一 もういらないよお前 ①
年の瀬も迫った十二月三十日の朝、一人の男が都内のビジネスホテルで部屋にひとり佇んでいた。備えつけのテレビからは情報提供番組が流れており、画面越しにアナウンサーが指示棒を翳しながらニュースを読みあげるのが見える。
「えー、先日、人気声優同士のビッグカップル、鳴坂恭治さんと桐ケ谷萌さんの真剣交際が報じられました。先月から噂はあったようですが、このたび双方の事務所が認め、交際も順調に進んで既に婚約まで済ませ、結婚秒読みとのことで、どちらのファンの方もたいへん複雑な心境だと思います。そこで本日は、ファンの方たちの変化についてお訊きしてみました」
鳴坂恭治。卓越した演技力と多彩な声色をもって多数のアニメ作品への出演を果たしている一流声優である。しかも有名ハリウッド俳優の吹き替えを専属で務めるなど若くして業界トップの地位にあるのみならず、端正な容姿で舞台に立つ機会が多いこともあって、様々なメディアに頻繁に取りあげられる時代の寵児でもあった。
その鳴坂は、微妙な面持ちでテレビ画面を眺めていた。全国に名前が知られるようになってかなり経つものの、公共のメディアで自身の顔が晒されるのはどうしても慣れない。それがたとえ斜陽と囁かれて久しい地上波放送でもだ。やはり本業は声の演技だと日頃から意識しているからだろうか。いつの間にかスタジオから切り替わった街頭インタビュー映像も、自然と冷めた目で見てしまう。
「えー、すごい大ショックでした。その話はもう聞きたくないです」
「ウソだと思いたかったけど、両方とも事務所が認めたんじゃ、諦めるしかないよね」
「友達と一緒にヤケ酒飲みました。恭治が結婚するなんて信じらんない」
「ボクはもうダメだ……萌ちゃんが……あの萌ちゃんが誰かのものになるなんて……」
特に甲高い叫び声を上げて突っ伏した最後の男などは、いかにもヤラセといった印象を受ける。こんなオーバーアクションの人間が都合よく捕まるはずがない。おそらくどこかの劇団員でも連れてきたのだろう、と鳴坂が苦笑したところで画面が落ちた。
振りむけば、洗面所で用を済ませた一人の女がテレビのリモコンを握っていた。女の名は辻香恋。いわゆる鳴坂の浮気相手だった。
「行きましょう」
口元をマスクで覆い、鍔の長いキャップを目深に被った鳴坂は、部屋の扉を潜りながら、隣を歩く辻が意図して距離を詰めてきているのをひしひしと感じていた。辻の背丈が自身に迫るほど高いせいもあって、同様に口元をマスクで隠している顔が以前よりも近くに迫っているのが分かる。エレベーターに乗ってからも離れる素振りはない。一夜を過ごしたばかりなのに、この日どころか翌日も、その翌日も行動を共にしようとする雰囲気すら漂わせている。くわえて口に出す話もこれまでとは明らかに違っていた。
「ねえ、今度はいつスケジュール空くの?」
かつてはもっと他愛ない内容だった。少なくとも次にいつ会えるかなどという質問はなく、日にちが空いてからどちらともなく連絡を入れて密会という流れの繰りかえしだった。
「また連絡するよ」
上の空で返事をしながら、鳴坂は後悔の念に苛まれていた。
肉体関係は、辻の猛烈なアタックが始まりだった。鳴坂もまた萌とは互いに忙しく会えない時期だったこともあり、寂しさを埋めるつもりで誘いに乗った。ただし鳴坂はその際、萌の名前こそ伏せながらも、交際中の恋人と別れるつもりはないと念を押している。辻も決して鳴坂の本命にはなり得ない、いわば浮気相手に過ぎない立ち位置を受け入れていたはずだ。
しかし萌との交際が水面下で噂になり、ウェブ上でも憶測や証言が飛び交うようになってからそうした態度に明白な変化が生じていた。鳴坂に結婚が近づきつつあるという事実が許容できないのか、はたまた相手が萌であるのが気に入らないのか、いずれにせよ電話で声に刺々しい響きを含ませるようになり、件の報道がなされるといよいよ先ほどのような苛立たしげな反応まで示しはじめた。メディアが件の交際を取りあげるのはとうてい我慢ならず、萌の顔を見るのはもちろん名前さえ聞きたくないといった心情が窺える。こうして並んで建物を出る間も、その圧力のあまりの強さに肌にひりつくような痛みを覚えかけているほどだ。
実に厄介な心変わりだった。
思いかえせば、最初から辻の誘いには乗るべきではなかったのだ。本命の萌と交際できたことで舞いあがり、精神的に妙な余裕が出たせいで判断を誤ってしまった。辻とはほとんど性欲処理の対象としてしか接してこなかったにも関わらず、何ら不利益を被らなかったのも災いした。
ともかく駅へ向かいながら、鳴坂はこの状況下でどう辻を捨てようか思案を巡らせていた。辻は所詮、見栄えがそれなりに華やかなだけの都合のよい女である。他の取り柄はせいぜい身体の相性くらいだ。元々はオタクサークルに参加していたらしいから、そこで男をより抜いて遊んでいたのだろう。漫画やアニメで多少は話が合うとしても、能力も収入もあり、デビュー以降真面目にキャリアを積み重ねてきた萌とは比較することすらおこがましいほど取るに足らない存在だ。どちらを選ぶべきかは考えるまでもない。
不幸中の幸いは周囲の目がある場所では互いに素顔を隠すという約束を交わすとともに、辻に弱みを握られないようEメールやSNSは禁止し、連絡は携帯電話のみという条件を呑ませていた点だ。もしEメールなどを許していれば、すでに身動きのとれない状態になっていただろう。
だが、それも現実に防護策として機能するかどうかは疑わしい。下手に絶縁を口にしようものなら途端に騒がれる恐れがあり、電話で無視を決めこんでもかなりの確率で似たような結果になることが想定される。辻と話をしながらそうした事態を避けるための計略を練っていると、徐々に駅が近づいてきた。
「じゃあ、そろそろ行かないと。また」
鳴坂はこの日も仕事が入っている。目元で笑顔を作りつつ別れを告げ、辻が離れていくのを見送りがてらに息をつく。それから数秒おいて辻が戻ってこないのを確かめ、頃合いを見計らった後にマスクを取った。
もうこれだけ離れれば、第三者に密会を覚られる心配もない。そこまで顔を隠さなくとも人目は一応ごまかせるはずだ。鳴坂は額の上方に突きでた鍔に手をかけていちど脱ぎ、再び帽子を被ろうとした。
ところがそのとき、ふと背後に人の気配を感じた。もしくは視線を向けられた気がした。
はっとして振りかえるも、それらしき人物はいない。いるのは一般の通行人だけだ。辺りを眺めまわしても、こちらを覗き見るような人物の影も形もない。
おそらく勘違いだろう、ストレスでちょっとした錯覚に陥っただけだと、鳴坂はこのときの違和感を単なる気のせいだと思いこんでいた。
だが程なくして、その思いこみは大きな誤りだったと知らされることになる。
年明けの仕事もひと区切りがついた一月三日の午後、外を歩いていると建物の陰から不意に三人の女が現れたのだ。
「鳴坂さん、ちょっと私たちと一緒に来てもらえますか?」
鳴坂には、自分がここにいるのをなぜ知られたかの見当はすぐについた。先ほど終えたばかりの仕事がイベントだからだ。その気になれば、会場の関係者出口で待っているだけで目当ての人物を捕まえられる。おまけに三人ともイベントの常連客だった。自ずと記憶に残るほど何度も顔を見た覚えがある。もしかすると先ほどまで会場にいたのかも知れない。
ただ仕草からして、サインなどをねだりに来たのではないらしいことが窺える。
「何かご用ですか? よろしければ、ここでお伺いしますが」
察するに、この場で物理的な危害を加えようというのではない。だが鳴坂恭治の顔と名前は世間一般に知られている。言われたとおりについていった先で、別の人間が待ち構えている可能性はあった。鳴坂は不用意に訳の分からない場所へ足を運ばない方がよいと判断しかけるも、次の一言を耳にしてそれが適わないことに気づく。
「逆に、ここじゃない方がいいと思いますが。こちらの方、桐ケ谷さんじゃありませんよね?」
先頭の一人が、スマートフォンの画面を目の前に突きつけてきた。そこには鳴坂と辻が揃ってホテルの傍を歩く姿が映しだされている。
鳴坂は直感した。仕事が立てこんでいたせいですっかり忘れていたが、年末の異変は気のせいではなかった。やはり実際に尾行されており、その主はこいつらだったのである。周囲に正体を覚られないよう警戒していたつもりではあったが、いつの間にか気の緩みが生じていたらしい。
「何の話かは分かりませんが、そうしましょう」
鳴坂は、すぐに首を縦に振る。具体的な話はこれからだ。しかし彼女たちが何をしようとしているかはおおよその推測がつく。自身と辻の密会現場をネタにしたユスリだ。
また、この場を切り抜けるのは困難だとも理解していた。今しがたの静止画像からして、あれを萌だと言い繕うのには無理がある。身長一五〇センチ台半ばの萌にしては高すぎるのだ。一般人ゆえ氏素性まで即座に明るみに出ることはないにしても、週刊誌などはこぞって浮気相手の存在を記事に取りあげるだろう。今や声優も他の芸能人と同じく日の当たる存在だ。二股や浮気、不倫は格好の飯のタネになる。そうなれば辻もこれ幸いとばかりに自ら名乗り出、関係を肯定するに違いない。
「じゃあ、こっちへ」
果たしてどう対処すべきかと考えを巡らせながら足を前に進めるうち、程なくして目的地らしき建物に辿りつく。カラオケボックスだ。密談にはうってつけの場所だけにいよいよ身の危険を感じた鳴坂は、何かしら弱みを握られたという事実だけでも第三者に知られまいとして咄嗟にジャンパーのフードを頭に被り、出来るかぎり俯いた姿勢で部屋の扉を潜る。そしてその先には、さらに三人の女性が座っていた。
半グレや反社会的組織の構成員と思しき人物の姿がないのは救いだが、およそ安心などできる雰囲気ではない。事実、追いたてられるような形でおそらく逃走防止のためテーブルの一番奥、いわゆるお誕生日席にありがたくもなく座らされ、異様なほど落ち着いた所作でご丁寧にもドアを閉められる。
これでは拉致同然だ。
不快感を募らせつつ辺りを眺めまわしていると、声をかけてきた三人が鳴坂から見て右側の席に座り、そのうちのいちばん手前の女が口を開く。
「まず自己紹介します。私は伊崎茉実といいます。ここにいる六人で同人サークル〈B.L.ワークス〉を運営しています」
これを聞いて、鳴坂は納得した。イベントに来ていたからには自身のファンではある、もしくはあったのであろうが、同時にサークルのメンバーであればあの時期の朝、あんな場所に居合わせたのにも説明がつく。想像するに、年末に行われた同人誌即売会を終えての打ち上げで一晩飲み明かしていたのだ。六人全員が三十歳前後と思しきほぼ同じ年齢層であるのにも合点がいった。そのリーダー格が専ら先ほどから言葉を発している、伊崎と名乗ったこのショートボブの地味な顔立ちの女なのだろう。
それを証明するかのように、残りの五人が続けて自らの名前を名乗る。
伊崎の隣の、ベリーショートの髪で鳴坂より背が高いのが岸奈々枝。
またその隣の、金髪パーマという妙に目立つ頭をしているのが山井向日葵。
逆に鳴坂から向かって左のいちばん手前に座る、ポニーテールに縁の厚いメガネといういでたちが宇津木穂花。
その宇津木の隣に座る、背が低いうえに黒髪を長く伸ばしているせいでいっそう小さく見えるのが川村椿。
またその隣にいるのが身長こそ平均の範疇でありながら、やたらと細身なせいで小柄な印象を受けるのが原田藍子だという。
そうして自己紹介が終わると、伊崎がまたもスマートフォンを見せつけてくる。
「では、本題に入ります。私たちが鳴坂さんをここに呼んだのは、これを見たからです。正確にはこの直前、ホテルから出てきたところからですが」
鳴坂は、それを目にして息を呑んだ。画面に映っているのが先ほどのような静止画像ではなく、今度は動画だったからである。自身が辻とともにホテルの前を横切って駅方向へ歩いていき、別れた後でマスクを取り、いちど帽子を脱いだところまではっきり撮影されていた。完全に一瞬の隙を突かれた形だ。
動画が最後まで再生されるのを見届けてから、鳴坂は伊崎に視線を移した。
「それで、どうするつもりです?」
静止画像も動画もマスコミに高く売れるにも関わらず、まだそれをせず被写体を呼びつけた理由はただ一つ。
「否定しないんですね」
「しても無駄でしょうから」
伊崎の問いに答えを返すのに躊躇はなかった。鳴坂は先ほどまで、何とかしてあの場面を有耶無耶にするつもりでいた。現にホテルから出た瞬間は撮影されていないため、写真や動画だけであれば決定的証拠にはならない。しかし目撃証言まで付け加えられれば、かなりの確率でスキャンダルになる。ならば抵抗するだけ時間の無駄だと覚ったのだ。
「話が早くて助かります。これ、明らかに二股ですよね。この動画を公開されたくなかったら」
やはりユスリか。要求は金銭か。鳴坂は頭の中で算段をはじめる。
ところが、次に聞こえてきたのは意外な要求だった。
「桐ケ谷さんとこの女、両方と別れてください」
「は? 何のために?」
「決まってます。鳴坂さんに結婚されたら、私たちの楽しみがなくなってしまいますから。いつまでも憧れていたいんです。もちろん、他にも私たちの言うことを聞いてもらいます。食事したりとか、旅行とか」
何ということだ。先日ホテルでテレビ報道を目にした際、あれをヤラセであり自身と無関係などと嘲笑したのは大間違いだった。いや、正確にはああいった言動に及ぶファンもいるという認識はあったが、自身にここまでの災厄をもたらす存在になろうとは予想できなかった。これなら金銭をせびられた方がどれだけましだっただろうか。もし貯金で足りなければ、友人知人から借りるなどしてどうにかやりくりすればいいからだ。
だが、このような要求はとうてい呑めるものではない。何しろ婚約を思いも寄らぬタイミングでマスコミにすっぱ抜かれたせいもあり、厳しいスケジュールの合間を縫って急遽予定を組み、都内住まいである萌の両親には明日に、続けざまに明後日には自身の両親にその旨を報告することになっているのだ。この部分を譲るわけにはいかない。とはいえ、下手に突っぱねると腹いせに動画を公開されてしまう。
「あなたがたのお話は、よく分かりました。ですが時間をください。そうですね……一週間後、この時間、この場所に来ますので、そのときお答えしましょう」
回答を引き延ばすにしても限度がある。一週間後ならここにいる六人も集まりやすいだろうと、懸命に頭をはたらかせた結果がこの提案だった。
これには伊崎を含めた六人が互いに顔を見あわせる。鳴坂が要求の可否を即答できない事態はあらかじめ想定していたらしく、取りたてて慌てるような素振りはない。ただ連絡先まで教えないという点から話を反故にされる可能性を疑い、また一週間という期間を許容するかどうかで迷っているようでもあった。
鳴坂はそうした六人の態度を窺い、追いうちをかける。
「もしこちらの条件も呑めないようなら、恐喝で警察に届け出ます。先ほどから会話は録音させていただいておりますので。そのときは先ほどの動画をマスコミに売るなり何なりお好きにどうぞ」
六人は、いわば握った弱みを種にユスリをかけるという危険な賭けに出ているのである。鳴坂は会話を録音しているというハッタリをきかせ、対応次第では立場が逆転し得ることを思い知らせようとした。今後、この六人と交渉する際にも有利に事を運ぶのを同時に狙っての対応でもある。
結果、その目論見は成功したらしい。伊崎が他の五人と視線を合わせて深く頷き、答えを返してきたのだ。
「分かりました。その代わり、必ず一週間後のこの時間、ここに来てください。さもなければ、動画を公開しますから」
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