪しまれる恐れがあった。また鳴坂は収録本番前に役に入ろうと試みることがあり、このときもそれを装って周囲に見せつけるように意味ありげな表情を作っていた。

 ただ、鳴坂がこの日に行うべき準備はこれだけではない。数分が経過すると今度はイヤホンを外し、USBも引き抜いてパソコンの電源を落とす。次いで台本をテーブルに置いて立ちあがり、替わりにあらかじめ渡されていた絵コンテを手に取り廊下から電話をかけた。スマートフォンのモニターには松崎という名前が表示されている。佐治と同様、個人的に仲のよいアニメーターだ。

「松崎さん? いま大丈夫?」

「鳴坂さん、何ですか?」

 受話器の向こうから若い女性の声が聞こえた。鳴坂が目の前に掲げる絵コンテには人ひとりが風呂場と思しき場所でシャワーを浴びる中、手前から湯けむりらしきものが上がる図面が描かれている。

「今スタジオで、ちょっと時間があるから確認したいことがあってさ。明乃ちゃんのシャワーシーン、地上波だと湯気で視界が隠れるけどCS版だと丸見えなんだよね?」

「ちょっと鳴坂さん、なにを言いだすかと思ったら」

「でもほら、僕の役がそこに入ってきてビックリするでしょ。せっかくだから演技に反映させようと思って」

 鳴坂が演じるのは異性への免疫が少ない男子高校生だ。今日はその男子高校生が偶然、明乃という女性キャラクターが入浴している最中に出くわしてしまうシーンを収録することになっている。

「でも、そのとき本当に全裸の明乃ちゃんが見えてるのと、湯気で視界が霞んでるのだと驚き方が違うはずだからさ、ホントはどっちなのか訊いておきたいんだ」

 手元の台本や絵コンテにはそれがはっきりとは示されていない。作品の傾向からおよその察しはついていたが、鳴坂には確認作業が必要だった。

 松崎はそうした意図に気づくことなく、笑いながらすぐに答えを返してくる。

「鳴坂さんて、ヘンなところで真面目なんですね」

「ヘンでも何でもないよ」

「ある意味、そうですけど。ただ鳴坂さんの言うとおりです。本当は見えてます。地上波ではモクモク立っている湯気がCSでは消えます」

「ありがとう。仕事中だったら邪魔だったかな」

「そんなことないですよ」

「とにかく助かった。そろそろアフレコ始まるから、じゃ、また」

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