十四 隙を見つけたり ②
「ちょっといいか」
庁舎に戻るなり平越から声をかけられた能登は、大人しく席に座った。声の調子を窺うに上司は少しばかり苛ついているようだ。表情も冴えない。
「さっき、鳴坂の事務所から抗議の電話があったぞ。一昨日、疑ってるとはっきり言ったようだな。打ち合わせじゃ、ちょっと話を訊きにいくだけのはずだったじゃないか」
「はい。プレッシャーをかけてボロを出させようとしましたが、うまくいきませんでした」
「何でそれを報告してくれなかったんだ?」
「私個人の判断で行ったものですから」
能登は実のところその旨を知らせるべきかどうか迷い、最終的に否と決断して結果のみを簡潔に伝えていた。今さら報告したところで仕方ないと考えたのだ。
その意図を平越も汲んだか、大声で叱責するような真似はしない。ただ、明らかに窘めるような口調ではあった。
「君の独断専行は今に始まったことではないが、俺は電話口でしっかり脅されたぞ。事前の連絡もなく身辺を勝手に調べるとは何事だ、騒ぎになったときは訴えるとな。それだけじゃない。今は警視庁の仕事を契約したばかりだから当面は静かにしておくが、ほとぼりが冷めた頃にこの件を表に出してやるとか何とか」
取り調べの相手や容疑者から訴訟をちらつかせられることは日常茶飯事のため、警察官である以上、本来はこれしきの脅迫にいちいち怯えてなどいられない。
しかしこの場合は話が別だった。主に能登の手によって、平越やその上司らもそれなりに強気の姿勢をとらざるを得ない状況になってしまっている。もし現状のまま十分な証拠を得られず捜査打ち切りとなるか、逮捕はできても不起訴に終わろうものなら、警視庁はマスコットのキャラクターボイスという小さくはない仕事を頼んだ相手を不当に貶めた欠陥組織との誹りを受ける。
「とにかくだな……うえっ」
とりわけそのプレッシャーは平越にてきめんのようだった。小言の途中で喉の奥から胃液が上がってきたらしく、やや忙しい手つきで口元にハンカチを当てる。この立派な口髭の持ち主はいかつい外見に似合わず、強いストレスを受けるとすぐ消化器官に異常をきたしてしまうのだ。
能登はマイペースを貫きがちな性分ではあったが、ある程度までなら気遣いはできた。椅子から立ちあがり、湯飲み茶碗に水を汲んで差しだす。
「大丈夫ですか」
平越は引き出しから常備薬を手に取ると、それを茶碗の水で喉に流しこんでから何とか強気の皮肉を口にする。
「ああ、多分な。だがこんな風に心配してくれるんだったら、代わりに俺を安心させてくれないか。少しでいいから」
それでもなお声は弱々しい。この調子では課長やら部長、下手をすれば警視総監からも一度といわず、二度、三度と圧力を受けているに違いなかった。とはいえ能登の職務は上司を労わることではない。たとえ平越の胃袋が破壊されようと、優先させるべきはあくまで真相究明、事件の解決である。
「はい。畏まりました。ですが係長、そこまで気を揉まれる必要もないと思われます。と言いますのも本人にしても事務所にしても、あちらとしてはあくまで犯行には関与していないとの主張ですので、これ以上のアクションを我々にかけてくる可能性は低いからです。たとえば警視庁の仕事を降りるなど、あまり表立って騒ぎにすると逆にやましいところがあるのかと疑われてしまうでしょう。少なくとも、本人はこのまま仕事を続ける方が安全だと考えているのではないでしょうか。こちらの捜査をあえて受けることで、身の潔白を周囲に訴えようという魂胆もあるはずです」
実際、七人の女性が命を落とした大事件の最後の現場に居合わせたにも関わらず、世間から鳴坂の犯行を疑う声は聞こえてこない。仕事で警察と接触する機会があるのに、殺人など犯すはずがないという思い込みを巧みに利用しているのだ。事務所やマスコミを丸めこんだ手腕も含めて大胆不敵と言わざるを得ないが、警察としてもそこに付け入る隙がある。
「それに向こうがああした姿勢をとっているからこそ、我々が助かっている部分もあります。顔も名前も売れているせいで逃げ場がありませんから」
つまりは能登ら警察が納得いくまで捜査ができる利点もあるわけだ。
「俺が言いたいのはそういった話ではないのだが……まあ、そうか」
「ただ、係長」
その利点を活かして早急に行動をはじめた能登だが、ここで口調は自ずとトーンダウンしてしまう。せめて必要な情報は報告してほしいと言いたげだった平越も、表情を曇らせた能登が気になるのか胸中を覗きこむような視線を送ってくる。
「何だ?」
「つい今しがた、先日にお知らせした例の電話のアリバイが調べ終わったのですが」
例の、というのは鳴坂が主張した電話の件である。能登は印南から受け取ったリストをもとに、各人のスケジュールをそれぞれの事務所に問い合わせていた。
「残念ながら鳴坂の代役の出来そうな声優は、事件当時は別の場所にいたことが分かりました」
「鳴坂が二月三日、二十時半の少し前まで自宅にいたのは確かなわけだ」
この件に関しては、能登の期待は外れていたのである。
だが、それと分かったときの驚きはなかった。後になって、第三者に犯罪の片棒を担がせるのは何となく危険すぎる気がしたからだ。印南が候補に挙げたどの声優についても鳴坂と深い交流があるなどといった噂は聞いたことがなく、辻のように何の対価を払える相手とは思えなかった。さしたるメリットもなく危ない橋を渡るとはとうてい考えられなかったのだ。したがって追求するポイントがもしここだけであれば、またしても捜査方針の転換を検討しなければならないところではある。
しかしそうではないだけに、能登は余計に悩んでいた。
「ですが、その一方でSNSの発信は偽のアリバイかと思われます。該当部分の音源がUSBにコピーされていたことは間違いありませんので、そこから外部に持ち出していたのでしょう。スタッフを経由して渡されていたという証言があり、データも押収したUSBから復元済です。それだけではありません。辻がSNSで言及した箇所に関しても、どのように修正されるかをやはり鳴坂自身で小島というアニメーターに確認していたそうです。
ですからこう考えることができます。鳴坂は同じアニメ作品に関する二つの情報を入手し、一つは自身のアリバイを作るために、もう一つは辻さんに罪をなすりつけるために利用した。鳴坂はアニメーターから正確な情報を聞きとっておきながら、辻さんにはわざと誤った情報を伝えた」
「俺たちがSNSを調べたとき、辻が問題の時間帯にアリバイがなかったことを再認識するよう準備をしていた。また、俺たちにもそこを確かめるよう仕向けたというわけか。あり得る話だ。鳴坂自身の件も含めて、この点で突いてみるか?」
「聞くところによると演技に反映させる狙いがあるとか、もっともらしい理由づけをしているようですからそれは難しいかと。アリバイの偽装はまず認めないでしょう。
またこちらの方が重要なのですが、事件当日に二十時半の少し前まで自宅にいたのであれば、犯行現場に向かうのに最も早く乗れるのは若葉台駅発二十時四十六分の電車です。戻りは日づけが変わって一時一分着の電車だとしても、移動から殺人まで六か所全てを済ませるのに四時間あまりしかありません」
「新木場、住吉、北綾瀬、押上、赤羽、東日本橋の六か所で殺人を犯して回るには短すぎるな」
「仰るとおりです。仮に二十時半を過ぎてすぐ電車に乗ったとしても、それぞれの移動時間は新木場までが京王線と有楽町線で一時間八分、住吉までが半蔵門線で四十六分、北綾瀬までが伊勢崎線で三十四分、押上までが同じく伊勢崎線と千代田線を乗り継いで三十六分……。接続の悪い部分が相当ありますので、もうこの時点で日付が変わって零時二分。最後に殺されたと思われる伊崎さんの推定死亡時刻を過ぎています」
「完全にタイムアップだ」
「しかもこれは移動だけを考えた行程です。実際には以前、係長のお話にもあったように駅のホームからホテルまで徒歩で移動しなければなりませんし、部屋に着いたからといってすぐさま襲いかかるような真似はできなかったと思われます。さらに言えば被害者の意識を奪った後も窒息死させるために首を絞めていたはずですので、一か所につき三十分から四十分は時間が必要になります。駅を一つ降りるごとに、先ほどの行程から一本か二本、下手をすると三本ほど電車を遅らせなければなりません」
能登が頭を抱えているのは、自ら口にしたまさにこの点だった。現状では自宅との往復に犯行現場への移動、六件もの殺人をあれだけの時間で完遂するのは無理との結論を出さざるを得ない。かといって鳴坂は免許を取得しておらず、タクシーを利用した形跡もゼロ。考えられる移動手段は公共交通機関のみだ。SNSの件が偽証であろうとなかろうと、犯行は不可能ということになってしまう。
仮に強引に逮捕に踏み切ったとしても、おそらく無駄骨になる。今のままでは裁判にすら持ちこめず、検察が差し戻しの判断を下すだろう。辻香恋毒殺の容疑単体で逮捕すれば起訴は可能かも知れないが、裁判で遺書と六人殺害の関連が争点になる公算が大だ。そうなれば十中八九敗訴になるうえ、万が一、辻の殺害が認められたとしても六人の件は謎に包まれたままになってしまう。そもそもそのようなやり方は、事件の真相究明という警察本来の主旨から大きく外れている。能登は勝算があるからこそ鳴坂に宣戦布告したのだが、やはり勇み足だったかと後悔しはじめていた。
「たしかにこっちの調べでも、日付が変わってからCS電波の受信が途絶えたことが分かっている。あの夜、鳴坂は本当に自宅にいて、アニメを視聴していたのか。じゃあ、それなら鳴坂と辻が手分けをして六人を殺して回ったってことはないか? 辻が先に出発して、戻ってから鳴坂の自宅でスマホを操作する。鳴坂がその間、残りの何か所のホテルを回る。これならどうだ。能登、六人のチェックイン時刻は」
「把握はしておりますが、それはお手を煩わせるだけになるかと。六名が抵抗しなかった理由が説明できませんので」
「そうか、そうだった。それに関しての皆の意見は、やっぱり不自然だってことになってたな……。だとすると、やっぱり犯人はまったく別の人物なのか……?」
漫画喫茶のパソコンを調査した結果、辻のメールアカウントこそ発見できたものの、判明したのはアダルトグッズの購入のみ。これをもって身の潔白とする見解も警察の一部に存在している。しかしまだ捜査の手が行きとどいていないところで第三者と連絡をとっていた可能性もあった。そうなると平越が呟いたように、まだ見ぬ第三者を探すしかなくなる。
だが能登は鳴坂が犯人だと睨んでいた。
いくら何でも不審な点が多すぎるのである。例を一つ挙げるとすればGPSだ。以前はずっとオフにしていたのに――だからこそあの六人との接触が確認できないのだが――事件発生の五日前になっていきなりオンになった。習慣的にGPSの機能を切っていた状況を利用して一連の犯行を計画し、アリバイを偽装する段になって己の居場所を誇示したように見えるのだ。
また鳴坂と対峙して強く感じたこともある。鳴坂のあの目は犯罪者独特のそれで、間違いなくこちらを挑発していた。アリバイを崩してみろと言わんばかりの強い感情が込められていた。あちらがその態度で来るなら、こちらは策略を破りにいくまでだ。能登は外見と言動に似合わず、挑戦的な気質の持ち主でもあった。
その能登は頭を冷やすべく、いちど脳のはたらきをアリバイ周りから解放しようとした。とはいってもまったく捜査から離れる気にはなれず、半ば仕方なくといった形であの六人が結成していた同人サークル〈B.L.ワークス〉のホームページをデスクのパソコンで眺めてみることにする。これには事件解決の意思を新たに胸に刻む狙いもあった。能登は精神論など信じておらず、むしろ怒りが先走っては本来なら獲得できるはずの有用な発想にも辿りつけないと常々考えていた。しかし同時に熱意も必要だとの信念もある。能登は双方を両立させつつ、自己を振るい立たせようとしていた。
詰まるところ事件解決のヒントなど期待していなかったのだが、まったく意図しないタイミングでこれまで知らなかった情報が目に飛びこんできた。
このサークル名にはこんな経緯があったのか。名前からして別の意味だと思いこんでいたが違うのか。まったくもって意外だった。くわえて、ほとんどの人間も同じ感想をもつに違いないとの印象を抱く。
さらにマウスをクリックし、次の情報を追っていくとあることに気づいた。
こちらとあちらは過去、ああだったのか。おまけに今回の事件と照らし合わせるとこちらは全てこちらの方で、一方のあちらは全部あちらになる。偶然か?
いや偶然にしては出来すぎている。もしかすると、鳴坂はこれを何らかの形で利用したのではないか?
しかしどうやって?
何かが頭から生まれようとしている。ところがなかなか出てこない。もう一つ別の要素が必要だ。それさえあれば鳴坂のアリバイが破れるかも知れないのに、疲労でうまく頭が回らない。
しかもそこへ来て思わぬ雑音が耳に入る。
「さあ今夜、ついに決着――」
見れば、平越が事務室のテレビを食い入るように覗きこんでいた。画面に映っているのは地上波の恋愛リアリティ番組で、たしか配信動画の合間にもコマーシャルが流れていたはずだ。民放とネット配信サイトの共同制作だった気がする。能登は平越の好みがこの手のエンタテイメントであると初めて知り、少し驚いて声をかけた。
「係長。こういった番組がお好きだとは存じあげませんでした」
「その言い方、バカにしてるだろ」
番組はじまって早々、スポンサー名の表示される間だけと言わんばかりに平越が答えを返してくる。
「決してそういう意味では……」
「いいんだよ。最近の若い連中、地上波なんて観ないもんな。珍しくテレビの前に座ってると思ったら、観てるのは配信動画だもんな。俺も大体の番組はつまらないと思うよ。でもちょこっとだけ面白いのも残ってるんだ。たまにはいいもんだぞ、地上波も」
「でもヤラセですよ」
「それを知った上で楽しんでるんだよ。見せ物だって分かりきってるショーなんだから」
だが、平越はすぐに黙りこんでしまう。明らかに話などしていられないといった雰囲気だ。いよいよ番組本編に突入となれば致し方のないところではある。能登も上司のおそらく数少ないであろう楽しみの一つを邪魔しないよう、話を止めてその姿を後ろから眺めた。
画面には、先週までのダイジェストが流れている。たぶん初見か、前回の放送を見逃した視聴者向けの説明も兼ねているのだ。
しかしそれにしては妙に頭に入りづらい。誰と誰がどうしただのといった興味のない人間にとって置いてきぼり同然の内容以前に、カットがやたら細切れで纏まりがないせいだ。全体像を示した方がいいのに、なぜ分かりにくくするのか。そのくせ素人だかタレントだか区別のつかない出演者の顔が妙に長くアップで映しだされている。地上波放送特有のひどい引き延ばし方だ……。
そう声には出さず色々と注文を付けだした次の瞬間、脳にひらめきが走った。まるで頭のてっぺんから足先にかけて電流が走ったようだった。
能登はガタッと大きな音とともに椅子から立ちあがる。
「おいっ、どうした?」
今度は平越が驚いてテレビ画面から目を離すも、能登の耳には届かない。周りの視線など気に留める余裕もなく、再び椅子に座るや否やパソコンの画面に地下鉄の路線図を映しだした。
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