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十七 輝く未来をこの手に

 十日後、鳴坂はスタジオでアフレコに入っていた。

 いつもと違い、前方のスクリーンには作画から着色まで完成されたアニメーション映像が流れている。未完成品でないのは、通常の作品とは違うためだ。手に持つ台本には、「警視庁犯罪防止啓発アニメ」の文字が記されている。

 この台本が届いたのは、能登を家から追い出して二日後のことだった。むろん能登をはじめとする警察からのコンタクトも途絶えている。はっきりとした連絡はなかったが、鳴坂はそれを警察による降伏の意思表示と捉えた。あの日、鳴坂が要求した具体的な物的証拠を何ひとつ提示できていない以上、きわめて自然な解釈だった。

 以降の作品お披露目までに至るスケジュールもかなり短かったが、鳴坂に文句などあろうはずがなかった。話自体が短くセリフの量も少ないうえ、あの犯罪を闇に葬るのに成功し、警察の捜査から逃れられたのだという嬉しさの方が勝っていたからだ。むしろこの日のアフレコを一種の勝利宣言と捉え、待ち望んでいたほどだ。

 その鳴坂は台本を目にしながら意気揚々と口を開く。

「待て、お前が犯人だな」

 すると隣で女性声優もセリフを発する。

「何で分かったの?」

 当然ながら鳴坂が警視庁のマスコットキャラクター〈御用くん〉、女性声優の方が犯人役である。

「足跡が残ってたからさ」

「そんな、気づかなかった」

「さあ、逮捕だ。罪は犯しちゃいけないよ。どんな犯罪も証拠がある。犯人は気づかないうちに証拠を残すものなんだからね。人に迷惑をかけちゃいけない、傷つけちゃいけない。僕との約束だ」

 実に他愛ない、内容も単純な児童向けの啓発アニメである。鳴坂は演技にこそ手を抜かずにいながら、アフレコが終わったあとで自身のセリフを嘲笑っていた。

「お疲れさまでした」

 あくまでこれは警察の主張だ。もし本当に犯罪者が全員、証拠を残しているならこの世に未解決事件は存在しない。

 鳴坂はいつもどおりスタッフらに丁寧に挨拶をし、スタジオを出た。時刻はすでに二十二時を回っていたが、駅までの距離も近い。何度も利用経験があり、帰り道も慣れている。信号待ちなどの間、ニュースでも見ようかとスマートフォンを取りだした。

 ところがロック画面を解除した直後、画面上にあるニュースが表示される。

「都内ホテルでの女性六名連続殺人事件、犯人着用の靴を警視庁が特定か。明日にも記者会見を行うとの発表」

 鳴坂はそれを目にして凍りついた。画面をタップして恐るおそる続きを読むと、次のような記載があった。

「警視庁は捜査が難航していた女性六名の連続殺人事件で、現場に血痕を踏んだ靴跡が残されていたことを発表した。この靴跡は以前から解析を進めていたが、全貌が分からなかったために犯人が着用していた靴の種類が不明なままだった。しかし残されていた靴跡の一部をデータベースと照合、特定に踏み切った模様。警視庁は現在明確な回答を避けているが、明日の記者会見で詳細を公表できる見通し」

 駅へと歩く鳴坂の頭には、混乱がとめどもなく湧きおこっていた。

 あの場で本当に血が飛んでいたかどうかなど覚えていない。少なくとも岸、山井、伊崎の三人を殺した際、飛沫を防ぐべくハンマーには布を巻いておいた。

 とはいえ、実際に血痕をゼロに抑えられたかどうかとなると話は別になる。

 何しろ当時は時間との勝負でもあった。防犯カメラに映らないよう帽子を被り、エレベーターを使って部屋に辿りつき、目的を果たした後は気づかれないようホテルを出て次の駅へ向かう必要があったからだ。いちいち血痕が飛んだか、自分でそれを踏んだかどうかまでは確認していない。いずれもそのような暇はなかった。

 もちろん、事件当時に履いていたのが正装用の革靴でなかったことだけは覚えている。雨でもなかったからレインブーツでもない。動きやすい黒のスニーカー、サイズは二五・五だ。

 だが、鳴坂は同じスニーカーを四足も持っている。あの三人を殺したときに履いていたのがどれだったかなど皆目見当がつかない。もしかすると事件当日に着用していたのは今、自身の足を覆っているスニーカーだったかも知れない。ぱっと見たところそれらしい汚れは確認できないが、細かく飛び散った血飛沫は目視するにはあまりに微細。おまけにスニーカーが黒色のせいで、血痕の有無を判別するのはきわめて困難だ。

 考えを巡らせるあまり、ふと我に返ったときにはすでに新宿三丁目駅の改札を潜り、到着した電車に足をかけていた。

 扉が閉まり、発車してからも鳴坂はシートに腰を下ろしたままこの先の対応を練る。

 警察内部の詳しい動きは分からない。しかしこれは二時間前のニュースで、すでに次の段階に移っている可能性がある。そうなれば警察は真っ先に自宅に押しかけてくるだろう。

 今になって足元に無頓着だったのがひたすら悔やまれる。思えば、事件当日に使用した靴はいち早く処分しておくべきだったのだ。だが何を言っても、もう遅い。今から出来るのは、警察が動きだしていないのを祈りつつ一刻も早く靴を処分することくらいだ。

 その方法も重要だ。間違ってもゴミ捨て場に放置するような真似はしてはならない。そんなことをすればハンマーの二の舞になる。

 では他にどうすればよいか。なかなかよい案が思いつかない。もし自家用車でも所有していればどこか遠くへ捨てに行けただろうが、不幸にも鳴坂は免許すら持っていなかった。辻に罪をなすりつけるのに一度は利用したこの状況が、よもや自身の逃げ道を狭める結果になろうとは思いも寄らない。

 もっとも、いつまでも考えこんでもいられない。自宅に着くまでに何かしらの答えを出す必要があった。車内の電光掲示板によれば電車は明大前を通過している。

 ならばどこかに埋めるのはどうか。ただ、これも今夜の決行は難しそうだ。だいいち自宅にシャベルがない。マンション住まいでは不要だからだ。また、掘る場所をどこにするかという問題がある。単純に地面がある場所は多いが、公園など公共の場所はいつ掘り返されるか分からないため論外だ。同様に人の出入りが少ない私有地も似たような危険がある。これらを短時間で考慮し選定するなど不可能に近い。

 電車は調布から相模線に入った。もう時間がない。駅の周りに何かないか、と手元のスマートフォンで地図を開くと、ある文字が目に入った。

 そこには三沢川とある。

 そうだ。自宅とは別方向のためすぐには気づかなかったが、川があった。川に捨てるしかない。後で警察に浚われるとしても、そのときにはすでに指紋は流されている。仮に血痕が付着していたとしても同じだ。当然、メーカーは特定され、靴底も足跡と照合されるだろうが、そこまでである。犯人と思しき人物が捨てたことまでしか分からない。

 もはや選択肢は一つだった。

 電車が若葉台に着き、扉が開くと鳴坂はすぐさま駅のホームに飛び降りた。そこからまっすぐ改札を抜け、いちど警察が来ていないかどうか辺りを見まわしたあと、人の気配が感じられないのを確かめ一目散に自宅へと向かった。

 マンションのドアを開けると、とうに仕事を終えていた萌が帰りを出迎えてくる。

「おかえり恭治」

 いつもならここから楽しいひとときが始まるのだが、この日ばかりは事情が違う。これからの幸せな生活を守るために、今日だけはそれを是が非でも我慢する必要があった。

「ただいま、と言いたいところだけど、ちょっとコンビニに買い物いってくる」

「えっ? 途中で寄ってくればよかったのに。だいたい、もう遅いよ」

 萌の反応はもっともだが、この場は何としてでも納得してもらわなければならない。

「すぐそこまで来たところで買わなきゃいけないものがあるのに気づいて、荷物だけでも置いておこうと思ったんだ。だから萌は先に休んでて」

「うん」

 そうした懸命の願いが通じたか、萌はそれ以上、特に何も言わず大人しく従ってくれるようだった。

 鳴坂はその様子を目にするなり靴を脱ぎ、何食わぬ顔で大きめの買い物バッグを手に取るとともに、部屋に留まる萌に声をかける。

「萌も遅くなると明日に響くから、早く寝た方がいい。鍵は持ってる。すぐに戻るから」

 それから萌が追ってこないのを確かめつつ、静かにクローゼットを開ける。続けて手早く黒のスニーカーを三足とも、くわえて先ほどまで自身が履いていた一足も買い物バッグに放りこみ、代わりに出した革靴に両足を詰めこみざま戸口から外へ飛びだした。

 鳴坂は早足でマンションの廊下を進み、階段を降りる。辺りには春先の適度に冷たい風が吹いていたが、それを感じるどころではない。ただ、少し走るだけで汗が滲むような夏でないのは助かった。

 はじめ早足だった鳴坂の歩調はすぐに小走りに、間もなく駆け足に変わる。当たり前だった。いま手元にある靴を捨てられるかどうかで未来が変わるのだから。

 もはやどれくらい進んだか分からないほど鳴坂の感覚は麻痺していた。地上に着いてマンションの敷地を出るまで大した歩数は要していないはずなのに、想像以上の長い距離と時間を走ったように思われた。また人の気配を察して迂回したのが拍車をかけたのだろうが、歩道をいくら進んでも目的地がますます遠のいていくような錯覚に襲われていた。

 それでも鳴坂は駅の手前で右に曲がり、坂道を降りて交差点を駆け抜ける。その先の小道を少し進めば橋に辿りつく。もう少し、もう少しだ。

 そう頭で考えた矢先、真向いから強い光が差しこんだ。

 照明だ。その周りに十人、いやそれ以上の数の人影が浮かびあがる。次いで後ろからも同じく光が差した。

「鳴坂さん、またお会いしましたね」

 姿形を確かめるまでもなく、誰かすぐに分かった。能登だ。あのときの言葉はハッタリや強がりではなかった。表情こそ陰に隠れてはいるものの、強烈な皮肉の意を向けてきているのがはっきり分かる。鳴坂は屈辱を感じつつも、それ以上の恐怖と絶望で声を出すことができなかった。

「何をお持ちですか?」

 これを見られたら終わりだ。いちかばちか、手放してしまえばいい。能登の質問に答える代わり、鳴坂は川に向かって走りだそうとした。

 しかしあらかじめ待ちかまえていたであろう捜査員が、それより早く眼前に現れ行く手を塞いだ。

 すぐさま腕を掴まれ、地面に引き倒される。バッグが手から離れ、草の上に四足の黒いスニーカーが転がった。

 そこに能登がゆっくりと近づいていき、手袋を嵌めた右手で拾いあげ、まじまじと眺める。

「罪をお認めになりますね?」

 言い逃れはできない。

 だが分からなかった。なぜ自分がこう動くのを察知できたのか? まさか、ニュースを発信したときからか? たったいちど口にした、情報はウェブで確認するという話を覚えていたのか? あれを聞き逃さなかったというのか? だとすれば、あの情報はこうしてボロを出させるための罠だったのか? スタジオを出てからの動きもGPSで掴んでいたのか? そうだ、全てそうに違いない。もしこの事件の捜査に当たったのが能登でなければ、別の結末を迎えていたのではないか……。頭の中では幾つもの疑問と後悔が渦巻いていた。

 何にせよ、もう終わりだ。自分のこの行動こそが動かぬ証拠だ。結局、この男の手で十三階段へ送られるのか。鳴坂は全身を恐怖に襲われながら首を縦に振った。

「ああ」

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