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赤軍入門

作者: 少将

 労農赤軍と聞いて何を思い浮かべるであろうか。数の暴力、T―34ショック等、思い浮かべるものは人それぞれであろう。ここでは、内戦時代から現代ロシア軍までの歩みを簡単に説明してゆく。

 赤軍といえば、ロシア内戦での白衛軍との戦いが有名だ。この国内戦により、赤軍はトロツキーのもと(ある程度)組織化された。この際の赤軍による「手袋」等の階級的憎悪に起因する残虐行為も書いておきたいが、ここでは割愛する。(因みに、ドイツ国防軍のマンシュタインらが訪ソした際には白衛軍側のものとして示されていた。)この時期に、反革命、怠業取締全ロシア非常委員会チェーカーが設置された。この組織はロシア・ソヴィエト連合社会主義共和国が所謂ソ聯に移行した際に、後身のGPUがOGPUへと改組された際に国境群、特務部隊をも抱え、ソ聯武力の一角を形成するようになる。同組織が党中央委の直隷として設置されていたのは、勿論内戦の影響が大きい。内戦ではブジョンヌイが赤色コサックを統率して大活躍し、これが赤軍の戦略に大きな影響を与えることとなる。一方で、この内戦中、西方でも戦争があった。ソ聯・ポーランド戦争である。ソビエトが干渉軍、守旧派の白衛軍やバスマチに苦しめられる中、ピウスツキ率いる新生ポーランドは失地回復のためキエフ方面に侵攻、兵力に苦しむ赤軍をキエフ付近で苦戦させた。だが内戦が終息しかかると優勢だったポーランド騎兵隊に対抗するが如く、赤軍主力の騎兵隊、新兵器のタチャンカが各戦線に投入されキエフ近郊ではポーランド軍は劣勢となった。そしてそうこうするうちに戦線の伸びきった北部戦線をトゥハチェフスキー率いる赤軍騎兵隊(西部方面軍)が突破、一挙にワルシャワまで迫った。英仏はポーランドを支援すると言ったものの殆ど援助せず、ポーランドの命運は正に尽きかけていた。だが、である。ポーランド軍、市民は猛烈な反露感情からワルシャワ郊外で奮戦、西部方面軍を壊滅させた。この後ソビエトに領土拡大の意志が無かった(当初は完全に迎撃であったため。)ためポーランドに有利な講話条約が結ばれることとなったのだが、軍事的、政治的観点からすれば、余り重要ではない。むしろ、この戦争によりトゥハチェフスキーが縦深作戦を思いついた可能性のあること、そしてスターリンが政治顧問を勤めていた南西方面軍が西部方面軍の支援を拒絶したことの方が重要である。

 さて、内戦が終結し、トロツキーが追放され、モロトフが活躍しだした頃、ドイツ国防軍と労農赤軍とは本格的協力関係にあった。兵器製造、開発に関して厳しい制約を受けていた国防軍はソ領で生産、開発をすることで監視の網をくぐり抜けていた。労農赤軍はそれらのこと及びドイツ将校による指導によって伝統あるドイツ軍のノウハウを得ていったのである。ところが1933年になってスターリンは一方的に協力関係解除を通告した。更に1937年より、二年前にソ聯最初の元帥になった「赤いナポレオン」トゥハチェフスキーを筆頭に赤軍高級将校が大量に粛清され、赤軍指導層は大きく弱体化した。(未だ独ソの協力関係のあった頃にE.V.マンシュタインらが訪ソした際には独断能力を欠くものの優秀な将校は数多く居たそうだが、それらの軍人は殆ど粛清されたそうだ。)この粛清は恐らく独ソ協力時代の反動であり、スターリンの猜疑心が原因であろう。

1939年5月に開始されたノモンハン事件では赤軍は苦戦を強いられたが日本側の分裂と優勢な砲兵火力、外交努力に助けられ、大損害を被りつつも日本側9月攻勢の発動前の停戦に成功。この頃から重砲等の砲兵火力を集中し、それと同時に歩兵と戦車、装甲車との協同による攻撃を行うという赤軍の基本戦術が確立されてゆく。「赤軍とは砲兵である」と言っても過言でも無いのだ。同年10月、今度は西のフィンランドをソ聯が恫喝、第二次世界大戦の開始を理由とする領土租借要求をした。11月になって両国は戦争に突入、結果としてソ聯は勝利しフィンランドの枢軸側参戦の種を蒔いたのだが、直接的な勝敗以外でソ聯は大きなものを失った。一瞬でフィンランドを蹂躙すると思われた赤軍は小兵力のフィンランド軍相手に大敗を重ね、大量の兵員、兵器を浪費、勝ちはしたものの強力と思われていた赤軍は一挙に化けの皮を剥がされ安全保障上重大な問題を抱えるようになった。但し、赤軍は失ったばかりではない。この戦争中に以前からスターリンに「君たちは戦車の上に百貨店を建てる気かね。」と言わせていた多砲塔重戦車の開発が完全に終止符を打たれたのである。インディペンデンス開発以来世界中の陸軍を巻き込んでいた多砲塔重戦車計画の波(我が国に於ける試製1号戦車、91式、95式重戦車は正にこの波の影響で開発されたものである。)はかなり以前に収束していたが、赤軍に於いては経済的孤立が良い方向に転び、世界恐慌と無縁だった影響で依然大型多砲塔戦車(T‐32、T‐35はこの計画に沿っている。)の開発が継続されていた。だが冬戦争でT‐35と中型多砲塔戦車計画で配備されていたT‐28とが大損害を出した上に新規重戦車開発のための試作車の一つSMK重戦車が立ち往生し一時的回収不能に陥った(この影響でT‐100、SMKを押しのけ、単砲塔型の試作車両がKV-1として採用された。)ため赤軍もやっと諦める気になったのである。

 この戦争で赤軍の「一部兵力で敵に対処する」という基礎方針、広報方針が固まった。

 1941年6月22日(これはユーゴ攻略に手間取ったためである。)ドイツがバルバロッサ作戦を発動、ソ領に侵入した。意外にも、当時、スターリンはドイツの侵攻を完全に想定していなかったらしい。国境にはドイツを刺激せぬよう少数の国境軍のみを配置するにとどめ、指揮官にはドイツ側の圧力を感じても反応せぬよう指示されていた。このような状態で、しかもスターリンが就寝中にドイツ軍が簡素な宣戦文「ソビエト軍が結集しているので、これはドイツにとっての脅威だから、軍事的な対抗措置を取らざるを得なくなった。(「ヒトラー対スターリン」中川右介より)」とともに侵入してきたのだからたまらない。スターリンを起こし、寝起きの彼にこの不愉快な状況を伝えるのを躊躇い、互いにその役目を押し付け合い、スターリンがショックのあまり混乱し、としている間にまともな反撃命令も出せないまま侵攻されてしまった。この後、ソ聯は全兵力でもってドイツ軍に対処することとなるのだが、これは先述の赤軍の方針に反する。そのため、開戦初頭のソ連軍歌やポスターでは、後に多く見られるようになるような全土一体感が余り強調されていない。今やすっかり有名になった「聖なる戦い」も当時は一時期演奏が禁止されていた。冬戦争の二の舞は避けたかったのだろう。

 当時の国防軍の得意技は機甲部隊による機動戦である。これまでとは大きく異なる機関銃の運用(独軍では前線で移動しつつ活動する部隊にも機関銃チームが随伴した。)や、「厚い皮より速いグデーリアン」という言葉にもその思考が見て取れる。一方で砲兵隊に関しては突撃砲のコンセプト(装甲化され、友軍の危機に素早く駆け付けられる野砲)にも見られるように、集中運用が重視されず、日本軍でいうところの大隊砲運用が中心であった。このような軍と赤軍が相対したことは、赤軍の従来の砲兵運用方針を更に強化し、騎兵隊を無力化した(赤軍は統帥権が強力であったため騎兵隊が完全に差別化されていたが、他国では騎兵隊は自らの存在意義を守るため装甲車を導入して機械化に努めた。尚、日本軍のように戦車を主として運用する兵科(日本では歩兵科)に配慮して実際は軽戦車であっても重装甲車と呼称することもあった。(一時期の米陸軍では騎兵戦闘車))。緒戦ではソフホーズ労働者を前線にほぼ無教育で投入せざるを得なくなり「畑から兵士がとれる」と揶揄されるほど追い詰められた赤軍であったが、モスクワ防衛戦では予備の砲兵戦力までも投入して砲兵の集中運用を行い、制空権を完全に握りきれなかったドイツ軍を大敗させる、自走噴進砲による面制圧を実施するなど、大戦後赤軍の基礎を固めていった。

 大戦後、赤軍は政治の中枢により一層浸透するようになった(もちろん、これには帝政期将校が殆ど消滅したことも関係している。)。1946年、赤軍はソ聯軍となった。冷戦期のソ聯軍を特徴付けるものは、やはりミサイルシステムである。現在でも軍事パレードで受閲部隊の車両が通過する際には「砲兵行進曲」も流れる(戦略ロケット部隊の場合は部隊歌)ことからも分かるように、ソ聯のミサイル部隊運用は赤軍時代の砲兵運用の延長線上にある。砲兵の重要性を極めて強く認識していたソ聯軍では地上、空、海、空挺軍と並ぶ独立した部隊として戦略ロケット軍、防空軍が設けられており、攻撃、防衛に備えていた。ソ聯軍が行った大規模演習の数々から見るに、その戦術は戦術(戦域)ミサイルシステムによる爆撃の後、空軍、地上軍がソ聯軍自慢の大兵力で一挙に突入するといったものであった。突入の際にも後方から自走多連装ミサイルシステムが射撃を行い、その戦術は正に赤軍最後期のそれであった。

 ソ聯が事実上消滅した後、赤い星の後継、ロシア軍ははっきりと弱体化した。CIS統合軍の試みも中途で挫折、更にはグルジア戦争で装備、特に照準システム系や衛星通信面での旧式化が明らかになり、これがロシア軍を改革へと導いた。そしてロシア軍は再び米国と肩を並べる強力な存在になったのである。

 今日のロシアは主に「戦略的安定」「中央アジアのイスラーム武装勢力」そして「形を変えた侵略」に気を配っている。「形を変えた侵略」とは、米「フリーダムハウス」のようなバックにアメリカ政府の存在がある人権、民主主義団体に関するものであり、所謂アメリカからの「自由のプレゼント」を警戒するものである(周辺国の不安定化や親米化工作)。軍事に直接関係するのは「戦略的安定」と「中央アジアのイスラーム武装勢力」であるので、ここからはそれらを軸として話を進めてゆこうと考える。

 「戦略的安定」に関連して、ロシアが警戒するものとして米軍の無人宇宙往還機及びMD計画、消極的勢力圏の縮小などがある。米軍の無人宇宙往還機は一切が秘匿されており、将来的な宇宙の更なる軍事利用(現時点では原則禁止)に備え、研究を行っているとの疑いが強くある。MD計画、特に東欧MD計画に関してはロシアのミサイル戦力の減殺を狙ったもので、ロシアを極たらしめている軍事力を骨抜きにするものであり、新冷戦を巻き起こした。1990年代後半以降、ロシアは「軍事ドクトリン」内の核兵器使用に関する姿勢をソ聯時代から大きく前進させ、核の大量使用に結び付くとして限定核戦争を否定しつつも先制核使用、通常戦力による侵攻の場合の核使用を明記するようになった。(因みにロシア軍は戦略核により軍の指揮系統がマヒした場合に備え、強力な電磁パルス障害下でも運用可能な自動反撃システム「死の手」をソ聯軍から引継ぎ、第8ロケット師団で運用しているものとみられており、これもモスクワの世界一強力な防空システムと併せてロシアへの核攻撃を抑止するものとなっている。)消極的勢力圏に関しては、グルジア戦争後、CIS圏のNATO加入への動きが見え隠れし出し、ロシアはこれを阻止できたもののウクライナ戦役に繋がった。(このウクライナ戦役は通常措置に非対称措置を組み合わせたハイブリッド戦略の一形態であり、「住民の抗議」と正規軍(一応「礼儀正しい人たち」ではあるが。)との組み合わせである。)この消極的勢力圏は冷戦時代のソ聯以外の東側のようなものであり、いわば緩衝地帯である。但し、冷戦時代のように前線基地としての役割を十分に果たさせることは不可能であり、あくまでも「敵ではない」といった程度のものである。但し、共同防空演習、ソ聯時代の防空レーダー網の共同管理等に関しては積極的な協力がなされている。

 「中央アジアのイスラーム武装勢力」に対しては、2009年に中央アジア緊急展開部隊を拡大する形で設置された集団迅速反応部隊がCSTO圏内で活動を開始した。この部隊はロシア、カザフの部隊を軸にアルメニア、キルギスタン、タジクの部隊をも加えた部隊で、空挺部隊、海軍歩兵部隊、特殊作戦部隊が主力を構成しており、機動性に富んでいる。CSTOに関しては勿論イスラーム過激派の大規模攻勢に対処するという目的もあるが、ある意味で「対イスラム過激派戦争」を口実にしたロシアの旧ソ聯圏への介入の正当化であるとも言える。なお、「対イスラム過激派戦争」を機に無償軍事援助などは一部で新たに合意されたが、配備は進展しておらず、勢力圏の積極化にはまだまだ程遠い。

 ロシアにはソ聯時代以来シロヴィキというものが存在する。これは前にも述べた軍部の中枢進出によって形成されてきたもので、軍人や武力省庁出身者の政界、産業グループである。このシロヴィキは戦争時には国家に利益をもたらしうるが、平時、冷戦以降は知恵だけでなく汚職の泉ともなっていった。エリツィン時代からプーチン時代になって新興財閥の汚職が一掃された際にも、軍需産業、民警、内務省国内軍、連邦非常事態省、連邦保安庁、連邦軍等の内部にしっかりと汚職は残っていた。エリツィン政権の後継、プーチン政権では軍改革が明確な目標とされた。何度かの変遷の末、軍出身でないセルジュコフが国防相に就任した。セルジュコフ改革の目玉は、装備の更新、合理化、人員整理、部隊再編であった。当時のロシア海軍では現役復帰の見込みのない艦艇を多数抱え込んでおり、新規艦艇の導入を予算面で阻んでいた。このような直接的問題はこのような装備の廃棄で対処され、又、仏からミストラル級を購入することを決定(仏の対露債務の一部破棄が条件。後にNATOロシア間の関係悪化でフランス側が契約を解除、支払い済みの代金は返金された。)した。人員整理、部隊再編の面では、中央アジアのイスラム武装勢力との「戦争」を重要視するとともに第二次大戦後全面戦争に備え肥大化した軍を縮小しようとした。ロシアでは、ソ聯時代から戦時に備え「紙の師団」を多数保有していた。このような師団には将校と少数の下士官しか配置されておらず、戦時には新規徴兵された兵員でもって師団兵力を確保するという仕組みになっていた。セルジュコフ改革では増え過ぎた将校の削減や軍のコンパクト化が目指されており、更に1次、2次のチェチェン紛争で「紙の師団」の無力さ(動員速度の遅さによる。)が示されていたことにより「紙の師団」は廃止が目指された。指揮系統の簡略化も軍のコンパクト化と抱き合わせで目指され、軍管区指揮官に多くをゆだねる形となった。だが、セルジュコフの改革は中途で挫折した。中央アジアの紛争への対処という目的を達成するためには最善の改革だったのだが、セルジュコフの軍への無理解とシロヴィキとの対立とがこの改革の行く手を遮った。(モノトーン迷彩での統一を軍に諮らず決定したり、下級尉官を下士官に格下げして将校人員の削減を図ったりと、彼の軍への無理解は凄まじいものであった。このような改革に抵抗した軍人は現役延長拒否や更迭で排除され、彼は多くの敵を作った。)結局、セルジュコフは愛人スキャンダルで無理やりに引きずりおろされ、「紙の師団」は殆どが廃止されず、改革で挙がった成果は指揮系統の面に於いてのみであった。ショイグ国防相が就任してから現在まで、セルジュコフ改革の巻き戻しが行われ、対局地戦闘への偏重も見直され、ロシア軍は再び落ち着いた。

 2007年にエストニアの政府主要機関サイトに大量のアクセスが集中し、運用停止に陥った。この事件の直前、エストニアはソ聯時代に首都に造られた赤軍兵士の像を郊外に移設する動きを見せており、これがロシアの逆鱗に触れたのである。実際、プーチン政権下で組織されたプーチン版コムソモール「ナーシ」がこの事件への関与を表明している。この攻撃ではナーシ加盟員のパソコンだけではなく、ハックした世界中のパソコンが利用された。所謂DDoS攻撃である。このような攻撃を行うサイバー民兵は低コストで大量に動員できるため、大容量回線を持たない、あるいは持っているように見せかけられない国に対しては絶大な効果を低コストで挙げることが可能である。このことから、これ以後ロシアはこの方法とガスとを併せて対外圧力に用いている。

 ここまで、ロシア、ソビエト、赤軍の歩みについて述べてきたので、最後に武力省庁の一角を形成する国内軍(2016年よりロシアのものはロシア国家親衛隊に改組)の最近の様子について少し記述してあとがきに代える。

 内務省国内軍は、その任務の性格上、重武装、大兵力であった。だが、ロシア連邦成立後、武装ヘリ、戦車は廃され、一部倉庫にしまい込まれた。そして現在ではチェチェン紛争で機動力が重視されるようになった影響で、BMP系の歩兵戦闘車も後継が予定されておらず、ティーグル等の軽量四輪装甲車への装備転換が進んでいる。これは、セルジュコフ改革の影響で連邦軍が国内軍の任務をある程度カバー可能になったことで国内軍の任務の中心が暴動鎮圧、災害対応(後者はロシア非常事態省指揮下ロシア民間防衛軍と協力)に移ったことによるものと考えられる。


参考文献

小泉 悠「軍事大国ロシア‐新たな世界戦略と行動原理‐」作品社

中川 右介「ヒトラー対スターリン」ベストセラーズ



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