キミの「言葉」が欲しくって
バスの中で赤ちゃんの泣き声に蒼白になってしまった亜麻月カノハ。ふたりは、バスを降りて大学まで歩くことにしたのだが、亜麻月カノハはかなり落ち込んでいるようす。二木あるはは、なんとか彼女を元気づけようとするのだが……
ボク、二木あるはと、亜麻月カノハは、大学への道を重い足どりで歩いていた。
もう約束の11時には間に合わない。部長に電話しておいた方がいいかな? ……いや、部長は約束に遅れたからといって、怒って帰ってしまうような人じゃないし、電話なんてしたら「そんなことをするヒマがあったら急いで来い」と言われそうだ。隣を歩くカノハちゃんを見ると、顔色はいくらか良くなったが、深く落ち込んでいるのがわかった……本当に、電話なんかしている場合じゃないよな。
「カノハちゃん、大丈夫? 落ち着いた?」
ボクが声を掛けると、
「はい……ごめんなさい」
カノハちゃんは言った。その言葉には、自分を責めるココロがずっしりと乗っていた。
「謝ることじゃないよ。赤ちゃんが急に泣き出して、びっくりしちゃったんだよね? 仕方がないさ」
赤ちゃんの寝顔をあんなに幸せそうに見ていたカノハちゃんが、赤ちゃんを起こすようなことをするわけがない。謝らなきゃならないのは、メールに夢中になって、赤ちゃんが泣き出したときにカノハちゃんのことを見ていなかったボクの方だ。
「……あの子、言ってたんです。『怖いよ』って」
うつむいて歩きながら、カノハちゃんが言った。
「あの子」って……あの赤ちゃんのこと?
「目を覚ましたら、知らない場所で……、まわりには知らない大人のひとがたくさんいて……、怖いよ、怖いよ、お母さん助けて、怖いよ、って言ってたんです。だけど、わたしにはなにもできない、なにもしてあげられない。それが、悲しくって、悲しくって……それで、わたし……ごめんなさい」
ああ、カノハちゃんは赤ちゃんのココロも読めるんだな……。カノハちゃんのその「悲しくって」という言葉には、悲しくてツラいココロがいやになるほど乗っていた。ああ、これは……キツイなぁ。
「カノハちゃんはなにも悪くないよ。だから、謝らないでよ」
ボクはできるだけ明るく、声をしぼり出した。
「……でも、赤ちゃんのお母さんが、わたしに『ごめんなさい』って……お母さんは本当になんにも悪くないのに……。わたし、我慢します。これからは、赤ちゃんが泣いても、もう絶対に我慢しますので」
カノハちゃんは、固い表情でボク言った。だけど、その「我慢します」という言葉には、強い決意とともに、我慢できるか自分を信じきれない不安な気持ちが混ざりあって乗っていた。
ボクは「我慢しなくてもいいんだよ」と言ってあげたかった。でも、言えなかった。カノハちゃんは、この人間の社会で生きていきたいと望んでいる。それならば……我慢しなきゃならない。そうじゃなきゃ、やっていけないんだ。
それから、カノハちゃんは黙ってしまった。なんとか元気づけようと声を掛けるのだが、固い笑顔でこちらを見るだけで返事をしてはくれない。そんなことを繰り返すうちに、カノハちゃんの様子が変わっていくのがわかった。ときどき唇の間から舌を覗かせ、ツバを飲み込むような仕草を見せる。息が荒くなり、まるで炎天下を歩いているようだ。今は、暑い季節ではないのに。
カノハちゃん、喉が渇いているんだな。ボクの部屋で水を飲んでからそんなに時間は経っていないんだけれど……カッパだものな「水切れ」するのも早いんだよな。ひとこと「水が欲しい」って言ってくれればいいのに……いや、違うな……カノハちゃんは言葉にココロを乗せて伝えられる。だから「水が欲しい」なんて言う必要はない。今のカノハちゃんが言葉を発しさえすれば、それがどんな言葉であろうと「水が欲しい」ことはボクに伝わるはずだ。だから……だからこそ、カノハちゃんはなにも言わないんだ。喉が渇いていることを、ボクに知られまいとして。
カノハちゃんは、人間のココロの声を聞いてしまう。自分の意思とは関係無しに、人がなにかを求める声を聞かされ、それに応えようと我を忘れてしまい、応えられないことを強く悲しむ。それなのに、自分自身の欲求はオモテに出そうとしない……。不器用すぎるよ、カノハちゃん。
ねえ、カノハちゃん、ひとことだけでいいんだ、なにか言ってよ。そしたらボクは、喜んでキミに水を差し出すよ。ボクたちは友達だろう?
……そうだ。ボクが望めばいいんだ。カノハちゃんに喋って欲しいと強く望めば、カノハちゃんは口を開いてくれるはず……いや、ダメだ。そんなカノハちゃんを操るような真似はできない。そんなの友達にすることじゃない。
ボクは、カノハちゃんに喋って欲しいという気持ちを抑えるよう強く自分に言い聞かせてから、できるだけ軽い口調でカノハちゃんに言った。
「あのさ、ちょっとコンビニに寄ってくね」
カノハちゃんは、ボクを見て、ニコリとうなずいた。相変わらず固い笑顔だ。ボクがやるせない気持ちを隠しながら見つめていると、その笑顔がすう~っと消えていくのに気づいた。カノハちゃんの表情が消える……マズい! また、何かを欲しがる子供のココロの声に呼ばれたんだな。ボクは反射的に手を伸ばして、カノハちゃんの手をつかんだ。その瞬間、カノハちゃんに表情が戻り、驚いた顔でボクを見た。
「カノハちゃん、コンビニはすぐ近くだからね。大学ももうあと少しだから、がんばって歩いてね」
ボクがそう言うと、カノハちゃんに笑顔が戻り、黙ったままでボクにうなずいた。
……危ないところだった。近くに子供がいるのかな? とにかく、もう少しで大学のキャンパスなんだ、ここまで来て走り出されたくはない。ボクはカノハちゃんの手をしっかりと握り直した。初めて会った夜に握手した時と同じ、カサカサに乾いた冷たい手だ。これがカッパの手だなんて信じられない。いやでも、今のカノハちゃんは人間のカラダだものな。ボクはそう自分を納得させて、カノハちゃんの手をしっかりと握って歩き出した。すると、カサカサだったカノハちゃんの手がしっとりと潤い、少しずつ温かくなってきた。汗なんかじゃない。ボクの手にも清らかな水の潤いが伝わってくる。やはり、カノハちゃんはカッパなんだ。そう思いながらカノハちゃんを見ると、ますます呼吸が荒くなって「水切れ」が進んでいるのがわかった。
コンビニに着いて、自動ドアをくぐると、ボクはカノハちゃんの手を離した。店の中なら、いきなり走り出したりはしないだろう。しかし、店の奥へ進む前に、カノハちゃんの動きが止まった。
「どうかしたの? カノハちゃん」
ボクがそう声をかけて、カノハちゃんの視線の先を見ると……子供がいた。女の子が、レジの横の特設コーナーに並べられたお菓子をジーッと見つめている。
しまった! さっきカノハちゃんを呼んだのはこの子か。ボクは慌てて、もう一度、カノハちゃんの手を握ろうとしたのだが、カノハちゃんの様子がいままでと違う。表情が消えることはなく、悲しそうに女の子を見ている……。そうか、カノハちゃんはもうおカネを持っていない。だから、あの子にお菓子を買ってあげることはできないんだ。
我慢してね、カノハちゃん。我慢することを覚えないと。ボクがそう思いながら、悲しそうなカノハちゃんの顔を見ていると、商品棚の陰から、年配の女性が顔を出し、
「こっちよ~、いらっしゃ~い」
優しい声でそう言い、手招きをした。お菓子を見ていた女の子はトコトコとそちらへ向かい、二人は店の奥へ消えた。
おばあちゃんと孫ってカンジかな? ボクは勝手にそう推察して、カノハちゃんを見ると、悲しい顔のままでその場に立っていた。
「ねぇ、カノハちゃん、あの子はどれを欲しいって言ってたの?」
ボクがそう声を掛けると、カノハちゃんが驚いた顔に変わり、
「え?!」
と、ひと言、口から漏れた。それだけで、あの女の子にお菓子を買ってあげたかったというココロが溢れ出て、ボクに伝わったきた。……まったくねぇ、自分だって喉が渇いて、水が欲しくてたまらないはずなのに。
「カノハちゃんは、あの子がどのお菓子を欲しがっていたのか、わかったんでしょ? 教えてよ」
ボクがそう訊き直すと、カノハちゃんは黙ったまま、ひとつのお菓子をゆびさした。
ああ、なるほどこれか。人気のアニメのキャラクターがパッケージに描かれているやつ。大学でもこのアニメのグッズを持っている学生をよく見かける。最近では、小さな子供にも人気があるらしい。
ボクはレジかごを取ると、そのお菓子を2つ入れた。そして、ペットボトルの水を2本かごに入れると、手早く会計を済ませてコンビニを出た。
「はい、これ」
ボクは店の前で、買ったお菓子のひとつをカノハちゃんに差し出した。
「え?」
カノハちゃんは、すぐにはそれを受け取らず、驚いた顔でボクを見た。
「あの女の子にあげたいんでしょう? あの子が店から出てきたら、あげればいいよ」
ボクはそう言ったのだけれど、
「……でも」
カノハちゃんはためらって受け取ろうとしない。亀ケ岡さんからもらったおカネを使い果たしてしまったことや、チェルシーさんとボクに「知らない子供にお菓子をあげちゃいけない」って言われたことを気にしているんだろうけれど、ためらいながら漏らしたカノハちゃんのひとことには「あの子にお菓子をあげたい」というココロが溢れていた。……まったくねぇ、ほんとうに……なにがあろうと、なんと言われようと、カノハちゃんは子供が好きなんだな。
ボクは、うつむき気味のカノハちゃんの顔をのぞきこむように話しかけた。
「亀ケ岡さんはさ、ボクに預けたおカネはカノハちゃんと二人で好きに使っていいって言ってたよ。ボクはあの女の子に、このお菓子をあげて欲しいんだ。だから、だいじょうぶだよ」
「でも……チェルシーさんが、そういうことをしちゃダメだって……」
「だからさ、今回は特別に、だよ。チェルシーさんだってきっとわかってくれるよ」
ボクはカノハちゃんの右手を取ると、手のひらの上にお菓子を置いた。カノハちゃんはそれを両手で包むようにして受け取ると、ちょっとだけ笑った。
そのあとすぐ、女の子が店から出てくると、カノハちゃんは、おそるおそるという態度と必死な表情で、両手でお菓子を持って差し出した。
だけど、女の子は凍りついたような顔でその場に立ち止まり、お菓子に手を伸ばそうとはしない。
――カノハちゃんと初めて会ったあの夜、最初のうちは、まったく喋ろうとしなかった。積極的に自分の気持ちをオモテに出せない、カノハちゃんはそんな少女……いや、カッパなのだと思う。それでも、いつもは子供のココロを声を聞いて、我を忘れることで、子供が欲しがっているものを渡すことができるのだろう。だけど、今のカノハちゃんは、我を忘れていない。だから、まるで好きな男の子に告白しようとする中学生のように、おどおどしている。
お菓子を差し出された女の子のほうも、そのお菓子を欲しがっていたのはさっきの話で、今じゃない。欲しがっている物をその場で差し出されれば、素直に受け取ることもできるだろうけど、時間が経ってから、知らない人におどおどと差し出されても、わけがわからないし、怖くって、受け取れるわけがない。
だけど――
「……これ、あげる」
そう言ったカノハちゃんに、女の子は吸い寄せられるように近づき、その手からお菓子を受け取った。そして、今の自分の行動が理解できない様子で、カノハちゃんを見て、自分が手に持っているお菓子を見た。
「ゴメンね」。ボクは心の中で、女の子に謝った。今のはカノハちゃんのチカラだ。「これ、あげる」という言葉に「受け取って欲しい」というココロを乗せて、キミを操ったんだ……。それは、いけないことだ。でも、許して欲しい。カノハちゃんは自分が喉が渇いて水が欲しいと思っているときには、まったく喋らなかった。喋っていれば、ボクはカノハちゃんに操られて水を差し出しただろう。それはいけないことなのだとカノハちゃんはわかっていたからなにも喋らなかった。でも、「キミにお菓子をあげたい」という欲望には負けてしまった……だから、カノハちゃんを許してあげて。それはボクの勝手なお願いだけど……。
そして、さきほどの年配の女性が、コンビニから出てきた。
「お待たせ~」
明るい声で言ったその女性に、女の子はお菓子を持ったまま抱きつき、
「おばあちゃ~ん」
泣きそうな声で言った。自分が操られたのが怖かったんだよな……ほんとうに、ごめんね。
「あらあら、どうしたの」
おばあさんは女の子を抱き寄せると、やさしい声で言った。
「あの、すみません。ボクたちが怖がらせちゃったんです」
ボクは、そう言うと、レジ袋の中から、女の子が持っているものと同じお菓子を取り出し、おばあさんに見せた。
「ボクたち、これ大好きなんですよね。その子も、これを好きそうにしていたんで、つい、あげたくなっちゃって……それで、びっくりさせちゃったみたいです」
おばあさんは、ボクの手のお菓子を見ると、女の子が手に持っているお菓子を見た。そして、
「それ、欲しかったの?」
そう訊くと、女の子はコクリとうなずいた。
「あらあら、それなら、おばあちゃんに言ってくれれば買ってあげたのに……」
少し淋しそうに言うと、ボクとカノハちゃんに頭を下げ、
「どうもありがとうございます。わたしは、こういうの全然わからなくって……」
と言った。
「いえ、ボクらこそ勝手なことをして、怖がらせちゃって……すみませんでした」
ボクは、おばあさんよりも深く頭を下げた。ごめんなさい。ボクはカノハちゃんに元気になって欲しくて、その子を利用したんです……
だけど結局、カノハちゃんは元気になっていない。お菓子をあげることはできたけれど、女の子がそれを喜べていないからだ。
「ほらほら、おねえさんにもらったんでしょ? ありがとう、って言わなくちゃ」
おばあさんにそう言われても、女の子はおばあさんにしがみついたままで、カノハちゃんを見ようとしない。
「ごめんなさいね。この子、恥ずかしがり屋さんで……」
恥ずかしがっているだけじゃないよな。自分がどうしてそのお菓子を受け取ったのかがわからなくて、怖いんだ。
「いえ、いいんですよ。ボクたちが勝手にしたことなんですから。それを受け取ってもらえたら、もうそれで十分です」
ボクはそう言ったが……カノハちゃんは淋しい顔をしている。ああ、うまくいかなかったな。
「そうですか……、なんだか、ごめんなさいね」
そう言って頭を下げるおばあさんに、ボクは笑顔を返した。おばあさんは女の子の手を握ると、ボクたちに背を向けて歩き出し、
「いいモノもらっちゃったねぇ」
女の子にそう言葉をかけた。女の子は手に持っていたお菓子をジッと見つめる。そして、少し歩いてからカノハちゃんの方を振り返ると、お菓子を持った手をバイバイと大きく振った。
カノハちゃんの淋しそうな顔がパッとはじけて笑顔に変わり、嬉しそうに手を振り返した。
ボクは女の子に感謝した。ああ、カノハちゃんを許してくれたんだね。ありがとう。
女の子は、パッケージに描かれたアニメのキャラクターの話をし始め、おばあさんはニコニコとそれを聞いていた。二人は楽しそうに話しながらボクたちから遠ざかり、カノハちゃんはそれを嬉しそうにずっと見ていた。
ああ、よかった。なんとかうまくいったな。まあ、ボクにできるのはせいぜいこんなことくらいだ。ボクはレジ袋からペットボトルの水を一本取り出し、キャップを開けてひとくち飲んだ……強い視線を感じた。カノハちゃんがこちらを見ている。うん、これは思った通りだ。
「歩いたから、ボク、喉が渇いちゃってさぁ。カノハちゃんも飲むでしょ?」
ボクは、袋からもう一本のペットボトルを取り出し、カノハちゃんに差し出した。
「はい! ありがとうございます」
カノハちゃんは嬉しそうに答えると、ペットボトルを受け取った。
カノハちゃんはひどく喉が渇いている。それは間違いない。今の「ありがとう」という言葉には、あの女の子がお菓子を喜んでくれて嬉しいというココロと、喉が渇いて水が欲しくてたまらないというココロがゴチャゴチャと混ざりあって、たっぷりと乗っていた。
だけど、カノハちゃんはあせった様子をまったく見せない。ふんわりと受け取ったペットボトルのキャップをゆっくりとあけ、落ち着いた様子で飲み口にくちびるを当て、ボトルをやさしく傾けると、愛おしむように水を自分のカラダに流し入れた。その姿はとても美しく、ボクは見つめたままで、眼を離すことが出来なかった。そして、ボトルの水が無くなると、カノハちゃんはボクを見て、
「それじゃあ、行きましょう」
と、言った。その言葉にはボクへの感謝のココロが、パンケーキにかけられるメイプルシロップのようにたっぷりと乗せられていた。ボクは、その甘さにとらえられ、しばらくの間、言葉を返すこともできず固まった。
カノハちゃんは、そんなボクを不思議そうに見つめ、やさしく微笑んでいた。
二木あるはの手元に残ったもうひとつのお菓子は、亜麻月カノハと二人で美味しく頂きました(笑)