友達になることは労働じゃないので、報酬は無用ですから
カッパの亀ケ岡俊一郎がなぜか置いていった多額の現金。今までの人生で目にしたことすらないその金額に戸惑い、恐怖する二木あるは。彼に、安らかな日々は戻ってくるのか?
ボク、二木あるはは、テーブルの上で頭を抱えていた。昨晩からずっとだ。窓から朝陽が入るようになってきたから、もう数時間が経っている。
テーブルには、紙袋が置いてある。できればそれを眼にしたくないのだけれど、眼を離すわけにもいかない。中にはおカネが入っている。いまどき、現実のマネー、札束だ。しかも、かなりの金額。おかげで、この場から動くことができず、札束を置いていったカッパ、人間の姿は美青年の亀ケ岡俊一郎氏に、昨晩から何度もリダイヤルしまくっている……のだが、なかなか出てくれない。
ボクは、頭を抱えながら、小学生の頃に聞いたカッパのおはなしを思い出していた。
――正直者で働き者の村びとが、道でひからびかけていたカッパを見つけ、沼まで運んでやった。すると、たいへん感謝され、その夜、カッパが恩返しにやってきて小判をたくさん置いていった。それでその村びとは大金持ちになり、幸せに暮らしましたとさ……というおはなしだ。
この話を聞いたとき、子供だったボクは、
「なんで、カッパが小判を持っていたんだろう?」
と、思った。だけど、今ならわかる。カッパには金儲けが上手なやつがいるんだ。今も昔も。
そして、少し成長した今だからわかる。いきなり大金をもらって、「幸せに暮らしました」なんてムリ。正直者で働き者の人間ならば、なおさら無理だろう。小心者のボクにも無理だ。
ボクは、何度めかわからないタメ息をつき、コーヒーでも飲もうかとイスから立ったとき、スマホが鳴った。飛びつくように手に取り、叫んだ。
「亀ケ岡さん!」
「……ああ、この番号、あるはくんだったか。朝起きて着信履歴に知らない番号があふれているから、驚いたよ」
亀ケ岡さんは眠たそうな声でそう言うと、あくびをひとつはさみ、
「なにか、あったの?」
と、言った。
「ボクは昨晩から全然寝られてないんですけど」とか、「寝る前に着信履歴はチェックしてくださいよ」とか、言いたいことはたくさんあった。
だが、とにかく、今は――
「なんで、札束なんか、ボクの部屋に置いていったんですか!!」
そうボクが訊くと、電話の向こうでガタガタと音がしてから、亀ケ岡さんが眠たそうな声で答えた。
「あー、あれね。なんでって、『使ってね』って言ったじゃないか。あるはくんに使って欲しいから置いてったんだけど」
気軽な口調のその言葉を聞いて、ボクの中でグルグルと渦巻いていた不快な気持ちがあふれ出た。
「……亀ケ岡さん、ボクはね、おカネをもらいたいからカノハちゃんと友達になったわけじゃありませんよ」
沈黙があり、重たい口調に変わった亀ケ岡さんが言った。
「すまない、あるはくん。昨晩はバタバタして、ちゃんと話ができなかった。あのおカネは、そういう意味じゃないんだ」
不快な気持ちを吐き出して興奮気味のボクは強い口調のままで訊いた。
「じゃあなんで、わざわざあんな大金を持ってボクのところに来たんですか?」
「いや、『わざわざ』じゃあないよ。ボクはいつもあのくらいの現金は持ち歩いているんだ。商談のときには現金を見せると話が早く進むんでね。小切手なんかとはやはり威力が違う」
「威力が違う」か。そんな物騒なもの、ひとの部屋に置いていくなよ。
「ねぇ、亀ケ岡さん。ボクがカノハちゃんと友達になるのを断ったら、現金を見せるつもりだったんですか?」
「……いや、そんなつもりはなかったよ」
亀ケ岡俊一郎は静かな口調でそう言った。そしてボクが、
「亀ケ岡さん、ボクはあなたが信用できなくなったんですが!」
と言うと、亀ケ岡さんは冷たいとも、優しいとも、感じられる口調で、
「それじゃあ、どうするんだい、あるはくん。カノハと友達になるのはやめにするかい?」
と言った。その予想外の言葉にボクがなにも言えずにいると、
「現金を置いていったことは本当にすまなかった。キミにプレッシャーをかけるつもりはなかったんだ。でもね、昨日キミと話して思ったんだ。あのカネはキミに使って欲しいって。カノハと友達になって、カノハのために使っておくれよ。もちろん、キミのためにもね。あれは、二人で使って欲しいんだよ。お願いだからさ」
亀ケ岡さんはそう言った。
ボクは、スマホを持ったままで固まっていた。うまく言葉を返せる気がしない。亀ケ岡さんのことをすべて信じたわけじゃない。でも、亀ケ岡さんがカノハちゃんのためを思っている、ということだけは疑う気になれなかった……疑いたくなかった。
「……わかりました。このおカネはお預かりしますよ。でも、カノハちゃんのためですからね」
気がつくと、ボクはそう言っていた。
「そうか、ありがとう。キミはそう言ってくれると信じていたよ。それじゃあ、よろしく頼んだよ」
亀ケ岡さんは、スマホの向こうで明るい声でそう言い、通話を切った。それからほんの数秒後にボクは我に返った。
――いやいや、待てよ、「カノハちゃんと二人で使って欲しい」って、あんな金額、いったいなにに使うんだよ。
それに……。ボクは、眼の前のテーブルに置かれた紙袋を見た。状況はなにも変わっていない。結局、ボクはまた亀ケ岡さんにやられたんじゃないか? そう思いながらまた頭を抱えた。
それから、時間が来るのを待った。銀行の始業時間を。コンビニのATMでもおカネを預けられるのはわかっていた。だけど、コンビニに大金を持ち込む気にはなれない。どうしても銀行の窓口を使いたかった。
時間が来ると、ボクは紙袋をナップサックに入れ、前に抱えたままビクビクと銀行に向かい、オドオドと窓口で通帳と札束を差し出した。ボクのような若い人間が多額の現金を持ち込んだのだ、不審に思われたかもしれないが、行員は表情に出さない。プロの対応がありがたかった。
銀行から自分の部屋に帰ると、緊張がほぐれ、一気に眠気が襲ってきた。今日は大学は休むことにして、寝てしまおう。そう考えて、ベッドに入ると、今さらながら、夜中にひとりで帰っていったカノハちゃんのことが心配になった。
カノハちゃん、無事に帰れたのかな?
しかし、「だいじょうぶです」――そう言っていたカノハちゃんの声がよみがえってきて、安心が心に満ちてくる。不思議な気分だ。
――カノハちゃん。もう一度、会いたいな。
カッパだけどカッパになれないという少女・亜麻月カノハがおいしそうに水を飲む姿を思い出しながら、そう思った。いやいや、ボクらは友達になったんだもの、すぐに会えるさ――そう気がつくと、また安心が心に広がってゆき、ボクは眠りについた。
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それから数日が何事もなく過ぎ、日曜日になった。ボクは自宅アパートの机の上で、在宅のバイトをこなしていた。データ入力の地道な作業。同じような商品名とその価格をひたすら入力する。眼も肩も精神もひどく疲れる。そしてときどき、つい考えてしまうのだ。いっきに増えたボクの預金通帳の残高のことを。
「あんな大金があるんだから、こんな地味なバイトやらなくてもいいんじゃないか?」
と、ボクの中のダメな部分がささやき、
「いやいや、ダメだ。あれはカノハちゃんのために使うおカネなんだから!」
と、ボクの中の良い子が反論する……。ああもう無駄に疲れる。どうせボクには自分のためにあのおカネを使う度胸なんてありはしないのに。
こうやって、ボクが無駄な葛藤に悩まされながら、バイトの仕事と苦闘していると電話が入った。亀ケ岡さんからだ。
「やあ、あるはくん、今日は空いてるかな?」
亀ケ岡さんは明るい声でそう言った。
「ええ、はい。時間はありますよ」
「じゃあさ、今日、カノハと会ってくれないか?」
バイトの締め切りはそんなに余裕があるわけじゃない。でもまあ、カノハちゃんに会えるのなら、後回しにする。だけど……
「ああ、それは、いいですけど……」
ボクはあいまいにそう答えた。その前に言っておきたいことがある。
「先日、お預かりしたおカネなんですが、ちょっと金額が大きすぎると思うので、できればお返ししたいのですけれど……」
「え? その件は納得してくれたんじゃないの?」
いや、納得はしてない。このままだと、バイトの進行は遅れるし、ボクがダメ人間に堕ちそうなので、なんとかして欲しいのだ。
「亀ケ岡さんは、この前、『あのおカネはカノハちゃんのために使え』って言いましたよね? でも、あんな大金は必要ないと思うんですけど」
ボクがそう言うと、亀ケ岡さんは少し間をおいて答えた、深刻そうな口調で。
「……いや、あるはくん、言いにくいんだが、カノハにはちょっと問題があってね。あのくらいの金額が必要になる可能性は想定しておいてほしいんだよ」
カノハちゃんに「ちょっと問題がある」か。でも、そんなことは、カッパの女の子と友達になった時点で想定済みだ。だからこそ、ちゃんと確認しておかなきゃならないことがある。
「亀ケ岡さんボクね、あの夜、あなたが帰ったあとにカノハちゃんと話をしたんですよ。そうしたら、カノハちゃんの言葉に逆らえなくなった。ココロが縛られたんです。あれは、言霊ですよね? カノハちゃんの『問題』って、言霊が使えるってことなんじゃないですか?」
ボクはそう言った――
『河童のお告げ』という伝承がある。カッパの「おはなし」ではなく、実際に起こったこととして伝えられている「伝承」だ。
ある日、河童が川の近くにある村落を訪れ、告げた「もうすぐ川が氾濫して村を呑み込む。村の者は全員逃げろ」と。村びとたちはその言葉に従い、全員が村から逃げ出した。少しして、本当に川の水が村を呑み込んだが、村びとはだれも命を落とさなかった――というものだ。
だけど、この伝承には不可解な点があるとボクは思う。河童が川の氾濫を予知できたのは、河童が川のことを知り尽くしていたからだろう。しかし、なぜ、村びとたちは河童の言う事を信じ、村を捨てて逃げ出したのか? 気象予報の発達した現代だって、「水害の危険があるから逃げろ」と言っても、地域の全員を避難させるのは難しい。しかも、告げたのは河童だ。よく「人間に嘘をつく」と言われている河童の言葉になぜ従ったのか?
この前、カノハちゃんの言葉にココロを縛られたときから、ずっとあれがなんだったのか考えていた。そして、この伝承のことを思い出し、自分なりの結論を得たのだ。
『言霊』。言葉に霊力をのせ、それを聞いた相手のココロや行動を縛ることができる――そんな力を使える者がカッパの中にはいる。そして、カノハちゃんはそのひとりなのだと。
だから――
「カノハちゃんの『問題』って、『言霊』が使えるってことなんじゃないですか?」
ボクは、カッパである亀ケ岡さんにそう訊いたのだ。しかし……
「言霊? なんのことだい、あるはくん??」
亀ケ岡さんはそう答えた。とぼけている口調ではない。本当になんのことかわからない、という言い方だ。
「いや、なんのことだ、って……カッパの中にはいるんでしょ? 言霊が使えるカッパが」
ボクが慌ててそう訊き直すと、亀ケ岡さんは、
「言霊ってなんだい?」
と言った。「言霊」を知らないのか。現代のカッパのリーダー格らしい亀ケ岡さんが言霊を知らないなら、カッパに言霊が使える者がいるというボクの考えは間違いなのか……いやいや、待てよ。少し考えてボクは言った。
「言霊っていうのは、言葉だけで相手を操る力のことです。亀ケ岡さんだって、あの夜、カノハちゃんの一言ですぐに意見を変えたじゃないですか」
あの夜、カノハちゃんのたった一言で、立派な大人である亀ケ岡さんがあっさりと自分の意見を引っ込めた、あれも「言霊」の力じゃないかと、ボクは考えていた。しかし、亀ケ岡さんは、
「あれはね、カノハの言う事が正しいと思っただけだ。操られたつもりはないよ」
そう言い、さらに、
「たしかにね、カノハはしっかりとした子だから、ときどき驚くようなことを言うし、たった一言に納得させられることもある。だけど、それは『言霊』なんていう特別な力じゃないと思うよ」
その亀ケ岡さんの言葉に、ボクはなにも返せなかった。だけど、ボクの疑問はそのままだ。伝承の中で、村びとたちは、なぜカッパの言葉に素直に従ったのか? あの夜、ボクがココロを縛られ、いつもなら当然にすることをできなかったのは、なぜなのか?
ボクが考え込んでいると、亀ケ岡さんは話を続けた。
「カノハの『問題』ってのはさ、そんな難しい話じゃないんだよ。ごくあたりまえの、簡単な話なんだ」
亀ケ岡さんのその言葉に、ボクは考え込むのを一時中断し、
「簡単な話……ですか?」
そう言葉を返すと、亀ケ岡さんは言った。
「カノハはさ、まだ人間の社会に慣れていない。特に、おカネの使い方がわかっていない」
おカネの使い方? カノハちゃん浪費家なのかな? この前、会った時には地味な格好をしていたし、そうは見えなかったけれど。
「でも、カノハちゃんがおカネの使い方をわかっていないというならば、なおさらあんな大金はお預かりしないほうが……」
ボクがそう言うと、
「いやいや、逆だよ逆。カノハがきちんとおカネを使えるように、管理して、教えてやって欲しいんだ」
亀ケ岡さんはそう言うと、ボクの返事を待たずに、
「それじゃ、カノハをキミの部屋に行かせるから、よろしくお願いね」
と言った。ボクは慌てて言葉を返した。
「え? ボクの部屋にカノハちゃん一人で来るんですか? それはマズいのでは? ボクもいちおう男ですし」
「ああ、いやいや。あるはくんのことは信用しているよ。それに、カノハもいちおうカッパだからね。そういうのは大丈夫だよ」
え? なに? カノハちゃんがカッパだと言っても、今は女の子じゃないか。なにが大丈夫なんだ? そう思いながら、ボクは言葉を返す。
「せめて、駅とかで待ち合わせにしませんか?」
と、亀ケ岡さんは慌てたように、
「あ、それはダメ。カノハを人の多いところで一人にはできないよ」
と言った。なるほど、カノハちゃんは人混みは苦手なのか……でもなぁ。
「とにかく! カノハをあるはくんの部屋に行かせるよ」
言い切られた。もう反論もさせない気だ。
「ああ、はい、わかりました」
ボクはしぶしぶそう答えた。すると、
「それじゃあ、くれぐれも、カノハには現金を渡さないでね。頼んだよ」
亀ケ岡さんはそう言うと、せわしなく通話を切った。
え、なに、それ? 亀ケ岡さんはボクに現金を押し付けておいて、カノハちゃんには渡すなって?
結局、押し付けられた大金のことはうやむやにされ、ボクが抱いた疑問も解消されていない。それどころか、新たな疑問が生まれた。
でも、まあいいさ。もうすぐカノハちゃんがやって来る。カノハちゃんに会って、たくさん話をしよう。わからないことは、少しずつでもわかるようにしていこう。それが、「友達になる」ってことだろう。
今は女の子の姿とはいえ、カノハちゃんはカッパなのだ。カッパのためになにかしてあげられることは、カッパを愛してやまないボクとしてはとても嬉しいことだ。そして、ボクはカッパのことをもっともっと知りたいんだ。
ボクはカノハちゃんが訪ねて来るのを、ワクワクして待った。
再び、二木あるはの部屋にやってきた亜麻月カノハ。二人で向かい合い話すうちに、亜麻月カノハの持つ能力が、少しずつ明らかになる。そして、カノハの口から、亀ヶ岡俊一郎に関する驚くべき事実が明らかになる。