七廻八瀬という人は……?
ついに、七廻八瀬が待つ大学のキャンパスにたどり着いた二木あるはと亜麻月カノハ。しかし、大学キャンパスでは、二木あるはと因縁のある者たちが、その前に立ちふさがってきた(笑)
果たして、二木あるはと亜麻月カノハは、最後の敵・七廻八瀬の前に立つことができるのか?
ボク、二木あるはは、カッパになれないカッパの少女・亜麻月カノハとともに、ついに大学の正門の前までたどり着いた。
アパートから大学のキャンパスまで、何度も通った道なんだけど、今日はいろいろとあったなぁ。大変だったけれど、新鮮な体験ではあった。見慣れているはずの正門も、なんだか輝いて見える。これもカノハちゃんと友達になったおかげだよな。とても晴れやかな気分……いや、ウソだ。ボクは自分の思考を、思いっきりプラス方向にねじ曲げて、自分のココロをごまかそうとしてるんだ。
部長の七廻八瀬と約束した11時はとっくに過ぎている。だから、ボクはキャンパス内への一歩をなかなか踏み出せないでいた。
「……あるはくん、なにか怖いんですか?」
カノハちゃんが、門の前に立ち止まって動かないボクに、そう声をかけてきた。ココロを読まれたのかな? いや、違うよな。カノハちゃんは他人のココロの声を聞くことができる。でもそれは、なにかをとても欲しがったり、恐怖したり、助けを求めたりする、純粋で強いココロの声だけだ。ボクのオドオドとした態度を見て「なにかを怖がっている」と思ったのだろう。
……だけど、ボクは本当に七廻部長のことを怖がっているのかな? 部長は時間に遅れたからといって、怒鳴ったり、ねちねちと説教したりする人じゃないのだけど……そうボクが考えていると、
「だいじょうぶですよ。あるはくんのことは、わたしが守るので。絶対に守りますので」
カノハちゃんがそう言った。カノハちゃんは、言葉にココロを乗せて聞いた相手に伝えることができる。今の「だいじょうぶ」には、ボクのことを「守る」と決意するココロと、「守れる」と確信するココロが乗っていた。それが伝わってきて、ボクのココロは「守られている」という安心感に満たされた……んだけれど、ボクはもう、この仕組みを知ってしまったからなぁ。安心感に満たされたボクのココロに「不安」や「疑い」が再び湧いてくる。カノハちゃんは高い身体能力をもっているようだ。だから、ボクのことを「守れる」と確信しているみたいだけど、ボクよりひと回り小柄な女の子に「守ります」と言われてもなぁ……それに、そういう事じゃないんだよな。ボクが部長のことを怖いのは。
でもまあ、せっかくカノハちゃんが「守る」と言ってくれてるんだ。それを疑っちゃ悪いよな。
「うん、それじゃあ頼んだよ、カノハちゃん」
ボクがそう言うと、
「はい! まかせてください」
カノハちゃんはそう言って、体の前で両手のこぶしを握り「ガンバります」という顔をした。ああ、可愛いなぁ。でも、その可愛さって、ボクを守ってくれるという頼もしさとは真逆のもののような……いやいや、疑っちゃダメだ。カノハちゃんが頑張ってくれるというなら、ボクも頑張らなくっちゃ。
ボクも体の前で両手のこぶしを握りしめて気合を入れ、キャンパス内に足を踏み入れた。
正門から部室のあるサークル棟までは、けっこうな距離がある。カノハちゃんにキャンパス内の説明をしながら歩いているが、あんまり話を聞いている様子がない。厳しい眼で周囲をキョロキョロと見ている。どうやら、ボクを守ろうと警戒しているらしい。「頼んだよ」なんて、気安く言うんじゃなかったなぁ……と、後悔していると、
「あら、二木くん、こんにちは」
友達に声をかけられた。この大学の学生でボクと同学年の女性だ。学部が違うので講義で顔を合わせることはないが、ボクのサークルのイベントで何度も会っている。
「ああ、こんにちは。今日もキレイだね」
ボクがそう言葉を返すと、
「ありがとう」
彼女はニッコリと微笑んだ。そして、カノハちゃんを見ると、
「今日も、キャンパスの案内なの?」
と、言った。ボクはサークルの活動の関係で、他の大学の学生や高校生などをこのキャンパスに案内してくることがよくある。女の子と二人というのも珍しいことじゃない。
「うん、まあね」
ボクはそう答えた。本当は違うんだけど、説明が面倒だし、まあ、どうでもいいことだろう。そう思いながら、カノハちゃんを見ると、厳しい警戒の眼で彼女を見ている。まいったなぁ。彼女のこと、ちゃんと紹介するか……と思っていると、彼女の方が、ためらいがちに口を開いた。
「……あの、七廻さまは、お元気かしら?」
少し頬が紅くなったように見えた。七廻さま、ねぇ……そういえば、このひと、部長の大ファンだったな。以前、部長に「ぜひお会いしたい」と言うから、部室に案内したことがあったんだよな。
「うん、もちろん元気だよ。また、部室に会いに来たら?」
ボクがそう言うと、彼女は慌てた様子で、
「いえ、それはいいわ……七廻さま、お忙しいでしょう? イベントには必ず参加しますので、そのときにお会いできればいいのよ」
と言うと、
「それじゃあ、七廻さまによろしくね。イベント楽しみにしてるわ」
と、逃げるように去っていった。
ああ、うん、まあそうでしょうねぇ……。ボクがやれやれと思いながら、再び歩き出そうとすると、
「あの、あるはくん、『七廻さま』って誰ですか?」
カノハちゃんが、訊いた。
「ああ、七廻さんはボクの先輩で、カノハちゃんにこれから会ってもらう人だよ。ほら、『とても頼りになる人だから、カノハちゃんに紹介したい』って、ボクの部屋で話したでしょ?」
そう答えると、
「ああ、そうなんですね。でもそれなら、今の女の人もいっしょに来てもらえばよかったのに……あの人、『七廻さまにとてもお会いしたい』って言ってましたよ」
と、カノハちゃんは言った。どうやら、彼女のココロの声「強い望み」を聞いたらしい。だけど、ねぇ……
「いや、彼女、今日は都合が悪かったんじゃないかな? みんな、いろいろあるからさ」
ボクがそう答えると、カノハちゃんは、
「そうなんですか? あんなに、『お会いしたい』って、言ってたのに……」
と、納得できない様子で言った。
カノハちゃん、人間はそんな単純じゃない。みんな、いろいろあるんだよ。ボクはそう思ったが、クチには出さなかった。
それから、少し歩くと、また知り合いに声をかけられた。
「よぉ、二木じゃん」
同じ講義を受けている同学年の男性だ。しかし、よく知り合いに会うなぁ。日曜だから、キャンパスに人は少ないんだけど……。仕方なかったとは思うけれど、バスを降りたのはマズかった。早く部室に行きたいんだけど、友人に声をかけられて無視をする勇気もない。
友人はニコニコと笑いながらボクに近づいてくる。カノハちゃんは、といえば、またまた警戒モードで友人を厳しい顔でにらんでいる。ボクは、二人に見えないように下を向いて大きくタメ息をつくと、息を吸い込んで、
「いよぉ、元気そうじゃ~ん」
できるだけ明るい声を出し、右手を上げた。友人も右手を出して、ボクの右手にハイタッチすると、隣にいたカノハちゃんを見て、
「おお、可愛い子、連れてるねぇ」
と言った。カノハちゃんは厳しい顔で友人をにらんだままだったが、友人はカノハちゃんにニコリと微笑みかけると、
「緊張しているの? キャンパス見学でしょ? まあ、キラ~クにして、ゆっくり見ていきなよ」
と、言った。カノハちゃんの厳しい顔がとたんにゆるみ、慌てた様子でペコリと友人に頭を下げた。
この友人、外見と口調はとってもチャラい。でも、言っている内容と行動は、いつも感心するほどしっかりしている。まあ、外見で人を判断しちゃイケない、ってことなんだろうけど、もっと普通の格好して、普通に話せばいいんじゃないの? とも思ってしまう。
「それで? 二木は、日曜だってのに七廻さんにコキ使われているワケね?」
友人はボクにそう言った。
「いやいや、今日は違うんだよ……」
本当に違うんだけど、説明するのはメンド臭いし、急いでもいる。ボクはさっさと話を切りあげるつもりで、
「……おまえこそナニよ、日曜に大学って」
と言ったのだが、
「ああ、うん、オレさ、昨日の夜、専門課程のおなゼミのフレとネットでブレストしてたんだわ。そしたら、アガっちゃってさあ。もう、会ってブレストかますしかないって話になっちゃって……」
と、早口でしゃべりはじめた。ああ、ヤバイ。ここから専門の話になると長くなる。
「へえ、そうなんだ。じゃあ、頑張れ~。ボクは部長を待たせてるから、行くよ」
と、友人の話をさえぎるように言うと、
「なんだよ、やっぱ七廻さんジャン。タイヘンだねぇ、おまえも」
そう言葉を返してきた友人は、本気でボクを心配している、そういう顔をしていた。だから、ボクも本気で言葉を返すことにした。
「だからさあ、前から言ってるだろ。タイヘンだと思うなら、おまえもウチのサークルに入って手伝ってくれよ、頼むから」
だけど……
「あームリムリ。オレ、七廻さん怖いもん」
そう言った友人の目の前で、ボクは大きくタメ息をついた。いいよなあ、簡単に「怖い」って言えるヤツは。
「……それじゃあ、ボクは行くから」
軽く手を上げてあいさつをし、歩きだすと、友人は、
「まぁ、がんばれ」
と、言った。
少し歩いてから、隣を歩くカノハちゃんが、
「あの……、七廻さんって、怖い人なんですか?」
と、緊張した声で訊いた。
「いや、そんなことないよ。とても優しい人だよ」
ボクは即答した。嘘じゃない。本当のことだ。
カノハちゃんは不思議そうな顔をしたが、それ以上なにも訊いてくることはなかった。
それから少し歩くと、離れたところから声をかけられた。
「お~い、二木く~ん」
また知り合いと遭遇したか、ツイてないなあ、と思いながら、声の方を見ると、テニスバッグを提げた女性がこちらに駆けてくる。美筆さんだ。ああこれは、ツイてないなんて、失礼だったな。
美筆愛良さんは3年生で、女子テニス部の部長だ。美人で優しくて明るくて、後輩の面倒見もいい。ボクも大学に入った時から大変お世話になっている。そして、テニス部内に限らず、キャンパス内で男女や学年を問わずとても人気がある。そんなひとが、ボクなんかに声をかけてくれて、駆け寄ってきてくれる。まあそれは、美筆さんが、我が部長・七廻八瀬の友達だから、なんだろうけれど……。それでも、美筆さんが駆けてくる姿はなんともさわやかで、見ているだけで元気になれる。それがボクに向かって来てくれるのだから、本当に光栄だ。よし、しっかりとあいさつしよう、と思いながら、隣にいるカノハちゃんを見ると、近づいてくる美筆さんを厳しい顔で見ていた。ああ、また警戒しているのか……。困るよ、カノハちゃん。美筆さんをにらむのはヤメて。ボクは、カノハちゃんの鋭い視線に気づかれないように、まだ少し距離のあるうちに美筆さんに声をかけた。
「こんにちは、美筆さん。今日もキレイですね」
ボクの言葉を聞いて、美筆さんは立ち止まった。そして、
「あ~、はいはい、どうもありがとう」
と、面倒くさそうに答え、歩いてボクたちに近づいてくる。
ボクは隣にいるカノハちゃんに声をかけた。
「ボクの先輩の美筆さんだよ。ごあいさつしてね、亜麻月さん」
美筆さんをにらんでいたカノハちゃんの鋭い視線が消え、緊張した様子でペコリと頭を下げた。
「亜麻月カノハです。よろしくお願いします」
美筆さんは、カノハちゃんに明るい笑顔を向け、答えてくれた。
「美筆愛良よ。よろしくね、亜麻月さん」
ボクはすかさず、カノハちゃんのことを紹介する。
「亜麻月さんとは、このあいだ紹介されて友達になったんですよ」
そういえば、カノハちゃんのこと「亜麻月さん」って呼ぶのはじめてだな。なんかヘンな感じだ。
「へえ、よかったじゃない、こんな可愛い子と友達になれて。それで、自分の大学を案内してるのね」
美筆さんは、楽しそうに笑いながらそう言ったのだが……
「ええ。それで、部長にも会ってもらおうと思いまして……」
と、ボクが答えたとたん、笑顔が消え、厳しい視線になった。
「……二木くん、あなた、ナニを言っているのよ? せっかく友達になってくれた、こんな可愛い女の子を八瀬に会わせるって……本気で言っているの?」
美筆さんはボクを責める眼で見ている。そして、ボクは責められるようなことをしている。その自覚はある。だから、今すぐこの場から逃げ出したい……いやいや、だめだ。美筆さんとはちゃんと話さないと。
「……あの、亜麻月さんはまだこっちに来たばかりで、早くこちらに慣れたいって言っているんです。そういう相談って部長にしかできなくて……ボクも美筆さんや部長のおかげで、やっとこちらに慣れたってところですし」
ボクがそう言うと、美筆さんは困った顔になった。
「……ああ、うん、確かに、八瀬は頼りになるわよ。でもねぇ……、アイツは、ねぇ……二木くんだって、わかっているでしょ?」
美筆さんは、カノハちゃんをチラリと見ながらそう言った。
「ええ、わかってます……それでも、部長に会ってもらうのが、亜麻月さんのためになると思っていますので」
ボクがそう答えると、
「ああ、そっか……仕方ないわね……」
美筆さんはそう言うと、ボクと美筆さんの話を黙って聞いていたカノハちゃんの前に立ち、その両肩に手を置いて、
「ねぇ、亜麻月さん、お願いがあるんだけど……」
と言った。
「あっ、はい、なんでしょう?」
カノハちゃんが驚いた様子で言葉を返すと、
「私と友達になってくれないかな? 困ったことがあったら相談に乗るし、私にできることなら、するからさ」
美筆さんは、カノハちゃんをまっすぐに見ながらそう言った。
「……あ、はい、ありがとうございます」
カノハちゃんは答えになっていない答えをした。
「うん、友達になってくれるのね? それじゃあさ、もうひとつお願いがあるの。これからアナタが会う七廻八瀬ってやつは、とっても変なやつなのよ。でもね、悪いやつじゃない。本当よ。だから、嫌いにならないであげて。お願いだからさ」
美筆さんにそう言われて、カノハちゃんは、「よくわからない」という顔をした。だけど、少し考えてから、
「わかりました。わたし、がんばりますので」
と、力強く、とっても嬉しそうに答えた。
☆ ☆
ボクとカノハちゃんは、美筆さんと別れ、再び二人で歩いている。
「美筆さんって、とっても素敵な人ですね~。わたし、お友達になってもらっちゃいました~」
カノハちゃんは、ゴキゲンを通り越して浮かれ気味だ。美筆さんに友達になってもらったのが、よほど嬉しいらしい。その気持ちはよくわかるし、美筆さんには感謝しかないのだけれど……カノハちゃんはわかっているのかなぁ? 七廻八瀬という人は、心優しき友人である美筆さんからも「とっても変なヤツ」と言われてしまうような人物だということを……
「あんな素敵な人のお友達なんだもの、七廻さんも、とっても素敵な人なんですよね」
カノハちゃんが楽しそうに言うのを、ボクは、
「ああ、本当に素敵な人だよ」
と、あっさりと肯定した。カノハちゃんをだましているわけでも、部長におべっかを使っているわけでもない。この点については、否定できない。否定のしようがない。部長のことを知る誰もが同じだろう。だけど――
「わたし、七廻さんに会うの楽しみです」
カノハちゃんが浮かれてそう言うのを聞くと、少し気が重い。世の中ってそう単純じゃない。「素敵な人」に会うことが、「素敵なこと」だとは限らないんだよなぁ……。
ボクはカノハちゃんから視線をはずし、ヤレヤレと大きく首を振った。そしてすぐに、カノハちゃんに視線を戻した……ハズなのだが……。
カノハちゃんが消えていた。あわてて辺りを見回すが、どこにもいない。ホンの一瞬、目を離しただけなのに、どこに行っちゃったの? カノハちゃん。部長のいるサークル棟はもう眼の前だってのに。ボクがうろたえていると、
「あるはくーん、おーい、こっちこっち~」
カノハちゃんに呼ばれた。あ~あ、案内してるのはこっちなのに、なんで勝手に先に行っちゃうんだろ。ボクを守ってくれるって話はどこにいっちゃったの? 心の中でぼやきながら、カノハちゃんに追いつくと、
「わたし、すっごく素敵なモノ見つけちゃいましたよ」
カノハちゃんが興奮気味に言った。その眼の前には、美しい水をたたえた「池」がある。もちろんだけど、この池のことはよく知っている。ボクは、この大学に通って、毎日のようにこの池を見ているのだから。この池は、このキャンパスができる前にあった、美しい水が湧く泉をもとにして造られたのだという。ごく小さな池だし、名前も付けられていないが、ボクもこの池を眺めていると、なんだか心がなごむ。だから、カッパであるカノハちゃんが、この池を見て興奮するのもよくわかる。カッパは水とともに生きる者なのだから――と、カッパの理解者であるボクが納得していると、カノハちゃんが甘い声で言った。
「ねぇ、あるはく~ん。ここに入ってもいいですか? 入っちゃってもいいですかぁ~?」
ナニを言っているんだこの子は? ――なんて、思わなかった。だって、カノハちゃんの言葉に乗って、カノハちゃんのココロが直接ボクのココロに送られてくる。カノハちゃんは本気で「この池に入りたい」と思っているし、入るつもりでいる。激流のように押し寄せてくるそのココロに流されて、ボクは「入ってもいいよ~」と言いそうになるが、自分の中の理性とか常識とかをフルに動員してそれを押し返した。
すると今度は「入っていいわけないだろ!」と、強い言葉が口から飛び出しそうになる。いやいや、それもダメだ。相手はカッパなんだぞ。キレイな水を見つけたら、入りたがるのは当たり前じゃないか。何も言わずに、いきなり飛び込んだっておかしくはなかったのに、ちゃんと「入ってもいいですか?」と許可を求めてくれただけマシだと思わないと。
カッパの良き理解者であるボクはそう思い、できるだけ冷静にカノハちゃんに言った。
「だめだよ、カノハちゃん。これから七廻さんに会うんでしょ? さあ、もう行かなくちゃ」
すると、カノハちゃんは、
「え~、こんなにキレイなお水なのにもったいないですよ~」
と、不満そうに言い、少し考えてから、
「ああ、そうだ! 七廻さんとあるはくんとわたし、三人でいっしょに入りましょうよ。そうすれば、きっとすぐに仲良しになれますよ」
と言った。それを聞いたボクの頭の中に映像が浮かんできた。カノハちゃんと部長とボクの三人が、ニコニコと笑いながらこの池に入り、はしゃいで水をかけあったりしている映像だ。
ウソだ、ウソだ。こんな映像は偽物だ! カノハちゃんのココロがボクのココロに入り込んで、見せている幻影に過ぎない。部長がこんなことをするワケがないだろ! ……いや、ボクもしないけど。とにかく一度落ち着こう。ボクは大きく深呼吸をして、カノハちゃんに言った。
「……あのね、カノハちゃん。この池はこの大学の人が作ったモノで、大学のモノだ。他人のモノには勝手に入っちゃいけない。それが人間社会のルールなんだ。人間の社会で生きたいならルールは守らなきゃダメだよ」
「人間社会のルール」だなんて、大げさなことを言ったけど、そもそも人間は、「キレイな池を見つけた、よし、入ろう」なんて考えないよな。……まあ、とにかく、カノハちゃんにあきらめてもらわないと。
「……そうなんですね、わかりました」
そう答えたカノハちゃんの言葉には、「残念だけど、あきらめマス」というココロが乗っていた。やれやれ、わかってくれたか。もう池に入りたがったりしないだろう。
「それじゃあ、七廻さんに会いにいこうよ。もうすぐだからサ」
そう言ってボクが歩き出すと、カノハちゃんは黙ってついて来た。だけど、やはり未練があるらしく、たびたび後ろを振り返って池を見ている。部長のところへ急ぎたいとあせっているボクとの距離は少しずつ開いていった。カノハちゃんは、とても寂しそうな顔をしている。
まあ、仕方ないか。カッパと友達になったんだものな。ボクは少し歩く速度を遅くして、カノハちゃんが追いついてくるのを待っていた。と、そのとき、大きな声が響いた。
「おーい! 二木!!」
雄たけびのような声だ。誰の声か確認するまでもない。こんな声を出せるのは新郷さんしかいない。
あ~~、今日はやっぱりツイていないな。もう少しで部長までたどり着くのに、よりによって、ここで新郷さんに見つかるなんて……
新郷綾斗さんは4年生。空手部部長で、この大学のスポーツ系サークルの代表的存在、ボスといわれる人だ。有名な空手道場の跡継ぎとかで空手の有段者、世界中から選手が参加する空手の大会で優勝したことがある。
ボクはこの大学に入ったばかりの頃、友達になった格闘技観戦が好きだと言う新入生に、その動画を見せられたんだけど、それはもうすさまじかった。そして、見終わってからその友達が、
「同じ大学に入れたのは光栄なんだけどさあ、この人に近づきたいとは思わないよね~」
と言った。まったく同感だった。
だけど、それから少しして、ボクはサークルに入り、サークルの意見交換会で、新郷さんと間近に会って話をすることになった。それ以来、ありがたいことに、新郷さんはボクの姿を見つけると声をかけてくれるようになった……
実際のところ、新郷さんはとても良い人だと思う。強引に話を進めたがるスポーツ系サークルの人たちを抑えて、ボクたち文化系のサークルの意見もちゃんと聞いてくれる。公平で、公正を重んじる、尊敬できる先輩だ。しかしねぇ……暑苦しいんだよなぁ、この人。
新郷さんはボクを見つけると、駆け寄ってくる。今現在まさにその状況だ。そして、近づくと、走りながらボクに拳を放つ……と言っても、殴ったりするわけじゃない。ボクの体の前でピタリと拳を止める。そして、そのあと、毎回言うのだ、
「常在戦場だ。どんな時も、油断するなよ。カラダは鍛えておけ。どうだ、ウチの練習に参加してみないか?」
と。どういうわけか知らないが、スポーツ経験の一切ないボクに、「お前は見どころがある」と言って空手部に勧誘してくる。丁重にお断りしても、「とにかく、カラダは鍛えておけよ」とかなんとか……話が長い。
しかし、とは言っても、無視なんかできるわけがない。本当に尊敬はしているし、なんと言っても、大学の実力者だ。
ボクは、姿勢を正して直立し、無理やり笑顔をつくって、駆け寄ってくる新郷さんの巨体を見た。最初の頃は、そりゃあ恐ろしかったけれど、今はもう慣れた。できるだけ素直に話を聞いて、なるべく早めに済ませてもらおう。
新郷さんはボクの近くまで来ると、いつもの通り、右の拳を突き出してきた……と、突然、ボクと新郷さんの間に人の姿が割り込んできた。え?! カノハちゃん? ボクからかなり遅れて歩いていたはずなんだけど……そして、カノハちゃんは、凄まじい勢いでボクへと突き出されていた新郷さんの右腕を掴んだ。――そこまでは見えた。そのあとは、よくわからない。次の瞬間、ボクの目の前で、新郷さんの巨体が宙に舞った。そして、背中からドンと地面に落ちた。カノハちゃんはその前に静かに立っていた。何が起こったのかわからなかった……いや、違うな。何が起こったかは明らかだ。どうやったのかわからないけれど、カノハちゃんが、新郷さんを投げ飛ばしたんだ。
「カッパは、相撲が強い」という。どんな力自慢が挑んでも、けっして勝てはしないから、カッパとは相撲を取るな、と。だけど、これ、相撲なのかなぁ……いや、まあ、新郷さんは倒れているわけだし、相撲だったらカノハちゃんの勝ち、なんだろうけど。
ボクは、目の前の光景をぼんやりと見ながら、そんなことを考えていた。あまりの出来事に感情が追いついていけず、驚くことすらできなかった。しかし、頭の中で目の前で起こったことへの理解が進んでいくと、当然の結論にたどり着いた。――この状況はかなりヤバイ。
ボクは慌てて、あおむけに倒れている新郷さんに近づき、両ヒザと両手を地面につけて声をかけた。
「すみません! 新郷さん、大丈夫ですか?」
すると、新郷さんは、がく然とした顔で上半身だけを地面から起こし、
「おい、二木、一体なんなんだ?」
と言った。その口調は、いつものような力強く自信に満ちあふれたものではなかった。ボクは、その言葉の意味がよくわからず、返事をできないでいると、新郷さんは、
「一体、ナニが起こったんだ? 俺はナニをされたんだ? この俺がまったくわからなかった……。なんなんだ、そいつは? 恐ろしい、恐ろしい……」
と言うと、地面に座ったまま両ヒザを曲げ、両腕で抱え込んだ。その体はブルブルと震えているように見えた。こんな新郷さん、はじめて見る……うわあ、まいったなぁ。
ボクは、あわてて立ち上がると、今度はカノハちゃんに近づいた。とにかく、新郷さんに謝まらせなきゃ、と思ったのだが……カノハちゃんもブルブルと震え、真っ青な顔をしていた。
「……『恐ろしい』って。わたしのこと『恐ろしい』……って」
カノハちゃんは、そうつぶやいていた。新郷さんに「恐ろしい」と言われたことがショックらしい。
そりゃあ、いきなり知らない女の子に投げ飛ばされたりしたら、「恐ろしい」くらいは言うよ。……とは思うのだけれど、カノハちゃんは人間の強いココロをそのまま受け取ってしまうからなぁ。自分に対する否定的な感情をぶつけられたのがツラいのだろう。こりゃあ、今すぐ謝らせるのはちょっと無理だな……仕方がない。
ボクは、カノハちゃんの体を左腕で抱き寄せると、
「カノハちゃん、七廻さんのところまで走るよ」
と声をかけ、そして、
「スミマセン、新郷さん。あとで必ず謝りますから」
と叫ぶと、部長の待つサークル棟へと逃げ出した。とにかく、今はこれしか思いつかない。新郷さんはヒザを抱えて地面に座り込んだままで、動く様子はなかった。
カノハちゃんを抱えるようにして走りながら、ボクは思い出していた。今朝、ボクが「夜道で暴漢に襲われたりしたら……」とカノハちゃんを心配したら、「わたしはカッパなのでだいじょうぶです」と言いきっていた。そのときは意味がわからなかったが、今のを見れば納得できる。あの新郷さんを投げ飛ばせるんだから、そこいらの暴漢など怖いハズもない。
「……あの、あるはくん、わたし……ごめんなさい」
少し落ち着いた様子のカノハちゃんがそう言った。自分が勘違いしてヤラかしてしまったことに気がついたようだ。
「ああ、うん、大丈夫だよ。ボクのことを守ってくれたんだよね。でもね、あの人はボクの先輩で悪い人じゃないんだ。ボクのことを殴るふりをしただけなんだよ。だから、あとで一緒に謝まってね」
ボクがそう言うと、カノハちゃんは素直にうなずいた。やれやれ、これでなんとかなるかな。新郷さんは、ちゃんと事情を話せばわかってくれる人だ。さっきの震えていた、今まで見たことのない姿を思い出すと、ちょっと心配もあるけれど……それでも、いよいよとなったら、部長がなんとかしてくれるだろう。
そして、ボクとカノハちゃんは、ようやく部長が待つサークル棟にたどり着いた。大きく開け放たれた入口の大扉から、飛び込むように中へ入ると、日曜日の昼間の浮かれた空気が広がっている。みんながそれぞれ自分たちの部室に集まって、気の合う同士で好き勝手に会話を楽しんでいる。そんな雰囲気だ。
しかし、廊下を進んだいちばん奥、ボクのサークルの部室に近づくと、そこは静けさに包まれていた。誰もいないハズはない。部長は必ず中でボクを待っている。
部室のドアの前まで来ると、そこは重苦しい緊張感に包まれ、周囲より少し温度が低いような……いやいや、そんなワケないよな。そんなことを感じるのは部長のことをよく知っているボクだけだろう。そう思いながら、カノハちゃんを見ると、まるで雪の降る平原に一人取り残されているように表情が凍りついていた。……カノハちゃん、緊張しているんだな。美筆さんに友達になってもらって、浮かれた気分のままでここにたどり着けたらよかったんだろうけど、途中で新郷さんを投げ飛ばしたりしちゃったからなぁ……。まあ、やっちゃったことは仕方ない、ここはボクががんばらなきゃ。
「それじゃあ、ボクが先に入って、七廻さんと少し話をするからさ、カノハちゃんは、ボクが呼ぶまでちょっと外で待っていてよ」
ボクがそう言うと、カノハちゃんは固い表情のままでコクリとうなずいた。カノハちゃんを見たら、部長がどんな行動をとるかはだいたい想像がつく。だけど、とにかく少しようすを見たい。
ボクは部室のドアのノブを握った。ノックはしない。入室のあいさつもしない。部室はみんなの共有の空間で、誰でも自由に出入りしていい、そういうタテマエになっているからだ。しかし、ボクのサークルの部室にいるのは、たいてい部長だけだ。
ドアを開け、中に入ると、部長はいつもの場所にいた。
窓から陽の光がいちばんよく射し込む位置の折りたたみイスに座り、子供のようにまっすぐに背を伸ばし、目の前にある安っぽい会議用のテーブルの上に両腕を伸ばして、両手で開いた厚い本を見つめている。
その姿を見たボクの脳裏に「今日はいい天気でよかったな」という思いが浮かんでくる。射し込んでくる陽光に照らされて、少しだけ金髪が交じった肩まで伸びる部長の茶色の髪がキラキラと輝いている。ボクはその光景をもう何度も見ている。それなのに、見るたびに魅入られてしまう。
部長は、七廻八瀬は、とても美しい女性だ。
数々の苦難を乗り越え、ようやく七廻八瀬の前に立つことができた二木あるは。カッパの少女・亜麻月カノハのため、七廻八瀬の力を借りようと奮闘するのだが、日々、苦戦を強いられているその華麗な変人っぷりに、この日もまた圧倒されることに……