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10 欲情しちゃった?

 そこには誰もいなかった。

 ただ、アリスの衣服があるだけ。


 まさか、時間回帰の呪いによって、存在そのものがない時間まで巻き戻されてしまったのか。

 私は、アリスの衣服を見た。


「こ、これは……」


 それを見て、私は青ざめた。

 服の前側、首から腹にかけて、血がべっとりとついている。

 これは、アリスが吐血したのか。


 不死のアリスは体が傷つき血を流しても、体の復活とともに血も体の中に戻る。

 自らの血で衣服が汚れたままになっていることなど、ありえないのだ。

 これは、ゼーゼマンが言っていた通り、不老不死ではなくなったことの証拠だ。


 瓦礫には、彼女の血はついていない。

 アリスは瓦礫の下敷きにはなっていない。

 それは間違いないが……、アリスの体がどこにもない。

 本当に、時間回帰の呪いによって存在そのものを消されてしまったというのか。


 どうする? どうすれば?

 じきに警官隊も駆けつける。ならば、私はゼーゼマンを追うか?

 しかし、アリスが、……アリスを助けられるのは私しかいない。




 ……駄目だ。

 考えがまとまらない。

 アリスが死んだという事実を、私の脳が受け入れきれない。


 私は気が付くと跪いていた。

 全身から、力が抜けていくようだった。


「ランベール様に続き、アリスまでもが……」


 受け入れ難い事実だ。

 あの不死の魔女が敗れるなど。


 目に熱いものがこみ上げてきた。

 目の前がぼやける。ぼんやりとアリスの服が視界に入る。

 私は、アリスの服をつかみ上げた。


「あなたたちは、どうして私よりも強いのに、私よりも先にいなくなってしまうのだ。アリス……! あなたはランベール様が亡くなったとき、残される者の苦しみを嘆いていたではないか。それなのに、私のことを置いていくなんて、あんまりだ……!」


 アリスや、ランベール様との日々が思い出される。

 ランベール様が私の前に現れ、あのアリス・アリーヌの弟子だと知ったときは驚いた。自慢げに自分の師匠のことを語るランベール様。あの方にとってアリスは誇りだった。

 私がアリスと初めて会ったとき、緊張して何も喋れなかった。伝説の魔女を前にして口を開くこともできなくなった私の緊張をほぐすために、アリスは道化になって笑わせてくれた。

 アリスがエウースの街はずれで引きこもるようになってからは、疎遠になった。アリスの卓越した頭脳と魔法の力を、社会に役立てることもなく怠惰な生活を送っていることを非難したこともあった。

 そして、いつしか「アリーヌ様」ではなく「アリス」と呼び捨てるようになった。そのことでランベール様には怒られたが、アリスは飄々とした態度を崩さず笑っていた。

 驕った私に対して、ランベール様はいつも「師匠のことは少し休ませてあげてほしい」と悲しそうに言っていた。


 ……しばらくして、少しずつアリスのことがわかってきた。

 アリスは、長い間、その身を戦いの中に置いてきた。

 アリスが好戦的なのではない。彼女は自分の大切な者たちが傷つくことに耐えられないのだ。その優しい心を、各国の支配者たちは利用してきた。強大な力をもつアリスをどの国も欲しがった。

 だから、大戦で死亡したと嘘の情報を各国に流した。

 それからは、アリスは表舞台に出ぬよう、このエウースの街はずれでひっそりと暮らしてきた。

 もう誰にも、自分の力を利用させないように……。


「私が、必ずあなたの仇をとります。そして、あなたが望んだ争いのない平和な世界を実現させてみせます。どうか、見守っていてください」


 私は彼女の血が付いた服の一部を切り取った。

 これをお守りとしよう。いつでも、彼女をそばに感じられるように。


「私はあなたと出会えたことを神に感謝します。どうか安らかにお休みください。我が偉大なる師、アリス・アリーヌ」





~アリス視点~


 地上で誰かが喋っている。

 この声はベルトランだ。


 やっと来たの? まったく遅いじゃない!

 今、外に出ても大丈夫かしら。ゼーゼマンのことは捕まえてくれたの?

 どうやら戦っている感じではないけど……。


 私は体が縮んできたときに、咄嗟に地面に穴を掘って逃れた。

 それとほぼ同時にゼーゼマンが瓦礫を落としてきた。

 衝撃で少し気を失っていたが、さきほど目が覚めた。


 それから、少し離れたところまで穴を掘った。

 まだ戦っているかもしれない。

 一旦、様子を窺ったほうがいい。


 私は地面から顔だけを出した。

 ゼーゼマンは……いない。

 ベルトランがいる。さっき、瓦礫を落とされたところでうずくまっている。


 何をやっているのかしら?

 怪我でもしていたら大変だ。私は地面から這い出て、ベルトランのもとへ駆けつけた。

 どうやらベルトランは何かブツブツとつぶやいているようだ。

 詠唱かしら。ずいぶん長い詠唱ね。


「ベルトラ……」


 私が背後から話しかけると、ベルトランは私の服を握りしめながら、肩を震わせていた。


「私が、必ずあなたの仇をとります。そして、あなたが望んだ争いのない世界を実現させてみせます。どうか、見守っていてください」


「……」


「私はあなたと出会えたことを神に感謝します。どうか安らかにお休みください。我が偉大なる師、アリス・アリーヌ」



 ……。



 そういう展開なの?

 私、死んだと思われてる?


 ベルトランは私の服の切れ端をぎゅっと握り、大事そうにポケットの中にしまった。

 そして、そのまま黙祷し始めた。


 ど、どうすればいいの?


 ……とても、「生きてましたー!」と言って、ふざけていい雰囲気ではない。

 かといって、肩をポンポンと叩いて「泣くな、弟子よ」と言って登場するのも、芝居がかりすぎている。


 まずい。まずい。まずい。

 これで生きていたとわかったら、また怒られる……。


 私がどうしようかと顎に手を当てて考えていると、ベルトランがすっくと立ち上がって、こちらに振り向いた。


「うわっ!」


「きゃあ!」


 ベルトランが驚愕の声を発した。

 あまりに急だったので、私も驚いて叫んでしまった。


「だ、誰だ!」


 ベルトランは杖をこちらに向けてきた。

 私はすぐに両手をあげて弁明した。


「違う違う! 帝国の人間じゃないわ! 私よ!」


「…………アリス、なのか?」


「そうよ! 私以外の何者でもないでしょう!」


「……」


「……」


「……はあ。……そうか、ゴホン、いや、無事だったか。まあ、そうだろうな。……だと思っていた」


 嘘つけ! 死んだと思ってたじゃない! 黙祷を捧げていたでしょう!

 ……ま、まあ。どうやら今回は怒られないみたいだし、良しとしましょうか。


「ゼーゼマンは?」


「逃げられた」


「そんな! 逃がしてしまったの!?」


「う、それは……。のっぴきならない状況だったというか……」


何か隠してるわね……。


「正直に言いなさい。何があったの?」


「そ、それよりも、今から追うにしたって、その恰好ではいかん!」


「え?……ああ、たしかにそうね。さすがにこの格好じゃあね」


 私は服が脱げていることに、あらためて気が付いた。

 地中に潜ったときに脱げてしまったのだ。

 どうやら、それが結果的に変わり身の役目を果たしてくれたおかげで、難を逃れたようだ。


「元の服を着ろ!」


「血で汚れているからいやよ。サイズも合わないし」


「では、私のローブを羽織れ!」


 ベルトランは、ローブを脱いで投げつけてきた。


「わっぷ。なによ。そんなに慌てちゃって。……あ、もしかして、お師匠様の裸を見て欲情しちゃったのかしら?」


「くだらんことを言うな。さっさと着ろ!」


「そんなに照れなくてもいいでしょう? 昔はよく一緒にお風呂に入ったじゃない」


「私が子どものころの話だろう! 何十年前のことを話しておるのだ!」


「ほほほ。ざっと五十年くらい昔かしら。懐かしいわねぇ」


 ベルトランのローブを羽織り、私はあたりを見回した。

 ちょうど、警官隊の乗った三台の馬車が到着した。


 クロエさんや護衛の人たちの無事を確認し、黒いローブの連中を拘束した。

 呪いの途中で胸を杖で突き刺し自害した人たちは、やはり助からなかった。


「さて、ゼーゼマンのことを追いましょうか? 相当な深手を負わせたんでしょう?」


「……いや、やめておこう」


「あら、どうして?」


「……理由は二つ。一つ、奴は呪いが得意な魔法使いだ。すでに呪いの罠を仕掛けるだけの時間を与えてしまった。大戦時の資料にも、奴は呪いを応用したさまざまなバリエーションの罠を張ったと書かれている」


「そうね。私も今回、奴の罠に嵌められたわ。でも、私とベルトランなら罠を見極めながら、奴を追えると思うわ」


「それが追わない理由の二つ目だ。アリス、あなたは死んだと思われている。生きているとわかったら厄介だぞ? 取り逃がしたときは、またこの街が襲われる。今回のように犠牲者ゼロ人というわけにはいかないだろう」


「た、たしかにそうね」


 またクロエさんやポールさんが狙われないとも限らない。

 いや、私が生きていると知ったら、また狙ってくるだろう。


「あなたは死んだことにしたほうが都合がいい。奴らの裏をかくのだ」



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