十一 この幸せを守る
同じ頃、鳴坂は自宅のマンションでソファの上に寝そべっていた。隣では萌がコーヒーカップを手に、リラックスした姿勢でテレビ画面を眺めている。
鳴坂が自宅で萌と昼を過ごすのは初めてだった。同棲は一週間前から始めていたものの、互いに仕事が忙しく土日もイベントで潰れ、二人が自宅で顔を合わせられるのは朝と夜のみという状態が続いていた。もちろん萌とここまでの関係を築けただけで満足してはいるのだが、特に何をすることもなく一緒にのんびり休日を満喫するのにはまた別の嬉しさがある。
「ねえ恭治、あれ見てよ。変なの」
「ああ」
テレビ画面では配信動画が流れている。それを指さす萌の横顔を、鳴坂は相槌を打ちながら眺めた。
萌には自らの気持ちを何度も口にしている。だがどれほどうまく伝わっているかは分からない。鳴坂はふと胸に萌への思いを滾らせた。
萌は最初から本当に魅力的だったのだ。
まず、容姿からして下手な芸能人などより遥かに整っていた。本業は声優でありながら、デビュー当初からアイドル顔負けと評されるルックスの持ち主だったのである。また同業者から見ても素晴らしい演技力を発揮するばかりでなく、真面目なうえ仕事外で個人として接しても素直で優しい性格でもあった。一目ぼれした鳴坂は懸命に萌との距離を縮め、どうにか交際まで漕ぎつけた。以後も大切に想うあまり、それとなく水着などのグラビア撮影は避けるよう促したほどだ。
その魅力は、日を追うごとに増している。抱く感情も自ずと強くなるばかり。
だからこそ鳴坂は萌との仲を引き裂こうとする連中が許せず、まとめてこの世から葬り去った。むろんその事実は萌には言えない。秘密は墓までもっていくつもりだ。
あれらの犯罪が明るみにならない自信はある。ホテルの予約は、入室時に身分証のいらない漫画喫茶から捨てアカウントのEメールで行った。伊崎らを殺した夜に変装のため着用したコートとニット帽も古着屋で売り、凶器のハンマーも頭と柄をバラして辻のマンションのゴミ捨て場に、それらを覆っていた布も近くのコンビニのゴミ箱に捨てた。アリバイを成立させる情報の確保に使用したノートパソコンも、とうに処分している。一連の計画は全て当初の想定どおりに遂行できた。後始末にもぬかりはないはずだ。
ただひとつ悔やまれるのは、萌との新生活のため引っ越したばかりのこの部屋に辻を入れたことだ。誠意を示して辻を思いどおりに動かすために、まさにこの部屋で辻の要求に応えた。とりわけ身体を重ねたのは苦痛だった。性欲解消のためだけだと理解したうえで互いを利用していたときは何とも思わなかったのに、あそこまで耐えがたい嫌悪感に苛まれようとは想像もしていなかった。確固たる目的がなければ絶対に我慢できなかったと断言できる。
いや、今にして思えば辻にはおかしな性癖があった。たった一度だけ、事後に鳴坂の陰毛を引き抜いたことがあったのだ。
理由を訊けば、ファンである鳴坂の身体の一部であればそれすら愛しく感じられるからだという。すぐに注意したところ素直に従ったため関係を続けたが、当時から面倒な相手になる予兆は表れていたのである。遅かれ早かれ厄介者になっていたに違いなかった。
その辻も鳴坂が殺し、この部屋に足を踏み入れた痕跡ごと消し去った。あの後も辻が置いていった荷物の有無を確かめただけでなく、髪の毛一本残らないよう床やソファに入念に掃除機をかけ、万が一にも指紋が検出されないよう椅子やテーブル、果ては各種リモコンまで丹念に磨いた。
鳴坂が何気ない仕草でスマートフォンを握り、ニュースサイトを開くとそこには「都内ホテルでの女性六名殺害 犯人はアリバイ工作か」と銘打たれた記事が掲示されていた。本文中では事件関係者がアルバイト先の施設利用履歴を職権濫用で偽装した旨と、遺書と同時に発見された飛ばしのスマートフォンが犯罪に使用されたらしいことも記されている。
これらの報道から察するに、警察はどうやら本格的に辻に照準を定めて捜査を進めているようだ。現状、自身が逮捕されていないどころか、強い疑惑の目すら向けられていないところからして少なくとも物証を隠蔽するのに無事成功したのは確実だった。
警察は辻の捜査に行き詰まれば、おそらく再び目をつけてくるだろう。だがそれも無駄なことだ、特にあの冴えない能登とかいう刑事ではと声には出さず嘲ったとき、萌に顔を覗かれているのに気づく。
「どうかしたの?」
「いいや、何でもない」
鳴坂はすぐに短く返事をして平素を取り繕い、頭を切りかえた。
むやみに悩んでも萌を不安にさせるばかりだ。少し表情を硬くするだけで何かがあったのかと勘をはたらかせるほど、萌にとっても自分は大きな存在となっているのだ。
当然だ。もうここで二人は生活を始める仲なのだから。先週まで二人バラバラに組んでいた予定は、相談の結果、以降は互いに調整してなるべく一緒に過ごせる時間を作るとの結論に達した。事務所の了解も得た。仕事の量は少しばかり減るだろうが、すでに十分な収入を得られるポジションに就いている。これから時間が経ち、家族が増え、どちらかがさらに仕事をセーブするとしても、度の過ぎた贅沢をしないかぎり生活に困るような事態には陥らない。テーブルの上には式場のパンフレットがある。先週、見学に足を運んだのだ。
寝そべりながら再び手元のスマートフォンを操作しはじめた鳴坂は、今度はSNSを覗いてみる。そこには自分と萌が婚約したと知ったファンの悲嘆の声が並べて綴られていた。
「お願い、嘘だと言って! 私の七年、いや八年を返して!」
「恭治は騙されてる、早く目を覚まして! そいつ、とんでもない女だよ」
「萌なんて名乗る奴にはロクなのがいない。ゼッタイ色んな男と寝てたアバズレだ」
何と醜い嘆き節だろう。中でもいま目の前にいる婚約者を口汚く罵る言葉は、見ているだけでいっそう不快になる。少し前までこんな奴らに気を遣い、媚を売ってきたかと思うと腹立たしく、また馬鹿らしい気持ちにもなった。こいつらのように萌との婚約を祝うどころか呪い、怨嗟の声をあげる連中はファンと呼びたくもない。
現に、そのうちの少なからぬ数が他方面においても過激な言動に及んでいる。
たとえばある者は、驚異的な放送回数を誇る長寿アニメ『探偵の名はロナン』のカップリングを巡って苛烈な論争を繰りひろげていた。この作品は主人公である天才高校生探偵・須藤欣一が正体を隠して八面六臂の活躍を見せるというたいへん現実離れした内容が好評を博しているのだが、同時にヒロインを主人公の幼馴染である毛阪杏とするか、それともバディ役を務める貝原舞とするかで長年にわたり意見が戦わされてきたのである。
その決着は未だについておらず、むしろどちらを支持するかでファン同士の対立が年々深まりつつある。過剰な人気が仇となり、最近などはとある国で流血沙汰の事件まで起きた。SNS上でも相互の激しい攻撃が常態化している。
「欣一と杏のカップリングしか許さない」
「ハァ? なに言ってんの? 舞を推さないなんて、頭おかしいんじゃねえのか?」
「ヒロインが舞とかぬかす女は絶対に股が緩い。男ならヤリチン」
「杏をちょっとでもいいって思った奴は幼馴染幻想に取り憑かれた阿呆。地獄に堕ちろ」
およそまともな人格の持ち主ではない。伊崎某ら六人がまさにこの典型例だった。だがこうした手合いはいなくなったも同然だ。もう彼女たちの顔色を窺う必要はなくなり、これからは萌だけを見ていればいいのだから。
その萌がいつの間にか席を立ち、コーヒーカップを片付けている。
「恭治、そろそろ買い物に行かないと」
壁にかけられた時計を見れば、時刻は午後二時半になろうとしていた。外出にこのあたりの時間を予定していたのは、人目を避ける狙いもあった。
「そうだね。もう行こう」
鳴坂が起き上がって玄関へ向うと、先に支度を整えていた萌が靴を履きながら呟く。
「恭治の、ずいぶん汚れてるわね」
そこには、たしかにソールまわりが埃にまみれた鳴坂のスニーカーがあった。
「待って。代わりの出してあげる」
鳴坂の返事を待つまでもなく、萌が収納の引き戸を開ける。だが次には軽く呆れたような声をあげた。
「何? 恭治、これ、全部同じ靴じゃない」
その言葉に偽りはなく、中には玄関に置かれていたものと寸分違わぬ形のスニーカー三足が並べられていた。おまけに全て黒と色までまったく同じなのである。他は隅に置かれた新品同様の革靴とレインブーツが各一足だけ。しかし革靴やレインブーツでは、カジュアルな服装の今の鳴坂には明らかに合わない。空は雲ひとつない晴天だ。
「いつも似たような靴履いてたから、まさかと思ってたけど。前に『ちょっとは別のも買ったら』って言ったの、覚えてない?」
「覚えてたよ」
「じゃあ、何で?」
「このメーカーの二五・五のサイズがいちばん合うんだ。歩きやすいし、雨にも強いし。基本、どこへ行くにもこれで済ませてるよ。色も黒でどんな服にも合ってちょうどいいしさ」
鳴坂のズボラな面は、結局のところ直っていなかった。
髪型や服装をあるていど気にするようにしたのは、ひとえに萌との距離を縮めようとする涙ぐましい努力の一環に過ぎない。最低限の無難なラインこそ守るつもりでいるものの、目的を達成した現在になってそれ以上の磨きをかける気はさらさらなかった。伊崎らを殺した夜と辻を始末したときは例外だが、あの二つとて必要に迫られただけのことだ。
要は萌との恋愛を経験したからといって、積極的にファッションを楽しむ意識が芽生えたわけではなかったのである。
だがそんな鳴坂に、萌は不満を抱いているらしい。
「便利なのは分かるけど、プライベートでも誰かに見られるのよ」
「有名でも僕より私服がひどい俳優とか、一杯いるよ。イベントとか舞台だと衣装はぜんぶ用意してくれるし、だいたい、どの靴がいいとか考える時間があったら台本覚えたりしたいんだよね。慣れない靴なんか履いて、靴ずれ起こしたら演技にも集中できなさそうで……」
「はいはい、だから今みたいに仕事ができるって言いたいのよね。ストイックなのは分かるわ。でも、それじゃ私が嫌なの。恭治にはカッコよくいてもらいたんだもん」
プライベートの服装がいかに適当かは、何度か顔を合わせたことのある同業者やスタッフならみな知っている。今さら改めたところで大して評価は変わらないと鳴坂は考えていた。とはいえ、萌から照れた顔でそう言われては無碍には断れない。
「分かった」
「いま買ってあるのを捨てるのは勿体ないからそのまま履きつづけていいけど、しばらくしたら新しいの買いに行きましょ」
「一緒に?」
「当然よ。どうせいま履いてるスニーカーみたいな、適当に安い靴を買ってくるつもりだったのよね?」
この点に関しては考えを読まれている。鳴坂が何も言い返せないでいると、萌が不安そうな表情を浮かべるのが見えた。
「それに、あんまりわたし一人にしないで。恭治が心配なの」
そこで鳴坂は、息を詰まらせる。
辻が死亡した現場に鳴坂が居合わせた事実は、事務所の尽力もあってたしかに早いうちから報道されなくなった。しかし近しい人間には真っ先に知らされている。萌もそのうちの一人だ。
萌は事件発生直後、非常に狼狽していた。SNSでもEメールでもなく、すぐさま電話をかけてきたのだ。鳴坂はその場で冷静に事情を説明している。内容は他と変わりない。辻は「前々から支えてくれたファン」であったために誘いを受けざるを得ず、個室バルへ行ったのも「どんな店か知らされていなかった」からだというものである。
そして翌日には直に会ってスマートフォンを見せ、電話番号以外の連絡先はなく、もし不審に思うなら業者に依頼して消去したデータの復元を行っても構わないとまで言いきり、自身もショックを受けていると語って潔白を訴えた。また後になって能登から遺書のコピーを見せられると、同日のうちに萌の前でさも深刻そうな顔を装って質問を引き出し、しぶしぶ答える体をとってその要旨まで告げてみせた。
結果、萌との関係はまったく揺らぐことなく今日に至っている。ここまで非難の声ひとつあげてないところを見るに、当初から鳴坂の無実を信じていたのかも知れない。というより事件の動揺を引きずっているのか、鳴坂の身を案じる言動が以前よりも増えた。
萌にしてみれば、暴走したファンが何をしでかすか分からないという不安が湧いてくるのだろう。買い物にしても、一人で出歩けば危険な目に遭うのではと考えてしまうのも無理はない。やむにやまれぬ判断とはいえ、萌に心配をかけてしまったことを申し訳なく思う鳴坂は素直に頷いた。
「分かった」
年末に購入したこれらのスニーカーは四足ともまだ新しい。少しくらい埃がついていても、拭けば簡単に落ちる。実際に買い替えるのはだいぶ先でも、そのときは萌の言うとおりにしよう。鳴坂はそう心に決め、収納から出された代わりのスニーカーを履くと、すぐ傍に立つ萌の手を取って部屋の外へと出ていった。
よろしければブックマークや評価、感想をお願いいたします。




