高校生の夏、金欠の夏
蝉時雨とは本当にいい夏の季語だ。
聞き慣れすぎて耳にも届かない蝉時雨。
陽炎のたつ坂道の途中に七海の通う高校がある。
夏休みのはずが毎日学校へ通い、課題をこなしつつ圭亮の編みぐるみを眺める日々。
悪くない。悪くないが、このままではダメだ。
「上の空のようだね。どうかしたの」
課題をこなすはずの手が止まっているのを言っているようだ。
このままでは、この男に心を奪われる。
自分ではけして奪う事など出来ない彼の心。
このままではダメだ。
「小野先輩、編みぐるみ以外にも作ったりするんですか?」
何となく尋ねてみれば、にこりと笑い圭亮が口を開く。
「気になる?」
「いえ、別に」
課題へ視線を戻し、すすめていく。
後、数問で終わる。
夏休みの課題も圭亮の講習も。
煮える暑さに耐えながら、学校へ来なくてもよくなる。
せいせいする。
いや、せいせいして欲しい。
寂しいだなんて。
「七海は夏休み、どこか行くの?」
「お盆におばあちゃん家行くくらいで」
「へぇ、おばあさんの家」
「隣の市ですけどね」
「近いんだね」
「小野先輩はおばあちゃん家行ったりしないんですか?」
「もうないからね、お墓もないし」
一息おいて圭亮は続ける。
「課題もクリアしたし、今度は出掛けようか」
え?
意味を理解するのに数秒要した。
別に恋人同士という訳でもない。
出掛ける必要なんてあるはずが。
「な、なんでですか?」
「理由が必要?」
「必要です。だって、私たち付き合って――」
「――じゃあ、キミに勉強を教えたご褒美として、一緒に出掛けよう」
それこそ、無いわー!
そもそも、自分に釣り合う学力をつけろと言われて夏休み返上でやって来ていたのに。
「不服?」
自分を見る圭亮の視線が自分の何かを貫いた。
反論する気力はそこから抜け落ちていった。
その日の晩、圭亮からメッセージが届いた。
明日、学校の最寄り駅へ集合という内容だった。
夏休み入った頃、服を選びに行った時、何故買わなかったのか七海は深く後悔する。
持っている服を総動員して、持っているファッション雑誌をめくって、明日に挑んだ。
白のシフォンロングカーディガンをなびかせて足早に七海は歩を進める。
デニムのタイトスカートと厚底のサンダルが早足には向いていない。
それでも指定された時間に待ち合わせの駅まで行くと、圭亮はすでに来ていた。
黒色のスキニーパンツ、白のロングTシャツといったモノトーンの出で立ちであるにも関わらず、気品だとか優雅さとか華々しさだとか神々しい何かをまとっている気がする。
「すみません、お待たせしましたっ」
「待ち合わせ時間にはまだ時間がある。お互い、気が早かったね」
圭亮は苦笑気味に七海に応えると、手を差し出した。
この手は取るべきなんでしょうか?
ちらりと圭亮を見ると早く手を取れと七海を見つめている。
七海は思い切って圭亮の手を取った。
七海と圭亮が手を繋ぎ、歩いていれば、くすくすと笑い声が聞こえてきた。
釣り合っていないカップルだとか身の程知らずの女だとか。
そんなの、十二分に知ってる!
それでも、嘲笑が聞こえるたびに圭亮がそちらを睨みつけ、黙らせていた事が嬉しかった。
学校の最寄り駅から2駅先に市の中心街がある。
目的地はそこだった。
話題のコメディ映画を見に行くようである。
テレビCMで流れる度に観たいと思っていた映画だったので、テンションも上がるというものだ。
飲み物とポップコーンを持って指定の席につく。
そわそわして、スクリーンを見つめていると圭亮が苦笑いを浮かべた。
「な、なんです?」
「小動物が辺りを伺っているみたい」
「みっともなかったですか? すみません」
「いや、可愛かったよ」
さらりと言われたその言葉を飲み込むのに時間が掛かった。
何か言おうとした瞬間に映画が始まる。
七海は言葉を飲み込み、スクリーンを見つめた。
どうせ、からかっているだけだ。
映画のクライマックスに何となく隣を見た。
圭亮と目が合う。
いつから自分を見ていたのだろう。
七海はさっと目をスクリーンに戻した。
終わってからでも問いただせる。
そう思い、映画に集中をした。
エンディングが流れ、席を立つ人も現れて再び圭亮を見ると、変わらず圭亮は七海を見つめていた。
七海は圭亮に身を寄せて口を開く。
「ちゃんと見てました?」
「もちろん」
それならばいいかと七海はスクリーンに視線を戻した。
映画館を後にして、カフェに入る。
ここでも変わらず圭亮は周囲の視線を集めていた。
意外と七海への嘲笑や侮蔑は見られない。
圭亮の神々しいオーラに自分は打ち消されているのだろうと決めつけて空いている席につく。
「七海、明日はどこへ行こう?」
「え、毎日会うつもりですか?」
「会わないつもり?」
笑顔が怖い。
どう返したものかと思案して七海はうめき声をあげた。
「いいよね、七海?」
とんでもない武器だ。
なんだその表情は。捨て犬が拾って欲しいって請う様な、いや捨て犬には無い気品があるような、むしろ悪魔のような表情なのか。
とにかく形容に困る表情に七海は打ちのめされる。
分かっていて、この表情で迫ったのだろうなと七海は思いながら、圭亮に向けて頷いた。
この夏は金欠の夏だと悟った。