アレが見えないのか?
追い風に煽られるように、俺は足を走らせる
どこへ向かうでもなく、脳から伝達される電気信号を、ショートする寸前まで流し続け、無理矢理走らせる。
息が切れ意識が、朦朧として視野が狭まり、街の風景などろくに見えず、進行方向の障害物に気が付かなかった。
俺はリーマンにぶつかり転げた。
いつもなら、逆に因縁付けて転がしてるところだが、今の俺はまともな精神状態じゃない。
キレ気味のリーマンに俺はしがみつき、助けを乞う。
「助けてくれ! 頼む、助けてくれよ。追われてんだよ!」
俺が指で刺す方を、反射的にリーマンは見たが、明後日の方向ばかり見ている。
俺はリーマンを揺さぶり強く訴える。
「嘘だろ? どこ見てんだよ? アレだよ! アレ!! ――――――――アレが見えないのか!?」
四日前。
ホール内に絶え間なく鳴り響くEDMのせいで、ここでハイになってる奴らはみんな、バカみたいに声を張って話す。
青紫の照明が、いかがわしさを引き立てて、変な気になりそうだ。
仕事終わりに新宿の雑居ビル下のクラブへ足を運ぶと、いつものように高校の時の後輩か挨拶した。
「パイセン、お疲れ様です!」
立ちテーブルで手を振る後輩は、金髪に鼻ピアスで尖ったとこを見せてるが、高校の時は不良連中にパシられて、面白半分にサンドバックにされてるひ弱野郎だ。
ボコられたところを気にかけてやったら、妙になつかれて、高校卒業してもよくつるむようになった。
「パイセン。これ見てくださいよ?」
迷惑半分にスマホを見せられたのは、よくある恐怖動画。
「お前。またキモイ動画漁ってんのかよ?」
「だって面白くないっすか? 薬中の彼氏に殺された女の幽霊で、腹を刺されて、長いこと苦しんだ後、変色した血を吐きながら死んだらしいんすよ。黒いヘドみたいなヤツ」
「キモチわりぃ」
「アレ? パイセン。こういうの苦手っすか?」
俺が頭を叩くと、後輩は苦笑いをして謝った。
動画はワンルームの隅に、女の幽霊がたたずんでいる物だった。
時間が経つにつれ、女の幽霊が徐々に画面に近づいて行き、画面の前まで来たところで砂嵐が入り、動画が途切れる。
数日後、仕事が片付きタクシーで家のマンションまで帰り、城壁の扉のような入り口へ足を運ぶ前に、道端で声をかけられる。
「パイセン」
「うお!? お前か? 脅かすなよ。何時だと思ってんだ。深夜、二時だぞ?」
顔面蒼白で歩く死人のように、上半身をフラフラせる後輩。
後輩はろれつの回らない口でしゃべりかけてきた。
「お、俺、おっ、パイ、パイセン、パイ」
「なんだよ! キモいぞ?」
後輩は黙って指を刺す。
その指は俺に対してではなく、こちらを通り越して背後へ向けていた。
俺は恐る恐る振り向く。
「パイセン、"アレが見えないんすか?"」
「何もねえけど?」
「アレが、アレが、うっ、げぇ、げぇええー」
後輩は口を押さえて電柱に駆け寄ると、激しく嘔吐した。
「汚えなぁ。おい、大丈夫かよ?」
吐き終わった後輩を気遣い、肩に手をかけると、振り向いた後輩を見て、俺は言葉を失い後退る。
「パイ、セン、」
後輩は口と鼻から黒いオイルのようなヘドを垂らし、両目からドブ色の涙を流した。
後輩は怯えた顔で「あぁ、来るなぁ!」と叫び走り去った。
呆気にとられる俺は、その場で立ち尽くす。
その日は仕事を休み、クラブで知り合った女と、銀座の老舗レストランで、シャンパンの色合いと香りを楽しみながらディナー。
コースのメインデッシュは 最高級の和牛ステーキ。
フォークで肉を押さえ、表面へナイフを縦に入れる。
ぁあ? 肉が全然切れねぇよ。
一番良い肉を注文したんだぞ? 焼きすぎか? 焼き加減はレアで頼んだのに、ふざけんなよ。
肉の焼き加減について共感を求めようと、女の方に目を向けると、女は針のような指でナイフを操り、力む様子もなく、か細い腕で難なく切っていた。
俺の肉だけ焼き加減を間違えたのかよ?
ウェイターにクレームを付けようと、刃先を肉から退ける。
すると、俺は自分の目を疑った。
肉の表面は、ファスナーを下げるように、自然と切り込みが入る。
神の奇跡で海が自然に割れたなんて話があるが、まさか、俺の目の前でも奇跡が起きてるのかよ? そんなわけねぇ。店が仕掛けたドッキリか?
そして、ゆっくり裂けた肉の中から、白い水晶のような玉が見え隠れする。
小さな切れ目の為、よく見えず、俺は肉の裂け目を除き込もうとした。
切れ目に挟まる水晶玉は、一種だけ震えたように見えると、ギョロリと一回転して黒い斑点が現れる。
紛れもなくそれは、人間の瞳だ。
俺はその瞳と目が合い、おぞましさで動けなくなった。
肉がさらに裂けると、目玉の主が、三日月のように半面を見せる。
青白い女の顔だった。
驚いた拍子に、思わずテーブルの下に膝をぶつける。
テーブルの対面に座る女は、怪訝な顔で俺を気遣うので、微笑みを浮かべて誤魔化した。
「別に、こんな肉、見たこと無かったからさ」
女はクスリと笑うと、再び皿に手をつける。
俺も、自分が手を付けた皿に目を戻すと、二つに切られた肉の断面は、艶やかなピンク色に肉汁が流れ出ていた。
俺はもう一度、ナイフの刃を表面に当て、肉を切る。
今度は力を入れずとも、たやすく切ることができた。
一口サイズに切った肉を、眺めた後に口へ運ぶ。
次の日。
街を歩いていると、クラブの仲間から連絡が入ったので、電話に出た。
「よう、どうした?」
内容は、いつもつるんでる後輩。
「この前、合ったぞ。あいつ深夜に来てよ。訳わからねぇこと言ってたよ。ありゃ、大分…………は?」
会話が終わると通話を切り、しばらくスマホを眺めていた。
マジか。
あいつが"死んだ?"
話によると、飛び下り自殺だった。
後輩の声が脳内で反響する。
"アレが見えないんすか?"
フラッシュバックのように、後輩が見せた呪いの画像と、肉から覗く女の顔がちらつく。
気分が悪くなり口元を押さえ、路地裏まで駆け込んだ。
地べたへ四つん這いになり、決壊したダムのように抑えが利かず、その場で嘔吐。
嘔吐の苦しみは引く気配がなく、誰かが俺の胃袋握って、胃液を絞り出している感覚におちいる。
吐瀉物は止まる気配は無く、むしろ勢いが増すばかり。
苦しみは続き、次第にどす黒いオイルのような物へ変わり、ひたすら俺の口からで続けた。
いったい、俺の身体に何が起きているんだ?
何がどうしたら、こんなどす黒いゲロが出てくるんだよ?
地べたがドス黒い沼と変わる。
すると、黒い沼が湧き上がる噴水のように盛り上がり、浅い山のように膨れる。
盛り上がったオイルが髪のように、はらりと開き、青白い女の顔が現れた。
鼻から上を浮き上がらせ、口元は黒いオイルに浸されて見えない。
見覚えがある。
恐怖動画で見た、女の幽霊?
女はこっちに近づいて来る。
俺はドス黒くオイルを吐き続けているせいで動けない。
女は嘔吐し続ける、俺の目の前で動きを止める。
自分を殺したジャンキーの彼氏と、俺を重ねているのか、怒りとも怨みともとれる眼を向けながら、黒い沼から二本の腕を伸ばし、俺の首を掴む。
締められたことで、嘔吐は強引にせき止められるが、胃は依然、吐き続けようと筋肉を震わす。
内からこみ上げる内蔵の苦しみと、外からせき止められる苦しみでもがき続けた。
板挟みになり呼吸はままならない。
身体を反り返らせ、捕まれた首を振りほどく。
止まらない嘔吐を、喉へ押し戻すように口を押さえ、立ち上がり、俺は街を走った。
「――――――――アレが見えないのか!?」
理解されないことに苛立つ。
俺は顔を戻し、リーマンを見て声がつまらせた。
そいつは目を虚ろにし、瞳と白目がスロットマシンのように回っていた。
口は、まるで筋肉が無くなったように、だらしなく開き、締まりのない口から、よだれを垂らすと、そのまま黒いオイルが流れる。
黒く染まった舌がダラリと垂れ下がり、目は光すら吸収してしまうくらい、真っ黒に染まる。
しかも、舌は一本、二本、何本も次々と喉の奥から現れ、タコの触手のようになり踊り始めた。
「うわぁ!?」
驚きリーマンを突き飛ばすと、口から生えたタコのような触手が、ムチのように飛び出し俺の左手に絡みつく。
「離せよ!!」
八本の触手は、寄り集まるミミズのように蠢き、俺の手にむしゃぶりついたまま、離そうとしない。
人外になったリーマンの腹に、蹴りを入れ引き剥がす。
「う、うわぁぁああ!」
俺の手首は溶けたチーズのようにドロドロと、表面が流れ出し、筋肉が露出した後、崩れ落ちて白い骨を晒した。
露出した骨は指の一つ一つがピクピクと動き、感覚は健在。
白昼、絶叫しながら俺は再び駆け出した。
逃げ場を探し路地へはいると、足が絡み転倒。
皮膚が付いている方の手で頭を押えた。
だが、途中から頭を掴む感覚がなくなり、泥水にでも手を入れているような感触に変わる。
どこまで入っていくのかという好奇心も出てしまい、手を止めることなく、ズブズブと中へ入れていくと、その手が何かを掴む。
俺は片手を頭から引き抜く。
取り出した手を見ると、まるで海藻が絡みつきついたように、自分の髪が手の平にまとわりついていた。
ズルリと毛の塊が滑り落ちると、手の平に残ったのは、ピンク色の油の塊だった。
グニャグニャと寄り集まり、所々シワを作っている。
この物体が何なのか、すぐには理解出来ず呆然と見つめていると、ふと閃き、物体の正体に恐怖した。
これは、脳だ。
俺は自分の脳ミソを取り出した。
俺は絶叫しながら、また頭に手を入れて、取り出した脳を頭蓋骨の中へ入れ込もうとした。
パニックにおちいった人間の行動など、傍から見たら理解出来ない。
今の俺はその状態におちいっている。
取り出した脳ミソは戻せず、膝にボトボトと白い塊が落ちて行った。
片手を頭から引き離すと、顔の皮膚がアメーバのように引っ付いて伸びた。
そのまま垂れ下がり、顔の皮膚は溶けて流れ出す。
骨となった手も使い両手を顔に押さえ付けて、これ以上、皮膚が流れ出ないよう押さえる。
右目が熱くなり、ジュクジュクと音をたてながら、割れる風船のように破裂した。
赤い飛沫が空気中に広がる。
「うわぁぁあああああーー!!!」
――――意識が覚醒すると、そこは、見慣れたワンルームの自室だった。
日はとう暮れている。
俺は顔を押さえ、元の形に戻っていることを確かめた後、安堵する。
そして気が付く。
そうか、全部"幻覚"だったのか。
落ち着きを取り戻すと、喉が渇き水を飲もうと立ち上がる。
不意に目眩が。
急に身体を上げたので、立ちくらみがしたようだ。
まるで下半身を抜き取られたように、俺は崩れで膝を床に付き四つん這いになる。
気を取り直し立ち上がろうと、上半身を上げた時だった。
そのまま身体が硬直し、動かない。
膝をついたまま、両手をわずかに広げ、顔を天井へ向けたまま、祭壇に祈るような姿で金縛りにあった。
開いた口が塞がらず、舌が浮き上がる。
舌は痺れ感覚がなくなると、舌から先に黒い陰が現れた。
陰の真ん中に垂直へ切れ目が入り、滝を割って出るように、あの"女"が現れた。
女は俺の舌を手で掴み、引っ張る。
女は舌を引っ張る方とは別の手で、俺の顎へ触れた。
顎は女の手に持ち上げられて、そのまま舌を挟む。
そして女の手に、持ち上げられて行く顎は、舌をジリジリと挟んでいき静かに苦痛を与えていった。
無理に引っ張られた舌は、抵抗しようと筋肉を強張らせる。
そのせいか、簡単には噛み切ることが出来ず、食い込む歯は錆びたナイフの刃を、生肉に押し当てているようだ。
だが確実に歯は舌に刺さっていく。
金縛りのせいで口を押さえられず、痛みを気分的に和らげることも出来ず、舌の激痛は耐え難いほど広がった。
ハサミで切り落とすように、俺の歯は力の限り舌へ食い込み、そして噛みちぎる。
真紅のバラが咲くように、口から血が吹き出した。
翌日テレビからは、こんなニュースが流れた。
女のキャスターは顔を強張らせ、原稿を読む。
「今日未明、男が自宅で舌を自ら噛み切ったことにより、死亡しているのが見つかり、警察の調べで男は違法薬物"MDMA"を売る元締めだということが解りました。
男は正午過ぎにも、奇声を発しながら街を走るなど、奇行が目立だっており、元締めは薬物依存による中毒症状から、舌を噛み切ったとの見方が強まっています。
また、この男の顧客と思われる20代の男性が、飛び下り自殺をしており、関連を捜査中とのことてす。
続いてのニュースです……」