一 もういらないよお前 ②
二日後、鳴坂は暗闇と冷たい空気に包まれた建物の中をゆっくりと歩きまわっていた。手元の細い懐中電灯が、土埃で汚れたコンクリート敷きの床を照らしていく。
そこは東京から遠く離れた、長野にある農家の倉庫だった。
「ねえ、まだなの?」
遠くから高く澄んだ声が聞こえる。
「もうちょっと待って」
鳴坂は萌の呼びかけに応えながら、四方八方に視線を巡らせた。眼前の棚にあるのは工具類、隣にあるのはチェーンソー、逆隣にあるのは刈払機。背後に並ぶのはトラクターに軽トラックだ。家探しを開始して以降、二、三度ばかり屋内の隅から隅へと足を運んでいるのだが、目当てのものが見つからずにじりじりと焦りを感じていた。
記憶に誤りがなければ、たしかにあるはず。といってもこの倉庫に入るのは本当に久しぶりのため、知らないうちに別の場所へ移動させられていることは十分に考えられた。駄目なのか、だとすれば代替手段をどうしようかと諦めかけた矢先、それまで見落としていたと思しき倉庫の一角にぽつんとある容器が置かれているのが目に入る。急いで歩みより、手袋を嵌めたまま持ちあげてみるとラベルが貼られているのが分かった。
〈シアン化ナトリウム〉
これだ。これこそが探していた目当てのものだ。鳴坂は薬剤の名前を確かめ、容器の蓋を開けて白い粉末状の内容物を一部だけ持参した小ビンに移しかえた。それを肩にかけていたショルダーバッグにしまい、薬剤の容器を元に戻してから、さあらぬ体を装いつつ外に向かって軽く声をかける。
「もう出るよ。ないのが分かった」
そして倉庫から出ると、少し離れたところに鳴坂の両親と萌が立っているのが見えた。その近くには築年数の経った民家があり、さらに背後には田畑と果樹園が広がっている。
鳴坂は先ほど、年始の帰省も兼ねて自身の両親に萌との婚約を報告したばかりだった。マスコミ報道が先行する形にはなったものの、比較的はやい段階で交際の事実を伝えていたおかげで、萌の両親と同様に快諾の返事を受けることができていた。
したがって本来ならあとは東京まで帰るだけなのだが、二人とも都内暮らしで免許も自家用車も持っていない以上、用が済んだらすぐ出発というわけにいかない。電車に乗るため駅へ向かうにもタクシーを呼び、到着を待つ必要がある。鳴坂はその合間を利用して、家探しをしていたのだ。
「早く、早く。運転手さん、待たせたら悪いわよ」
しかも萌の言葉から察するに、ちょうどいいタイミングでその帰りのタクシーが来てくれたらしい。早足に敷地の外へ向かうと、路肩に車両を停めて扉を開けていた。鳴坂はつとめて落ち着いた仕草で萌とともに後部座席に乗りこむ。
「じゃあね。あっちに着いたら連絡するよ」
今の今まで倉庫で何をしていたかをまったく知らない両親は、ただただこの日の結婚報告に満足しているようで、息子がそう口にするより早く笑顔で手を振りはじめる。鳴坂も扉が閉まってタクシーが発進し、両親の姿が見えなくなるまで窓ガラス越しに別れの挨拶を送った。
それから程なくして視線を隣に座る萌に移す。少しばかり感傷的な声が聞こえたからだ。
「恭治、探してたもの、見つからなくてがっかりしてる?」
「しょうがないよ。多分、いつの間にか処分されちゃったんだ」
「ご両親はいじってないって話をされていたようだけど」
「ずっと前のことだからね。忘れたのかも知れない」
「そうだとしても、ちょっと残念」
「作品名とタイトルは分かってるんだから、その気になれば買えるよ。こんど注文しようか」
「そういうことじゃなくて、恭治が小さいときに読んでたのが見てみたかったの」
鳴坂は倉庫に立ち寄るにあたって、最近になって都内で昔の友達と会い、小さい頃に外で拾い親に内緒で隠した漫画の単行本が話題に上ったので探したいと嘘の理由を述べていた。また時間は帰りのタクシーが来るまでのほんのわずかで十分であり、場所も分かりづらく、皆そこそこ小綺麗な格好をしているので汚れては申し訳ないとも申し添えている。ともかく色々と言い繕って、自分以外は倉庫に入らないようにしていたのである。
それら一連の嘘をまったく疑わずにいる萌は、実家で両親から見せられた幼少期の鳴坂の写真をコピーしていたらしく、タブレットを熱心に眺めていた。鳴坂はその整った横顔を見やり、己の行動を何としてでも知られてはならないとひとり固く肝に銘じる。
しかし次に目を下方へ向けると、考えが別の方に行ってしまう。
「そんなの見てるんだ」
自ずと顔に苦々しい表情が浮かんだ。
「いいじゃないの。私が知らない恭治なんだから」
「いや、悪い印象もつかもと思って」
「そんな風に思うわけないでしょ。ただ最初ちょっとびっくりしたかな。外見の印象、ずいぶん変わったんだなって」
事実、幼少期の鳴坂の容姿は現在とは大きくかけ離れていた。共通点は標準よりやや長い脚くらいで、他はほぼ別人と言ってよい。もし何も知らない第三者が写真に写る頬や顎、胴体に分厚くまとわりつく脂肪、余計に幅がある低い鼻、垂れ下がった瞼などを目にしても、これを過去の鳴坂と見抜くことはまずできないだろうと思われるほどだ。ここ長野で生活していた頃の鳴坂は、本当に地味で平凡な存在だったのである。
だが高校三年のある日、とつぜん人生に転機が訪れる。何の気なしにテレビ画面に映るアニメキャラクターの真似をしたところ、これまで特別な勉強はおろか練習などひとつもしていなかったのに、その演技の質がプロと遜色ないように感じられたのだ。
自らの隠れた才能に気づいた鳴坂は、両親の反対を振りきって高校卒業後に上京し、アルバイトの傍ら専門学校に通った。するとはじめ素人芸に過ぎなかった声優としての技能はたちまち研ぎすまされ、さほど間を置かずして噂を聞きつけた関係者から声をかけられるようになる。さらに現場で演技をしてみせるとその実力がより多くの人間に知れわたることとなり、評判が評判を呼んで一躍脚光を浴びる存在となった。
ところが当時は、目玉となる若手の男性声優が不在の状態だった。すでにトップレベルの演技力を備えていた鳴坂の登場は喜ばれたものの、業界内では活性化のためにそれだけでは足りないとの声が早くも聞こえはじめていた。
そこで所属事務所は、鳴坂を容姿やトークスキルを備えたタレント路線で売りだすことに決める。その力の入れようは半端なものではなく、本来ならネックとなる小太りの体型をはじめとした冴えない容姿を根底から変えるよう鳴坂本人に厳命、脂肪吸引や鼻中隔延長術、二重埋没法による瞼の整形手術といった徹底した肉体改造を即座に施したのだ。かくして実力と容姿を兼ね備え、男性から主に演技力を驚嘆されるとともに女性からは憧憬の念を抱かれる人気声優・鳴坂恭治が誕生したのである。
だからこそ鳴坂は過去の自身の姿をできるだけ視界に入れまいとしていた。写真にしろ映像にしろ、特別な能力もなく人から見向きもされなかった頃を思い出し、下手をすると当時に立ち返ったような気分になってしまうからである。
同時にそうした心理の持ち主だけに、鳴坂はイベントで毎度のように現れては熱を帯びた視線を向けてくるファンをひそかに軽蔑していた。自分と同じく漫画やアニメに接しながらもひたすら消費する側に留まりつづけ、一芸を身に着ける、容姿を磨くなど意識や行動しだいで様々な欲求も満たせるというのに、そのための努力もしない怠惰な連中だと見下していたのだ。
ましてやあの六人に至っては我慢がならなかった。消費者の立場を貫くのは自由であり、身の丈に合った楽しみを追求するのも勝手だが、いずれも取るに足らない容姿の持ち主のくせに法外な要求を突きつけてきた。顔だけでも及第点と呼べるのはせいぜい一人、甘く査定しても二人といったところで、雰囲気やファッションのちぐはぐさを含めると全員論外となる。さらに言えば仕草ひとつとっても不快感の塊と表現して差しつかえなく、カラオケボックスで粘りつくような表情を向けられたときなどあまりの気持ち悪さに半ば吐き気を催したほどだ。あんな奴らにこれから付きまとわれるかと思うと身の毛がよだつ。隣に座る萌とは大違いどころか、同じ生き物と見なしたくもない。
何より伊崎ら六人は偶然、弱みを握ったのをいいことに自身の人生を破壊しようとしている。ここまで辿りつくのに、尋常でない努力を積み重ねてきたのだ。演技は没頭している最中こそ強い充実感を味わえるものの、決して楽しいばかりではなく大きな労力も伴う。また実力があるからといって、それだけで大役が回ってくるわけでもない。名が売れる仕事を得るべく、男女かまわず枕営業に励んだ時期もある。その結果、ようやく手に入れた現在の地位をどうして台無しにできるだろうか。
どうせあの六人の要求を呑んだところで秘密が守られる保証はない。あちらが証拠を握っている限り、永遠にユスられるのは火を見るより明らかだ。ならば殺してやる! こちらから息の根を止めてやる! すでに鳴坂の中では彼女たちへの嫌悪が憎悪となり、憎悪が殺意に変わっていた。
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