第二話 新しい自殺希望者
「……え?なんで?また誰か……」
その時の俺は、純真無垢で穢れを知らなかった。だからまた飛び降り自殺をした人間がいると思い、急いで外に出ようとした。
間に合わないかもしれないけれど、救急車を呼べば助かるかもしれない。ドキドキと痛いほど早鐘を打つ心臓を意識しながら、落ち着けと自分に言い聞かせ、鍵とスマートフォンを握りしめて玄関の扉を開けた。
薄暗い通路が見えるはずのそこには、黒いスウェットを着て、頭から血を流している男がひとり立っていた。
その男は俺を見ると、にやりと血にまみれた顔で笑った。
「来ちゃった♡」
「来ちゃったじゃねーよ!死ね!」
衝動的に暴言を吐き、勢いよく扉を閉めた。
内側から鍵をかけて、部屋に戻ろうと踵を返すと、目の前に締め出したはずの男が立っていた。
「久しぶり〜。おまえ、町田っていう名前なんだ。俺、佐野。よろしくぅ」
「成仏してくれよ!表札で名前覚えるな!」
「えー?だってぇ〜、俺ぇ、本当に火葬場で焼かれてどこかに納骨されただけでぇ、初七日の法要すらされてないから成仏できないしぃ」
くるくるパーマの男がもじもじと肩と腰を捻りながら、上目遣いで言ってくるこの苛立ちは、理解されないものだろうか。
すごく、ぶん殴りたい。
「……わかった。明日、読経あげてる寺に連れていく」
「え〜、でもぉ、お経とかわかんなぁ〜い」
「数珠で縛ってお焚き上げにぶち込めばいいのか?」
イラっとしながら返せば、(本人にとっては可愛いを強調した変な角度で)首を傾げて言った。
「本当にわからないのぉ。気づいたらまた飛び降りていて、気づいたらここに来てたのぉ」
「おい、そんなわけの分からないループに俺を巻き込むな」
「俺だってわかんねーよ!!」
「急に逆ギレすんなぁ!!」
そして、勝手知ったる友だちの家に来たかのように、この飛び降り自殺男こと、佐野は、だらだらと喋ってくつろいでは、いつの間にか消えていくことがパターンとなった。
梅雨の日も、猛暑の日も、佐野は飛び降り自殺を繰り返した。
天気が良くても、悪くても、俺が窓を見ているタイミングで、何度も飛び降りては、下の舗装された固い駐車場に叩きつけられることを繰り返していた。
その度に、俺と目を合わせては、落ちていく。
「なぁ、なんで自殺したんだ?」
形ばかりの飲み会で、目の前のグラスに発泡酒を注ぎながら、俺は佐野に聞いてみた。
夏の暑い日で、夜になっても窓から入る風は暑くて湿っていた。
たぶん、終戦記念日の夜だったと思う。
飲むことのできない発泡酒を前に置いて、ちりちりと浮かび上がっては泡になっていく様を見ていた佐野は、血みどろの顔で言った。
「正直、あんまり覚えてないんだ。
何度も屋上から飛び降り自殺を繰り返す内に、生きていた頃の記憶が薄れてきてさ。
その代わり、町田とのやり取りとか、そういうものは覚えているようになった」
「むしろそこは忘れて欲しい」
「ひどい!死んでからの方が楽しくて仕方ないのに!」
へらへらと笑う佐野は、死ぬ前はこんなに明るくはなかったらしい。
それが自殺してからは、何もかもがどうでもよくなってこうなったというのが本人の談。
「だってもう色々と覚えてないし、気にしてても仕方ないし。
町田のところに化けて出られているのも、いつまでなのかとか全然わからないし。
これが最期だとしても、そうかーって思うこともないんだろうから」
「生きているうちから、そうなっていたらよかったのにな」
「まぁ、それはそれで。
代わりに町田が会うたびに明るくなっているから、それでいいかなって」
にこにことしながら佐野が俺を見るが、相変わらずの血まみれ。酒がまずくなるから見るなと言いながら、グラスをあおった俺の顔が赤かったのはアルコールのせいだ。
うるさい、佐野。こっち見るな。
*
飛び降り自殺男との穏やかな交流は、冬になっても続いた。
その日は珍しく風がなく、体の芯から冷えてくるような寒い日だった。
大学の授業をいつも通り誰とも話さずに受講して部屋に帰ると、正月に部活OBの希望者たちで集まるから来いと書かれた往復葉書が届いていた。
差出人は、高校の恩師で、今年の春に定年退職をした高村先生だった。
人より勉強も高校生らしい友人関係の構築も、すべてにおいて下の下だった俺をなんだかんだと言いながら、卒業まで面倒を見てくれた。
おかげさまで、3年生の時にはそれなりに高校生らしい生活を送ることができたと、俺も両親も思っている。
そんな高村先生に再会することが、俺はずっと怖かった。
あれだけ面倒を見てくれたのに、初手からつまずいて、留年してしまった俺を先生はどう思うだろうか。
失望するのか、諦めた顔で笑うのか。
想像するだけで気持ちが沈んで、正月にも春休みにも、夏休みになっても、帰省することができなかった。
それなのに、この時は迷いなく先生に会いに帰ろうと決めた。
早速、往復葉書を半分に切り取り、出席する旨を書いて、ポストへ出しに行った。
かたん、と、冷たい郵便ポストの中に葉書が落ちる音を聞いて、ダウンジャケットも脱がずに、すぐに行動をうつせた自分に驚いていた。
今までなら、葉書を何十回も読んでからようやくペンを握って、ああでもないこうでもないと悩みながら書かずに何日も経ってしまっていたのに。
この変化は何だろうか。
灰色の空の下で、変わらずに色鮮やかなポストが、静かに俺を見つめるようにそこに立っていた。
戸惑いが収まらないまま、とぼとぼと歩いて帰る。
不意に頬を冷たいものが、かすった。
視線を上げると、雪がふわふわと降り始めている。
なんとなく、空を見上げる。
その空の下、エレベーターもない古くて全体的に薄汚れた俺の住むアパートが視界に入った。
自分の部屋も含めて、すべての窓は閉まっていて、明かりもついていない。
まだ夕方にもならない午後の時間。
唐突に、見慣れた四角い建物に違和感を覚えた。
何かがおかしい。
そう思った俺は、立ち止まってアパートを見つめた。
違和感の正体は、すぐに分かった。
屋上のドアが開いているのだ。
佐野が飛び降り自殺をしてから、壊れかけていた屋上の鍵は取り替えられて、今では管理者が点検のために時々開けるだけになっているはずだった。
その屋上のドアの近くで女の人が動くのが見えた。
その女性は、長い髪を風で乱しながら、柵の方へと近づいていき、するりと乗り越えた。
その様子に、ためらいは無かった。
「……自殺する気か?」
俺はそう口に出した瞬間、止めなくてはと発作的に思い、アパートに向けて走り出した。
街路樹が屋上への視界を遮る。
木の根で押し上げられたアスファルトの波に足をとられないよう気をつけながら、全速力で走った。
口から出る白い息が一瞬で後ろへ消えていく。
冷たい空気がカラカラに渇いた喉と肺に突き刺さる。
あと少しでアパートの入り口に着くと思った時、女性の悲鳴が聞こえた。
間に合わなかったのか。
俺は階段の方ではなく、駐車場に向かった。
もし息があるなら、救急車を呼べば助かるかもしれない。
ダウンジャケットのポケットに手を入れて、スマートフォンを握りしめる。
間に合ってくれ。
そう願いながら、アパートの角を曲がり、駐車場へ駆け込む。雪が少しだけ強くなっていた。
とつとつと降ってくる雪の中で、俺は目をこらした。けれど、注視する必要性もないほど、駐車場には何も無かった。影になる車も、何もなかった。
佐野が落ちた時は、だいたいこの辺だった。でも、今は人の体も何もない。
「……飛び降り、やめ、たのか」
はあはあと荒い息のまま、膝に手をあてて、前屈みになる。
いない。
死んでない。
誰も死んでない。
大丈夫だ。
何があったのか、わからないけど、屋上にいた女の人は、飛び降りるのを止めたらしい。
安心と一緒に、疲労感が襲ってきた。
普段の運動不足がそのまま体に出た。
でも、大丈夫。自殺していないなら。
はぁーっと、大きな息を吐いて、上体を起こすと、さっき俺が走ってきたところから、髪の長い女の人が飛び出してきた。
「あ」
さっき、屋上にいた人だ。
俺は「飛び降り自殺の人」と、言いそうになったので口を閉じた。幽霊の佐野には軽く動く口が、生きている人間には錆びついた扉のように重い。
何を言うべきか、迷っていると、
「あの!さっき、屋上から、男の人が、飛び降りて!」
と、乱れた髪のまま女の人が焦ったように叫んだので、だいたいを察した。
「それ、黒のスウェット姿で、髪の毛が天然パーマの男でした?」
「……どうして、それを知ってるの?」
何もない駐車場と俺を忙しく見比べながら、女の人がびっくりしたように答えたので、俺の予想が当たっているのを知った。
**
救急車を呼ぼうとしていた女の人をなだめて、なんとか俺の部屋のある五階まで連れて来た。
「はい、鍵開けますから、中を見てください」
「……え、なんですか、部屋に連れ込む気ですか?」
「部屋には入らなくていいですから!ここで!中を見てください!」
飛び降り自殺をしようとするだけあって、佐野と同じくらいに失礼な人だと思った。
体目当てとか、通報するとか騒ぐ声をスルーして扉を開けると、そこにはいつものように血まみれの佐野が立っていた。
「もぉー!町田ったら!勝手に出かけて俺をひとりにしちゃダメだよ☆」
いつも通りの黒のスウェット姿に、血みどろの顔。にこにこと笑いながら、俺の後ろにいる女の人を指さすと、
「え?!町田の彼女?!
はじめまして!俺は町田の親友の佐野です!
飛び降り自殺したので、こう見えて死んでます☆」
と、ピースサインを目元にあてながら、元気いっぱいに自己紹介をした。
指をさされた女の人は、
「え、ええぇ……」
と魂が消えるようなか細い悲鳴をあげると、くたくたと腰を抜かして廊下にしゃがみ込んでしまった。
うむ、予想通りの反応だ。思ったよりまだまともな人なのかもしれない。
こうして雪の降る日に、同じアパートの三階に住む美沢さんと俺たちは知り合いになった。
次話、21:00投稿予定です。
 




