9.真っ白な雪の中で.中編
そう時を待たずしてイリは3人分の朝食を持って戻ってくる。
おそらくルーパスの分も含まれているだろうが、当の彼はもう出かけてしまったとどう伝えたものか。そんな事を思案していたシュイに気づいたイリは「いつものことさ」と一言言った。
「ほら食べよう。早くお座り」
イリが並べた朝食はささやかだったがとても美味しそうだ。小ぶりだがふっくらとした干物の焼き魚と麦飯、添えられた漬物が色とりどりだ。
「二人前食べれるかい?」
「いいんですか!?」
そうシュイが元気よく答え、イリは微笑ましく思いながら二人分の朝食を彼の前に並べる。
「食欲旺盛はいいことさ、育ち盛りはそうこなくっちゃね」
「あの人はどこに?」
「あぁ、ルーパスの奴か。あいつは墓参りだろうさ」
「……墓」
朝食も食べずにむかった墓の主が彼にとってどれだけの意味があるのかと言う事は想像もつかない。そんな事を考えていると視界の端にイリの手首が見えた。
「どうしてって聞いてもいいですか?」
「どうしてナイトメアなんかと生活してるんだって事かい。そんなに遠慮することはないさ」
そう言ってイリはなんてことないと言うように話し始める。
イリの一族は代々、この家を、ルイを守ってきたのだという。
それこそ代々イリの母もその母もずっとずっと昔から同じように自分の血肉をあのナイトメアに捧げてきた。
「私らの家は罪を犯した一族なんだそうだ。その罪滅ぼしに私らはあのナイトメアとともに生きてきた。きっとルイはその罪の化身、いや罰の具現化なんだろう」
イリはどこか懐かしいような顔をして話す。その罪がどんなものなのかはイリ自身もよくはわからないらしい。
「最初はなんでそんな事を私がしなければならないのかと思っていたし、この家にいても部屋の角にできる影が怖くて小さな頃はよく布団の中で丸くなって震えたりもしたさ」
「最初は……?」
「ん?そうだね。私は罪滅ぼしだなんて思いながらこんなことをしているんじゃない。ただ一緒にいたいからってだけの話だよ。それにさ」
陽光が差し込む部屋の隅にできた影に目を向けたイリはなにか愛おしいものを見るように笑った。
「あれでも可愛いやつなのさ」
それを見た時、何故だがシュイは圧倒された。
「さあ私らの話はいいさ、あんたの話も聞かせておくれよ」
「僕の話……」
あらためてそう聞かれてしまうと言葉につまってしまう。年若いシュイではあったがこれまで多くの事があった。それをどう切り分けて話すべきかと思案する。口ごもるシュイに何か言いたくない事情があるのだろうかとも思いつつ急かすこともなくイリは彼のペースに合わせて待つことにする。
「こうやって朝食をちゃんと食べるのなんて久々なんです。綺麗な布団で眠りについたのも、こうやって誰かとゆっくり話すのも」
シュイが奴隷か何かであっただろう事をイリはすぐに察した。ならばシュイはここを直ぐに離れるべきである。ナイトメアのルイの事もあるが、その奴隷商がまたここらを通らないとも限らない。だが、ただでさえ魔物や野党の潜む道のりに加えこの雪の季節だ、一人ではとてもままならない。その証拠に彼は山奥で行き倒れていたのだから。
「いつ死んでもおかしくなかったし、それでもいいと思って過ごしてきました」
シュイは顔色を変えずにそう語る。それがなんだかイリは悲しく思う。それと同時にルーパスの顔を思い出していた。生きる理由どころか死ぬ理由すらなく、当てもないそんな生きる屍のような姿にイリは日々心を痛めていた。
「これからどうするんだい?行きたい場所はないのかい?」
「そうですね、どうしましょう。故郷にでも帰るべきなんでしょうね。もう誰もいなくなったあの故郷に」
「故郷をなくしたのか……」
あの穏やかだった故郷は何処にも無い、シュイが思い出すのは家族や友人の泣き叫ぶ声と見る影なく荒らされた村の様子だった。イリは何も聞かなかった。ただ黙って少年の言葉に耳を傾けた。
「普通の朝だったんです。僕らはいつもみたいに朝ごはんを囲んでいて、いい天気でした。そんな良い日に奴らは来ました」
不幸の予感なんて微塵もなく、それがむしろ残酷だった。
食卓を囲む彼らは爆発音が響いてはっとする。顔を見合わせた子ども達は外を見ようと窓へ駆け寄って母親がそれを止めようと叫ぶ。でも誰も止まらない。窓から顔を出した子どもの体が吹き飛び、混乱はたちまち悲鳴へと変わる。彼らは大した武装も無く片手間に魔術を放ち村を殲滅していく。
「僕は何も出来なくて、膝を抱えて怯えてただけ」
「シュイ……」
「だから僕はもう死んだようなものなんです」
きっとこれは罪悪感。その癖ちゃっかりここまで逃げてきた。死のうとしてる訳ではない、消極的な自暴自棄。
息も絶え絶え村を逃げ出した後も奴隷商に捕らえられ箱に詰められ随分長く運ばれた。そんな時、幸か不幸か荷台からシュイの箱がこぼれ落ちた。あのまま成す術なく運ばれていればそれも運命と受動的でいられたのに逃げられる機会が与えられてしまえば、その努力を強いられてしまう。
「きっと生きないことを許される機会を探し続けているんです」
「それでも私はシュイがここに来てくれて嬉しいと思うよ」
それは純粋なイリの気持ちだった。イリ自身もその言葉があまりに自然に出てきたものだから少し驚いた。なぜそう思ったのだろうかと考えるとその答えもするりと声になった。
「何かが変わりそうな予感がするんだ。もう何十年もの間、私もあいつも変わらない重しに半分潰されたようにただ過ぎ去っていく日々を眺めていた。そのサイクルが別の転がり方を見せてくれるんじゃないかって思うんだ」
イリのその言葉はどこか達観したような色をおびていた。
そうして話をしていればシュイはすっかり二人前の朝食を平らげて「ごちそうさまです」と手を合わせる。長らくまともな食事をとっていなかったので忘れていたがシュイは存外大食いであった。
二人で後片付けをすませればイリはシュイに自由にしてなと言い引き続き家事をこなし始めた。云われるがままシュイは縁側から外を眺めた。これと言ってする事がある訳でもなくただあてもなく視線を泳がせると規則的な跡が見えた。それがあの人の下駄の跡だと気づくまで少々の時間を要したがそれがわかるとどうにも気になった。シュイの白い髪は日差しをキラキラと反射させるので眩しくて森の中へと入ってみる。
凍った小川を渡ったりしながら少し山を登れば獣道が見えてきた。迷いない足跡が残っている。
「どこに行くんだろう……」
もう日の出の時間は過ぎていたが、木々深いそこは薄暗く、より寒い。素肌よりはマシ程度の服のシュイには辛いがそれを忘れる好奇心に突き動かされていた。
草木が重なり合うようになったその道を進めば視界が狭くなって次にはそれがぱっと広くなる。山頂というほど登って来てはいないがその高台には廃墟と呼んでいいかわからないほどの建物の残骸があった。雪が積もっていることもあり元々何階建ての建物だったのかは推測も難しい。
ただ石碑だけが比較的綺麗に残っていた。年号と名前、学校の名前だろうかそれらはすっかりすり減ってもう読む事はできないがそれが百年近く前のものである事は分かった。
「廃校かな。あの人、どうしてこんなところに」
足跡は校舎の残骸へと続いている。自分とは無関係だ関わる理由なんてない、それでもなぜだかシュイはそれを追いかけたい気持ちになっていた。なぜあの人がこんな場所に一人で来ているのかに興味があって仕方なかった。
慎重に雪の積もった廃墟に足を踏み入れる。かろうじて壁の痕跡はみてとれるが天井はこれっぽっちも残っていない。視線を外へ向けてみれば校舎の裏手は渓谷になっていて下を流れる川は凍ることなくせせらぎを響かせている。恐らく麓の里まで続いているのだろう。
そうして少し歩けば、くの字になった校舎の土台で何となく中庭があっただろう場所が見えてくる。
「……あ」
そこにはいくつもの石、いや墓標が並べられていた。そしてルーパスもまたそこにいた。彼は墓の雪を端から順に払って落とす。一つ一つ、無数の墓石に積もった雪を素手で払い落としていく。その姿は見ているこちらが凍えてしまいそうだった。
学校に並ぶ無数の小さな墓。
朝、彼が家を出てから随分たったがずっとそうだったのだろうか彼の服の袖にはすっかり雪が染み込んでいた。
シュイは近づくでも立ち去るでもなく彼を見ている。彼の表情は変わらず無表情であったが、それがむしろ悲しく見えた。まるで贖罪のように彼が墓の一つ一つを巡り終えるまでシュイは動く事が出来なかった。最後にひときわ大きな墓石の前で彼は足を止める。終始一言も発せず、今度は微動だにもせずそこに立ち尽くしていた。
「……ミア」
きっと彼にとって大切な時間なのだろうと思い、立ち去ろうとしたシュイの耳に微かにその声が届く。それは名前だろうか。きっとあの墓に眠る誰かだ。
彼が何を思って生きてきたのか。ここで何が起きたのか。それを知りたいという欲求が確かにあった。だがそれは彼の過去を踏み荒らすことだ、踏み均した雪は元に戻らないことを振り返った先にある自らの足跡が示していた。そして踵を返す。後ろめたさを胸に引き返す。脳裏に真っ白な雪の中に立つ彼の赤髪を思いうかべながら。