魔法の言葉が紡ぐ物語
--ありがとう、たった五文字の感謝の言葉
でも、人の心を優しくする言葉--
病院の廊下を駆けてくる足音が聞こえた。
きっと、あの人ね…。
私は近づいてくる足音を聞きながら苦笑する。
遠くで看護師さんから注意の声が聞こえるけれど、きっとあの人には聞こえてないわね。
…もう、あとで謝らなきゃいけないじゃない。
足音が病室の前で立ち止まった。
もうすぐ、あの人が入ってくる。
緊張しているのか、なかなか入ってこない。
廊下にも室内から漏れる賑やかな声が聞こえてるから緊張してるのね…早く入ってくればいいのに。
ガラガラガラ。
意を決して病室の扉を開いてあの人が入ってくる。
「遅かったわね、あなた」
私はベッドからあの人を優しく見つめると視線を移動する。その傍らには気持ちよさげに眠る天使の姿。
「元気な女の子よ」
その言葉を聞いて私と新たな家族を見つめて---。
「ありがとう」
感極まったのか泣きそうな笑顔であなたは---。
私を優しく抱き締めてくれた。
パタパタと駆け寄ってくる小さな足音。
でも、私は気づかないふりをしながら料理をする。
何をしようとしているのか分かっているけど知らないふり。だって、今日は母の日だから。
「ママぁ~、こっちを向いてぇ~」
私を呼ぶ可愛らしい声が聞こえる。
昨日、あの人と何やら相談していたのは知っていた。内心でドキドキしながら振り返ると---。
一輪の真っ赤なカーネーションが視界に飛び込んできて思わず泣きそうになる。
必死に堪えながら私は娘の視線に合わせるように屈み込んで娘とカーネーションを優しく見つめる。
「ママにくれるの?」
「うん!」
無垢な笑顔を私に向けながら大きく頷く娘。
私のお手伝いを一生懸命して貯めたお小遣いで買った一輪のカーネーションを差し出して--。
「ママ、いつもありがとう!」
受けとる指先が微かに震える。
だって娘からの初めてのプレゼントだから---。
思春期の娘が泣きながら帰ってきた。
何があったのか…いろんな不安が脳裏をよぎる。
なかなか話し出さない娘に大好きなココアをそっと差し出して泣き止むのを静かに待った。
ココアが効いて落ち着いてきた娘は小さな声でポツポツと話し出す泣いていた理由、大好きな彼氏とケンカしたらしい…なんだか少しだけ、ほっとした。
私に話したことで吹っ切れたのか娘は立ち上がって部屋に向かう途中、ふと歩みを止めてちらりと私に視線を向ける。
少しだけ照れ臭そうにしながら小さく私に呟いた。
「……ありがとう、ママ」
そんな娘の表情に自然と笑みが溢れてしまう。
娘が彼氏をつれてくる。
あなたは右往左往しながら落ち着かない様子で玄関を行ったり来たりしていたのに娘の姿が見えた瞬間、慌てて家の中に入っていつも通りを演じているけど娘にはバレてるみたい。
だって、私と目の合った娘が苦笑してるもの。
「お義父さん、娘さんを僕にください」
頭を下げる彼氏にあなたは腕を組んだまま瞳を閉じて、口を真一文字に結んで最後の抵抗--。
もう、意地っ張りなんだから…。
ふと私があなたを家に連れていった時の事を思いだして…お父さんもこんな感じだったのかしら?と考えて私は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「もう、諦めなさいよ」
そっと耳打ちするとあなたったら…。
まるで、この世の終わりみたいにがっくり項垂れて諦めたように---頭を下げたままの彼氏に向かって。
「娘を幸せにしろよ」
その言葉に彼氏は顔をあげて真剣な表情で頷く。
「はいっ、必ず幸せにしてみます。お義父さん、お義母さん認めてくださりありがとうございます」
もう一度、私達に頭を下げた彼氏はテーブルの下で娘の手を優しく握りしめて喜びを分かち合う姿に自然と涙が溢れた。
教会の扉の前で似合わない燕尾服を着たあなたは落ち着きなく行ったり来たり…その姿に私は少し呆れた表情を浮かべる。
それでも式が始まってバージンロードを歩く瞬間、娘がそっと寄り添うとあなたは表情を引き締めた。
そんな横顔をちらりと見て娘が囁くように---。
「パパ…ありがと」
その言葉に引き締めていた表情が一瞬で泣き顔に変わる。相変わらず涙もろいんだからと私は苦笑する。
清潔感のある病室で私と娘の旦那さんの家族が新たに生まれた命に微笑みを浮かべているなかでバタバタと近づいてくる足音。ふふふっ、なんだか、あの日を思い出すわ---。
遠くで看護師さんから怒られている声が聞こえて娘が呆れたような小さな溜め息をつく。
「もう、あの人ったら…あとで謝らなきゃ」
娘の呟きに思わずあなたをちらりと見ると、あなたったら私から視線を外して知らん顔をしてる。
やっぱり、母娘ね。
同じような人を好きになるみたい。
病室の扉が開いて照れ臭そうに入ってくる娘の旦那様はあなたとおんなじ顔してる。嬉しさに表情が緩んでるもの。
旦那さんの家族が病室を出たあと初めての出産を終えた娘が優しい瞳で我が子を見つめながら--。
「ママ、私を生んでくれて…ありがとう」
その言葉に私は優しく娘を見つめて小さく頷く。
幾つもの年月が過ぎて私もあの人も年を取った。
定年退職を迎えたあなたが似合わない花束片手に帰ってきて、少し照れ臭そうにしながら
「あ~ぁ、なんだ、うまく言えんのだが……あぁ、そのな、今まで支えてくれて………ありがとうな」
頬を掻きながら渡してくる花束。
そんな姿を見つめながら
「違うでしょ?これからも、でしょ?」
そう言って笑顔を向けるとあなたは微笑を浮かべて私を優しく抱き締めてくれた。
「そうだな、これからもよろしくな」
あなたの変わらない優しさに身を委ねながら--。
「はいっ、あなた」
新しい生活がまた始まる。
病室のベッドに横たわる私。
周囲には娘や孫が私を見つめながら哀しげな表情を浮かべている。もう……美人さんが台無しよ?
「お祖母ちゃん?どうしたの?」
不思議そうに私を見つめる孫娘にそっと微笑む。
本当にあの娘にそっくりだわ。
懐かしい思い出の情景が脳裏に浮かび上がる。
「ううん、何でもないわよ」
私は微笑みながら孫娘の頭を優しく撫でる。
「ママ………」
その光景に泣きそうな表情を浮かべる娘。
あなたまでそんな顔して…大丈夫だから。
「大丈夫、大丈夫」
気丈に振る舞って見せるけれど分かってる。
私の人生が終わりに近づいていることは…。
あなたは数年前に他界してもういない。
でも、もうすぐ会える。
だって、ほら迎えに来てくれているもの。
私は視線をあなたへと向ける。
周囲から少し離れた場所で私に微笑みかけてくれているあなたの笑顔が私の心を和ませてくれる。
娘が生まれたとき、娘が初めてプレゼントを私に渡しとき、娘が彼氏と家を訪ねてきたとき、そんなときに見せたまるで泣いているような笑顔で私を迎えに来てくれている---。
「楽しい人生だったわ---ありがとう」
私はみんなを見渡して笑顔を向ける。
そして……私はあの人の手を取って微笑んだ。
「迎えに来てくれて---ありがとう」
----ありがとう、魔法の言葉
誰かに伝えたい優しい言葉----
あなたは親しい人にありがとうを伝えていますか?
あなたの心のこもった---ありがとう
それはきっと誰かの心に届くはず---。