十四 隙を見つけたり ①
翌日、能登は早くも鳴坂に予告したとおりの行動に移っていた。
足を運んだのは渋谷の貸しスタジオ。だが平日の昼間だけにアフレコルームでは収録が行われている。能登は壁に寄りかかってそれが終わるのを待ちながら、鳴坂から突きつけられた難題にひとり頭を悩ませていた。
鳴坂が主張する事件当夜のアリバイは、製作スタッフへの電話とSNSの発信、コンビニ利用の三つだ。これらは一見すると盤石なように思える。現にコンビニについては疑いようがない。防犯カメラの映像という動かぬ証拠があるのだから。
しかし他の二つについては疑問の余地があった。
まず製作会社のスタッフに連絡をとったといっても、あくまで電話越しでの話である。相手が鳴坂の姿を見たわけではない。またSNSの発信がアリバイとして認められるのは、事前情報が正規のルートでしか手に入らない場合に限られる。もしイレギュラーな方法で共演者の演技を知ることができたとしたら、当然ながら状況は変わってくる。
つまり鳴坂の主張するアリバイのうち認められるのは最後の一つだけで、その前の二つは偽りなのではないか。終電の時刻が決まっている以上、それより遅く帰宅することはできないが、代わりに早く自宅を出発して六人を殺害する時間を確保したのではないか。
そんな風に能登が考えを巡らせていると、アフレコルームの扉が開いてスタッフと思しき若い男が現れる。容姿風貌からしてこの男が目当ての人物だ。能登は壁から背を離し、ゆっくりと歩みよる。
「あのう」
「どちら様ですか?」
ずいぶんと訝しげだが、以前に聞き込みに当たったのは別の刑事だった。見知らぬ相手から声をかけられたとなれば普通の反応である。ましてや能登はいつものように私服なのだ。警戒を解くつもりで警察手帳を見せ、身分を名乗った。
「先日はご協力、ありがとうございました。印南さまですね。私、警視庁の能登と申します」
ところが印南はにこりともせず、ぶっきらぼうに口を開く。
「刑事さんですか。会社の方から話は聞いてます。何を知りたいんですか?」
「詳しい話は、あちらの方でお訊きしたいと思いまして」
そのとき能登も顔と名前の一致する声優が、おそらく休憩のために遅れて部屋から出てきた。同時に、二人の方にちらちらと視線を送ってくるのが見える。印南も妙な注目を浴びてまでこの場に留まるのは賢明でないと判断したらしい。
「休憩の間だけですよ」
提案が受け入れられた能登は、人の行き来が少ない廊下の隅まで印南とともに移動してから話を始める。
「本日確認しておきたいのは、鳴坂さんの電話とSNSの発信内容についてでして」
その能登は、年下の印南にも丁寧にものを言う。常日頃から、可能な限り相手の性別や年齢、職業などで態度を変えないよう心がけていたのだ。とりわけ聞き込みで不快感を抱かれては、正確な情報を獲得できない恐れがあるからでもあった。
「よろしいでしょうか。まず、鳴坂さんがあなたに電話をかけたというお話でしたが……」
だが印南はそこで質問を遮る。顔に目をやると、視線を脇に逸らしていた。
「刑事さん、それには答えなくちゃいけないんですか?」
「お願いします。捜査のためなんです」
「刑事さんは、鳴坂さんを疑ってるんでしょ?」
しかも軽くではあるものの能登が頭を下げているというのに、今度は差すような目つきを向けてくる。敵意とまではいかないまでも、攻撃的な感情が含まれているのが分かった。
こうした相手に、能登は真実を告げると決めている。騙されたと主張してきた場合に問題となるのが理由の一つにも挙げられるが、何といっても個人的に嘘を嫌っているためだった。むろん容疑者と対峙する際など例外もあるとはいえ、目の前にいる人物はそうではない。
「未だに容疑者が定まっていない以上、そうでないとは申し上げられません。会食に同席されていた方が亡くなっていて、しかも毒物を混入した可能性のある第三者も見つかっていないわけですから。ただし情報の内容によっては、逆に鳴坂さんが捜査の対象から外れるかも知れません。もちろん犯行が不可能だと分かればですけれども」
能登の真摯な回答が功を奏したか、印南は態度を改める。しかし次には懇願するような眼差しを向けてきてからぽつりと呟く。
「刑事さん、どうして質問の対象が僕なんですか」
「無作為にあなたを選んだわけではありません。事前にご説明させていただいたように」
「僕、鳴坂さんによくしてもらってるんですよ。そんな僕にどう答えろって言うんですか?」
話を途中で遮られるも、能登は声を震わせる印南に対して強くは出ない。むしろ押し黙って小さく瞼を伏せることしかできなかった。
能登は、印南を鳴坂の出演作品に携わるADの一人としか見ていなかった。あの夜に電話を受けたのも鳴坂の都合だけだと考えていた。
だがこうして話を聞いた今になって、それが間違いだったことが分かる。目の前の相手を慮ろうと心がけていたつもりでも、捜査の進展を急ぐあまり不十分になってしまっていた。家族親戚、親しい友人などに殺人容疑がかけられたとなれば誰もよい気持ちはしない。事前に警察から連絡が入った時点で、相当なストレスになっていただろう。
能登にとって、そこがこの仕事のもっとも嫌な部分だった。刑事である自分が聞き込みなど方々に働きかけることで、関係者を嫌でも不幸にしてしまう。捜査対象の人格は様々だが、能登個人の心情だけを考えれば好ましからぬ性格や履歴の持ち主の方が楽だった。周囲がその人物の事件への関与を覚ったところで、悲しみも怒りもしないからだ。逆に捜査の対象が周りから好かれている場合、関係者はかなりの割合でこの印南のように動揺する。のみならず、怨嗟の声さえ浴びせてくるケースもしばしばあった。
本来、刑事はそういった反応にいちいち気を病んではいられないのだが、能登は繊細だった。ゆえによく悩み、逡巡から逃れる目的もあって勤務時間外は趣味に没頭している。それでもこうした場面では苦痛から逃れられない。ましてや鳴坂は結婚を控えている。その結婚相手である人気声優の桐ケ谷萌も、特別なファンではない能登でさえ幾つか微笑ましいエピソードを伝え聞いている人物だ。事件の真相が明るみに出た暁には、間違いなく深く嘆き悲しむだろう。それを思うと辛かった。
そのうえ、声優としての鳴坂恭治を惜しむ気持ちもある。想定どおり捜査が進めば能登が鳴坂を逮捕することになり、起訴後に有罪が確定すれば死刑は免れない。あれだけの素晴らしい演技が聞けなくなるのは一個人として残念だった。同じ心情のファンは山ほどいるだろう。もしかすると警察に恨みを抱くに留まらず、担当刑事を探しだして復讐を企てる者さえ現れるかも知れない。
ただ、能登は追及の手を緩めるわけにはいかない。どんなに優れた能力、業績の持ち主でも殺人は許されない。脅迫を受けていたとしても、殺人を許してはいけない。
そのためにも能登は、機械的にただ職務をこなしているわけでないという心情を伝えた。
「これは大変な失礼をいたしました。あなたと鳴坂さんが親しくされていることは存じあげませんでした。しかし私も職務上、どうしてもお訊きしなければなりませんので」
「そんな見え透いた嘘を」
なおも印南が疑いを晴らさないのを見ると、さらに能登が実際に視聴していた四つの作品の名を挙げる。いずれも視聴者には好評を博しながら、深夜という放送時間帯ときわどい描写のため表では話題にならなかった良作だった。
「嘘ではありません。私、実は仕事が終わるとだいたいアニメを観ておりまして。あなたの会社〈S・Kスタジオ〉のご高名は、前々から存じあげておりました。面白かったですよ、『けだものメイト』に『ご注文はバニーですか?』、あと『幻想世界の飾り窓』、『ハイスクール・エブリデイ』も」
すると印南は、ようやく顔を綻ばせた。特に印南の所属する会社で製作されたアニメの作品名が、水を得た魚のようにすらすら口をついて出てきたのが大きかったのだろう。かなりアニメに嵌っていないと製作会社にまで気が回らない。目の前の刑事が重度のオタクであることをようやく認識したようだった。
「刑事さん、あれ観てたんですね。僕はそのときまだ就職してませんでしたけど、好きでしたよ」
「どれも良かったですよね」
「というか刑事さん、大丈夫なんですか? あんなの観てるのがバレたら周りから怒られませんか?」
「まったく問題ありません。社会的によからぬ組織とお付き合いをしているわけでも、違法なギャンブルにお金を注ぎこんでいるわけでもありませんので。公共の電波で放送されているものを観て、どこがまずいのでしょうか?」
能登の口ぶりがよほどおかしかったのか、印南はそこで声をあげて笑う。
「いけないことはないんですけど、どうもイメージと違ってて……」
「まあ、刑事といっても仕事から解放されたら自由なわけです。平たく言えばサラリーマン。そのあたりを歩いている一般の方と何ら変わりありません。だいたい、この見た目で通用しているわけですから。というわけで、改めてお願いしたい。ご協力いただけませんか?」
おかげで三度目の正直か、ついに考えを変えるのに成功したようだ。印南は何度か小さく首を縦に振る。
「ええ。いいですよ」
能登はそれを見て話を再開した。ここからようやく本題だ。
「ご協力、感謝いたします。では、まず二月三日、鳴坂さんが電話をかけてきた件についてですが、あれは本当に鳴坂さんでしたか?」
今度は印南も素直に答えを口にする。表情も先ほどとはまったく違って穏やかだ。
「はい。スマホに表示されたのは見慣れない番号でしたけど、たしかに鳴坂さんでした」
「そう判断した理由は?」
「もちろん声です。僕は鳴坂さんと電話で話したことがありましたから、聞きおぼえがありましたし」
「受話器越しでも?」
鳴坂が主張する電話のアリバイについて、能登が疑っているのはこの部分だった。例の遺書にあった辻がボイスチェンジャーを使用していたという記述から、実は鳴坂こそが互いの顔が見えない状況、くわえて受話器越しだと人の声が判別しづらくなる点を利用し、第三者に自身の成りすましをさせて電話に出していたのではないかと踏んでいたのである。
能登はその可能性を探るため、質問を続けていく。
「受話器越しでも分かります」
「ですが、あなたは他にもたくさんの声優さんとお仕事をされていますよね。鳴坂さんと似たような声が出せる、もっと言えば真似ができる方はご存じありませんか? 特に鳴坂さんと親しい方で」
「知ってるとは思いますけど、鳴坂さんの地声はあんまり特徴がないんです。なので、その気になれば真似できる人も中にはいるでしょうね。ただし、声だけだったらですけど。逆に発音なんかは難しいんじゃないかなあ。鳴坂さん、ふだん話をしててもぜんぜん癖とか訛りがないんです。本当に教科書どおりのイントネーションなんです。
だからそういうところを考えると、あのときの声はたしかに鳴坂さんだったはずです。発音とかイントネーションにも不自然な部分はなかった気がします。馴染みがない人は騙せちゃうこともあるでしょうけど、そうだったら多分、僕が何か気づいてます。もし別の人だとしたら、相当うまい人ですよ」
印南の挙動、声の調子からして偽りのようには感じられない。特徴がなさすぎる、発声や発音が完璧であるがゆえに成りすましが難しいという所見にも説得力がある。能登はこの場では期待していた答えは得られないとだろうと思いつつも、後で調べを進めるべく、メモ帳から用紙を一枚だけ切り離してボールペンとともに印南に渡した。
「そうでしたか……。ですが念のため、あなたが思いつく声優さんのお名前だけでも教えていただけると助かります。お手数ですが、こちらにお書きいただけませんか」
「分かりました」
印南は四、五秒ほど視線を宙に向けたあと、滑らかな手つきでボールペンを走らせる。
能登は一枚で足りなければもう何枚か渡すつもりでいたが、メモ用紙は二分と経たないうちに返ってきた。そこに書かれていたのは、どれも馴染み深い五人の声優の名前である。しかも記憶が正しければ、ひとまず納得できる人物ばかりだ。
能登はこれでも一応は収穫があったと自らに言いきかせ、話を切りかえた。
「では今度は、SNSについてです」
それから公用のタブレットを使い、事件当日の放送でアドリブが発覚したという例の発信を表示させる。メッセージに関するアリバイの裏付けを確かめようとしたのだ。
「この情報を本放送前に鳴坂さんが手に入れていたか、お訊きしたいと思いまして」
「あれが三笠さんのアドリブだってことを、ですか?」
「そうです」
「普通、出演者が放送前に分かるのは、渡された台本の内容とアフレコのときに流れる映像、あとは必要に応じてスタジオなんかで見せられる絵コンテだけですよ。
あの作品でもそれは同じだったはずです。鳴坂さんだけが特別に何かしてたかどうかも分かりませんね。正直言うとあれからもいろいろ一緒に仕事してますから、記憶がごっちゃになっててあんまり覚えてないんです。ごく自然に、真面目に仕事をされているようにしか見えなくて。でも多分、一緒にアフレコしてない他の声優さんの演技を知るのは無理なんじゃないかと思います。もちろん、個人的にコンタクト取ってたらいろいろ聞きだしたりできるでしょうけど。
本当にすみません。もし僕が鳴坂さんにかかりきりだったらいろいろ覚えてられるんですけど、特にこのところ忙しくてあちこち動き回ってますし、現場を仕切ってるのはチーフの佐治さんですから」
だがこちらに関しても、やはり期待していた情報は得られないのか。能登は足元に目を落とし、こめかみに指を当てる。製作会社への問い合わせにより、佐治というベテランのスタッフが音響監督を務めていることは把握していた。
「そのチーフの方というのは、鳴坂さんとは親しいわけですか?」
「はい。僕よりずっと付き合いが長いそうです」
印南の心苦しそうな表情から察するに、嘘偽りを口にしているわけではないようだ。
ならば佐治に接触してみるというのも一つの手である。ただしその場合、今のような好意的な態度は望み薄だ。悪い言い方をすれば印南は能登より若く、かつ鳴坂と知り合って日が浅いからこそこうして協力を仰ぐことができた。いっぽう佐治は、鳴坂との付き合いがかなり長いという。事によっては証拠を隠滅される恐れがあった。
そのためにも安易に手を広げる前に手を打とうと、能登はどうにか食いさがる。
「そうであれば質問の仕方を変えましょう。鳴坂さんとその佐治さんは、最近、どんなやりとりをされていますか? 佐治さんとでなくても、鳴坂さんのお仕事ぶりでお気づきになった変化はありませんか? どんな小さなことでも結構ですので」
「佐治さんとどんなやりとりしてるかまでは……現場は結構、バタバタしてますから……」
それでも印南が俯きながら呟くのを前にして、結局は手応えなしかと諦めかけたとき、何かを思いだしたような声が不意に耳に届いた。
「そうだ。佐治さんがそんな話をしてましたね。ちょっと前に『話ひとつを通してどんな風になるか、イメージが必要だから先に収録した他の方の演技を知りたい』とか言われて、鳴坂さんに音源をコピーして渡してたって。佐治さん、たしかにそう言ってました」
「本当ですか!」
それだ。鳴坂は自身の勤勉なイメージを利用して、本来は知り得ない情報を入手したのだ。
「いや、思い出しました。佐治さんだけじゃありません。たしか僕のところにも電話がかかってきました。何でも演技の質を高めるために試行錯誤している最中で、前回は佐治さんにお願いしたから、僕にも頼みたいとか」
おまけにそのときだけの特別な行動であると覚られないよう、いかにもそれらしい理由をつけて習慣のように見せかけていたのだろう。実に用意周到だ。もっとも、そのおかげで大きな手掛かりを得ることができたのだが。
「ちなみに、その音源をどのように渡されたわけですか?」
「さすがにメールで送信するのは危ないので、USBで渡しました」
「それは会社にありますか?」
「もちろんあります。ただ四本あるのでどれかは分かりません。そのうちの一本なのは間違いありませんが」
印南の答えを聞き、能登は軽く拳を握った。現物があれば、指紋の有無が検証できる。仮に指紋が拭きとられていても、中身を確認できる。たとえデータが消去されていても復元が可能だ。
能登は即座に深々と頭を下げた。
「そのUSBを是非お貸しください。四本とも全てです。可能であれば、今日にでも」
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