第1章 依頼(2)
2.
−7月25日 1時10分
大昔、人は外が暗くなると同時に床に入っていた。
現代のように周りが娯楽で溢れているわけではないし、ろくな灯りもない時代で夜になれば
浅い時間でも周囲は真っ暗になってしまうので、確かに寝る事ぐらいしかできなかっただろう。
でも
自分は、それだけ理由ではなかったような気がする。
大昔の人々が、夜になると同時に寝床に入ったのは・・・。
夜の闇が、怖かったからではないのだろうか?
真っ暗になって、何も見えなくなる闇が。
いや、
おそらくそうだったのだろう。
少なくとも、自分は、そう、思う。
少なくとも自分は、夜が怖い。
夜の闇が怖い。
周りが暗くなり、何も見えなくなってしまう。
灯りを点けても、明るくなるのはごくわずかな範囲だけ。
灯りの届かない所は何も見えない。
だから、何かが潜んでいても自分は気がつかないのだ。
その何かが、密かに忍び寄ってきて牙をむいたとしても。
「遅くなっちゃったな・・・」
井川桜子はマンションのエレベータの中で、
携帯電話のディスプレイを見ながらため息をついた。
時間はもう、深夜の一時を回っている。
「何か最近、遅くなること多いなあ・・・。今日だけで雑誌のインタビューを二つと、
新曲のジャケット撮影に・・・あとIn4のグラビア撮影か・・・」
In4とは、アイドル声優専門の雑誌の名前だ。
アイドル声優のグラビアが多数掲載されており、桜子もこれまで何度か載っている。
はあ、とため息をついてエレベータの壁により掛かった。
桜子の部屋はマンションの最上階にあるので、到達するのに少し時間がかかる。
「お仕事は好きだし、イヤにはならないけど・・・
一気にこれだけ来るとちょっとつらいかな・・・」
ややボーッと天井を見つめながら、誰ともなしにつぶやいた。
「明日も結構早いからなあ・・・帰ったらお風呂入ってすぐに寝よ・・・」
程なく、停止階を知らせる音が鳴り、エレベータが停止した。
「あ、着いた」
わずかな沈黙の後、ドアがゆっくりと開いた。
手に持っていた携帯電話をバックにしまい、エレベータから出る。
時間が時間だけに、廊下はしんと静まりかえっている。
一応、都心部に建っているマンションなのに、それを感じさせないほどに物音がしない。
明かりは点いているのだが、それでも何か不気味だ。
いや、むしろ明かりが点いているだけ、よけいに不気味に見えると言うべきか。
最近は、こういった時間に帰ってくる事も多くなったので、
このような光景を見る事も結構あるが、何回経験しても慣れない。
桜子は少々、薄ら寒いものをかんじつつ自分の部屋の前へと急いだ。
日本の夏場特有の、湿気を含んだ蒸し暑さがべったりとくっつくように襲ってくる。
このじめじめした暑さは、本当に好きじゃない。
背中に感じる薄ら寒さと、首筋のあたりを中心に感じる
嫌な蒸し暑さが混ざって不快さが一層増した。
しかし、部屋はすぐそこだ。
−帰ったら、すぐにクーラー入れてお風呂に入ろ。
自分の部屋の前で、バックから鍵を取り出し鍵を開けると扉を小さく開けて中に入った。
蚊が入ってこないように、すぐに扉を締めてロックをかけた。
「ただいま〜・・・・って誰もいないけど」
玄関の明かりをつけながら、桜子は一人で言って一人で突っ込んだ。
彼女は一人暮らしなので、誰も待っているわけはないのだがいつも言ってしまう。
これは、桜子の昔からの癖だ。
だが、一人暮らしをするようになってからは、ドアを開けた時の静寂が怖いので
わざと言ってる部分もある。
とはいえ、「ただいま」と言って本当に返事が返ってきたら、それはそれで怖い事だが。
だがここは幸いにも(?)誰からも、返事は返ってこなかった。
桜子は靴を脱ぐと、玄関の灯りを点けたままリビングに入って今度はリビングの灯りを点けた。
そのままの流れで冷房のスイッチを入れ、続けてリモコンに手を伸ばしテレビをつける。
ちょうど、深夜アニメを放送している所だった。
ここまでの行動を行うと、桜子は玄関に戻って鍵を閉めて灯りを消した。
彼女は帰宅するとまず最初に、必ずこの流れに沿って行動する。
これも、一人暮らしをするようになってから始めたことだ。
部屋に入った時に、中が真っ暗なのが不気味に感じて仕方がないのである。
夜中に帰ってきた時などは、特にそう感じる。
居間に戻ってきた桜子は、安心したようにバックをテーブルの上に置き
上着を脱ぐと大きく伸びをした。
「あーあ・・・・・と。今日もお仕事頑張りました」
と、一人で言いながら、近くにあったハンガーを取った。
「さーてと、早くシャワー浴びちゃお」
またも一人で言いながら脱いだ上着を取って、ハンガーへ丁寧に掛けた。
・・・・と、そこで。
桜子はふと、居間の隅にある自分のパソコンの方に目を向けた。
別に意味はない。
本当に、『何の気なしに』だった。
何の気なしにパソコンに目を向けた桜子は、そこで異変に気づいた。
「・・・・・あれ?」
パソコンの、電源ランプが点いている。
「・・・・・?」
不思議に思いながら、パソコンに近づいてみると・・・
やっぱり電源が入っている。
「あれ?何で?」
首を傾げながら、近くにあったマウスを動かすとそれまで真っ暗だったディスプレイが、
見慣れたウィンドウズのグラフィックに切り替わった。
「消し忘れちゃったのかな・・・?」
今をときめくアイドル声優である桜子は、例に漏れず自分の
オフィシャルホームページを持っている。
その中で日記を書いて載せているのだが、それはこのパソコンで書いて更新している。
それ以外にもネット利用などで自宅でパソコンを使う回数は非常に多く、
朝の出勤前も起動させる事は度々あるし、時間に追われていて消し忘れてしまった事もあるにはある。
確かに今日の朝も、パソコンは起動させた。しかし・・・
「でも・・・今日は確かに消していったよなあ・・・」
マウスをうろうろと動かしながら、桜子は怪訝な顔で考え込んでいたが、
ふとディスプレイに表示されているマークに気がついた。
「・・・・・・・ん?メールが来てる」
桜子が使っているメールソフトは、新着メールが来るとアイコンで通知される。
一瞬、その場で開いて読もうかと思ったが、先に入浴を済ませる事にした。
どのみち後でホームページの更新をしなければならないし、その時でも良いだろう。
「・・・・・・・ま、いっか。とりあえずシャワー浴びよ。
大した内容の物じゃないだろうし。それに、もう体が暑くて気持ち悪いよ〜」
仕事のスケジュールは前もってマネージャーより連絡があるし、メールを入れる場合は
携帯電話に入れてもらうようにしてあるので、パソコンの方には入ってこない。
友人からのメールも、やはりメインは携帯でパソコンに来る事はあまりない。
パソコンに来るメールと言えば大体が契約しているブロバイダか、会員登録している
無料のインターネットTVサイトからの広告メールで、いつも適当に流し読んでいる。
このメールもどうせ、その類だろう。
「さっお風呂お風呂♪」
桜子は気を取り直すように言うと、バスタオルを抱えて軽やかな足取りで
バスルームの方に消えていった。