八 これでも職務専念中 ①
能登は事務室で自身の席に座りながら、先日、ようやく位牌に手を合わせた伊崎ら六人に思いを馳せていた。
遺族の許しを得て入った部屋には『不純ドラマチカ』『武士のプリンスさま』『苦虫サドル』といった人気アニメや漫画、ゲームのキャラクターがデザインされた抱き枕、フィギュア、特典つきDVDなど諸々のグッズが置かれていた。そのうちの幾つかがお気に入りと思しきポスターで鮮やかに彩られていたのも記憶に残っている。また話によれば、彼女たちは同人サークル〈B.L.ワークス〉を結成して漫画を執筆、発行した冊子を即売会で販売していたという。その事実は、試しに覗いてみたサークルのホームページでも確認できた。六人も好みを同じくする仲間が集まっての活動は、楽しく活気に満ちあふれていたに違いなかった。本当に脅迫行為に及んだのであれば明確な過ちを犯したことになるが、唐突に命を奪われたのはさぞ無念だっただろう。
能登は彼女たちの趣味嗜好に共感を抱いてはいない。
一口にオタクといっても、好みはまさに千差万別。差異が生じる要因は多いが、その一つに男女の性差が挙げられる。ひねくれ者の能登もその例に漏れず、彼女たちとは好みが大きく異なっていた。特に彼女たちが同人誌で扱っていた男性同士の性行為にはまったく興味がなく、それらを殊更に崇めたてまつる感性は理解もできなかった。その気もなかった。
だが広い目で見れば、同人活動を愉しむ同好の士である。その点では能登は彼女たち六人といささかも変わりがない。憎み、蔑む理由がどこにあるだろうか。むしろ憎むべきは殺人である。一介のオタクであると同時に刑事に相応しい熱意も内に秘める能登は、同胞が無残な死を迎えたことを深く悲しみ、是が非でもと事件の解決を強く心に誓っていた。
もっとも、いつまでも感傷に浸っていては捜査が停滞するばかりだ。そろそろ意識を仕事に戻さなければならない。能登は神経を聴覚に集中させた。
「いまからするの? ここで……アっ」
イヤホンを通じて、耳の奥に女性の艶めかしい喘ぎ声が流れこんでくる。眼前に広がるパソコンの画面には、アニメーションで描写された男女が互いに肢体を絡みあわせる様が映しだされていた。
この姿は、傍からは勤務中に著しい職務専念義務違反を犯しているように見えるだろう。
しかし能登は真剣だった。その証拠に聴覚へ神経を集中させるあまり、異常の発生を認識できていない。実のところイヤホンの装着が甘いせいで嫌でも淫靡な妄想を掻きたてる嬌声が外部に漏れでており、早くも異変を察知した隣の席の同僚が画面を覗きこんできているのだが、そうした周囲の状況に気づけないでいたのである。
「そんな、そこ、ダメ」
さらにその同僚が別の同僚を呼び、四、五人が能登の背後からやや距離を置いて画面を眺めるようになる。部下たちが一斉に離席して能登の周りに集まるのを見、彼らを統括する立場にある平越もそこに加わった。
「やあっ、こんなの知らないっ、らめぇ……しゅごい、いい、イイよ」
平越が能登に接近すると、モニターの中で全裸の男女が性交を始めているのが目に入る。厳密に言えば結合部は描かれておらず、フレームの外に追いやられているのだが、声優の演技や効果音で間違いなく挿入していると分かる場面だ。画面の男女は周囲の視聴者に見せつけるように行為をエスカレートさせていく。
「あっ、ああっ、アンっ♡ アアンっ♡ アッ、アッ、ア」
ところがそこで能登の耳に届く聴覚情報は途切れた。平越がイヤホンを引き抜いていたからである。代わりに事務室内に音声が響きわたるのに驚き、マウスをクリックして動画の再生を止める。
「能登、君はいったい何をしているんだね。勤務時間中に」
声の方へ振りむくと、そこには苦りきった平越の顔があった。能登がいかに変わり者でも、さすがに看過しかねるといった様子である。しかし能登には業務中に趣味に興じる、ましてや性的興奮を得ようとするつもりなどさらさらなかった。
「はい。仕事です」
「何だって?」
背後で早々に自席に戻りはじめる同僚たちに目もくれず、能登は平越の問いに答える。
「あの六名が殺された当時の、鳴坂のアリバイを確認していました」
先日、鳴坂と交わしたやりとりの概要は平越に報告していたが、該当する作品の詳細までは伝える必要がないと考えて省いていた。
「ああ、あれか。しかしまさかこんなだったとは思わなかった。邪魔をしてすまん」
一定レベル以上のアニメファンでなければ、あれだけの知名度を誇る声優がこうも過激な作品に出演していることは知りようがない。想像すら難しいだろう。そうした事情を十二分に把握している能登は、上司の叱責などまったく気にしていない。
「その結果を今お知らせしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
「結論から申しあげますと、鳴坂さんにはアリバイが認められます」
いっぽう平越は心ならずも部下の勤務態度を疑ってしまったのが後ろめたいのか、やや大げさに喜びの声をあげる。
「おお。そうか」
「根拠は鳴坂さんの、この女性役の声優がアドリブを利かせていたことに言及している旨のSNSでの発信です。いま該当の部分お見せしますから、これを。製作会社からお借りした台本をご覧になりながらお聞きください」
だが能登の聴覚はその平越の声色までは捉えてはいない。意識を事実の説明に移行させているために、無表情のまま手元に広げていた台本を横方向へ滑らせるようにして上司に渡し、マウスをクリックする。
すると画面に情欲を滾らせた男が女を床に押したおし、衣服をはぎ取る場面が映しだされた。はじめは戸惑っていた女も男に愛撫されるうち、次第に快楽に溺れ身をよじらせる姿がありありと描かれている。そこから先ほどのシーンに繋がった。
「やあっ、こんなの知らないっ、らめぇ」
能登は少し時間を置いて動画を止める。
「お分かりになりましたか? このセリフは紛れもなくアドリブなんです」
「なるほど。しかし、こういう収録というのは声優が一度に集まるものなんじゃないのか? 鳴坂はこの作品にも出てたんだろう?」
「たしかに鳴坂さんは出演していますが、出番があるのは別のシーンです。それに昔はともかく、今は技術の進歩もありますから、たとえ同じシーンで共演する声優同士でも収録がまったくのバラバラという例は珍しくありません。私が製作会社に問い合わせてみたところでも、鳴坂さんと件の女性声優――三笠さんは収録で顔を合わせていないとの回答でした。
もちろん私からその三笠さんに直にお訊きしても答えは同じでした。収録から放送までのコンタクトは一切なし。即答です。要請があれば通信記録も提供するとまで仰ってくださいました。SNSなどを私たちで検証する必要はあるにしても、鳴坂さんと三笠さんの個人的な接触はないと考えていいでしょう。つまり鳴坂さんは事件当夜、本当に自宅で放送を観ていたことになる。
しかもこれの放送があったのは六名が殺された二月三日の二十三時半から零時までで、SNSで言及のあったシーンは二十三時三十七分。発信があったのはその二分後。仮に鳴坂さんが犯人で、最後に殺したのが伊崎さんだとしても、そこから帰宅するには最低でも一時間はかかります」
「伊崎茉実の推定死亡時刻は二十三時から零時までの一時間だったか。したがって鳴坂に犯行は不可能、というわけか。しかし何か事故のようなものはなかったのか? たとえば事前に映像が流出したとか……」
「現在のアニメ関連会社はそうした問題に敏感ですから、もし流出が起こっていれば捜査に関係なく被害届を出しているはずです。念のために私からも訊いておきましたが、アクセス履歴に不審な点はないようでしたから、その線はあり得ないかと。
まあ、正確に言えば事件当夜の五日前に、この回の放送はなされています。ただし、地上波ですが」
「じゃあ、やはり」
「いいえ。こういったアニメは激しい性的描写をウリにしていますが、あまりに露骨だと諸方面からクレーム、審査機関から注意や処分を受けてしまうので、地上波では表現を一定レベルまで抑え、CS放送などで規制を解除したオリジナルの映像を流すのが通例となっております。
この作品がまさにそれです。該当のシーンは地上波でまったく別の場面に差し替えられており、いまお見せした映像はCS版でのみ放送されたことが分かっています」
「そうか、なら間違いない。事件当夜のCS放送を観てなければ、アドリブの有無やその内容なんか知りようがないんだからな。アリバイある以上、鳴坂は犯人ではないと見てよさそうだ。それにしても能登、随分アニメに詳しいようだが」
台本に目を落としながら口髭を軽く撫でていた平越は、部下が手早く裏取りをしていたことに機嫌をよくしたのか、先刻とは打って変わっておどけた調子でからかってきた。だが能登の趣味があくまで公然の秘密であることを忘れていたらしい。
「私も勉強したんです」
言われた側は自ずと不機嫌になる。短い答えを無愛想に返すと、慌てて労いの言葉をかけてきた。
「ご苦労だった」
能登もその点に噛みついて墓穴を掘るような真似はしない。すぐに気を取りなおし、話を再開させることにした。
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