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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第8章 かぐや姫
99/160

8-7

「すてきなお庭……。ここはどこなのです?」

 桜子にたずねられた悠斗は、

神泉苑(しんせんえん)だと思う」

と、そくざに答えた。目のまえの祠に、はっきりと見覚えがあったのだ。

 それは、各年の福徳をつかさどるとされる歳徳神(としとくじん)を祀る恵方社(えほうしゃ)だった。円形の台座のうえで三六〇度回転できる、珍しい祠だ。そして、平安時代初期に造営された神泉苑は、現在の京都市内にあって、当時の面影を色こく伝えている場所のひとつでもある。


「ここは、二条通りと三条通りのあいだなんだ。このあたりが、夕霧さんが育った屋敷や、朧月夜の実家である右大臣邸があったところだと言われてる。右大臣の四君を正室に迎えた頭中将さんが、その右大臣邸を相続した、と解釈されてもいるようだ。桜ちゃんのお祖母さんは、きっと神泉苑を手本のひとつにして、物語のなかのいろんな庭を構想されたのだと思う」

 悠斗の説明を聞きながら、桜子は、あらためて庭をながめた。そして、ツツジで縁どられた池の方向へ歩をすすめ、

「わたしのお(うち)の庭にも似ている……」と、

なにげなくつぶやいた。

 とても小さな声だった。だが、桜子の背後にいた悠斗の胸に、その声はするどく突きささった。やはり桜子はもとの世界に帰りたいのだろう。悠斗はそう思わずにいられなかった。

 悠斗は、出そうになるため息をこらえ、両手をパンツのポケットに入れて空をみつめた。すると、桜子がふり返り、檜扇を悠斗のまえに差しだした。

「これを、悠斗さんのリュックサックに入れておいてください。あと、もうひとつですね。六条御息所さまは、なにを預かっておられると思います?」

「なにかな……、ハアァ」

 悠斗は、小さなため息が口から漏れるのを、とうとう抑えることができなかった。


 ――悠斗さんは、やはり六条御息所さまが好きではないのだわ、うふっ。

 おもわず頬をゆるめた桜子に、速仁が、拳を握りしめながら話しかけた。

「いっそのこと、いまここで六条御息所を呼びだして、五番目の品を渡してもらえばいいんじゃないか」

 速仁のとつぜんの提案に、悠斗の心がはげしく波立った。源氏物語の新帖を、一刻も早く読んでみたい。だが、それと引き換えに、桜子がもとの世界へ帰ってしまうかもしれない。悠斗は、ふたつの思いのあいだで揺れうごき、視線を足もとにむけて立ちつくした。

 桜子は、うつむいている悠斗を上目づかいで見たあと、

「わたしも、仁和寺で朱雀院さまが六条御息所さまの名前をお出しになったときから、宮ちゃんのように考えたことはあるわ……」

と、速仁に返事をした。

 悠斗は、ますます困惑した。六条御息所に会ってみたいという以前の想いは、もうすっかり消えうせているのだ。桜子との行く末だけが、悠斗の心のなかを占めていた。

 うつむきつづける悠斗のよこで、

「でもね、宮ちゃん」

と、桜子は言葉をついだ。

「おばあちゃまは、五つの寺社に参詣され、そこで五つの品を託されたのよ。新帖のありかは、託された品と人物だけでなく、五つの場所ともかかわりがあると思うの。だから、五番目の場所を見つけなきゃ。それに、ちがう場所で六条御息所さまをお呼びすれば、仁和寺のときのように、べくとるの法則とかいうものが働いて、六条御息所さまが恐ろしい姿で現れるかもしれない。仁和寺では、朱雀院さまが火の鳥に変化されて、たいへんだったのよ」

「ふーん、わかった。――火の鳥が現れたのだったよな……。おれも見たかった」

「宮ちゃんは、鳥が好きだもね」

 そう言ったと同時に、桜子は、おもわず両手を口のまえで合わせた。

「シロちゃんは!?……」

 白スズメが吉田神社の境内にはついてこなかったことを、桜子は思いだしたのだ。

「はやく大学へもどりましょうよ」

桜子から声をかけられた悠斗は、ちいさくうなずき、

「シロは賢いから、時計台まえのクスノキでおれたちを待ってると思うけれど、もうすぐ夕方だからな……」と、

ようやくのことで言葉をしぼりだした。


 悠斗は、地下鉄と市バスを乗り継いで大学へむかうことにした。

 狭い歩道を、悠斗が先導し、桜子と速仁は肩をならべて進んだ。

 悠斗は、桜子とふたりきりで歩くのも、速仁をくわえて三人で歩くのも、ともに好きだった。そして三人のときは、たいていひとりで先に進み、速仁が桜子とならんで歩けるように気を配ってきた。悠斗にとって速仁は、恋敵でもあり弟分でもあるのだ。短い時間しか桜子に会えない速仁への、せめてもの思いやりだった。

 それに、幼なじみどうしの会話を、背中越しに聞いているのも楽しかった。桜子の、幼いころのようすが、しぜんと目に浮かぶのだ。


「おれも、シロが好きだぞ」

 速仁が、ならんで歩いている桜子に話しかけた。

「白いスズメって、珍しいよな……」

「うん、そうよね。もう一羽いたけれどね。五年まえ、おばあちゃまがまだ元気だったころに、東宮御所で飼っていた白スズメを覚えている?」

「桜ちゃんに捕まったり、釣燈籠に頭をぶつけて気絶した、あのまぬけなスズメのことか?」

「そう! シロとちがってね、うふふ」

 まえを歩く悠斗は、スズメを捕らえたときに桜子がうかべただろう得意げな笑顔を想像した。〈北山のなにがし寺〉での若紫のようだったにちがいない。硬かった悠斗の表情が、しらずしらずに緩んだ。


 一方、速仁にとって、いま目にした桜子の笑顔はまぶしすぎた。

「おれ、こちらの世界に住みたいな……」

 速仁は、まだ今日は言うまいと思っていた言葉を、うっかりと口にしてしまった。

 驚き顔をむけてきた桜子に、速仁は、

「だ、だって、こちらには、桜ちゃんや悠にいちゃんがいるから……。と、友だちといっしょにいる方が、物語を楽しんで読めるのだろ……」

と、あわてて言いたした。

 桜子が好きだからこちら側の世界に留まりたいのだとは、どうしても言えなかった。天変地異が起こるかもしれないことが気がかりだったうえに、桜子への気持ちを伝えるのは、月夜のときにと、速仁は心に決めているのだ。


 桜子は、気遣(きづか)わしげな表情を浮かべ、速仁にたずねた。

「でも、むこうの世界に、好きな女の人がいるのでしょ? 地主神社で恋占いをして、はしゃいでいたじゃない。その人に、もう文を贈ったの? もしそうなら、宮ちゃんがこちらにきたきりになると、その人は、きっと悲しむよ。友だち以上にたいせつにしてあげなきゃ!」

 速仁は首を左右にふり、

「文は、……まだない」と、

小さな声で答えた。

「で、でも、歌は贈ったことがある。〈はかりなき ちひろのそこの……〉」

 速仁が〈葵〉帖の和歌を第二句まで唱えたとき、桜子がはしゃぎ声をあげた。

「わぁぁ、おばあちゃまの和歌を本歌取(ほんかど)りしたのね。ずいぶんと和歌のお勉強がすすんだじゃない。でも三句目からは、言わなくてもいいわよ。その人と宮ちゃんだけの秘密にしておきなさいね、うふふっ」

 そして桜子は、さわやかな笑顔で言葉をついだ。

「その女の人は、きっと、わたしとちがって長い髪なのね。望みどおりの人じゃない!」

 速仁はいたたまれなくなり、もう顔をそらすしかなかった。

 ――おれがあの歌を手習いして渡したこと、桜ちゃんは覚えてないのかな……。きっとおれ、髪の毛のことで桜ちゃんをからかったから、(ばち)があたったんだ。月夜に、まずそのことを謝って……。

 速仁は、空を見あげた。雨雲こそひろがっていないが、厚い雲がたれこめている。天変地異を心配する石山観音の顔が、速仁の脳裏をかすめた。


 速仁は、顔を空にむけたまま、

「今回は、日没と同時に東宮御所へもどることになっているんだ」

と、桜子にボソッと告げた。

 桜子が、残念そうな表情で速仁の横顔をみつめた。

 速仁は桜子の視線を感じたが、目を合わせることができなかった。目がうるみそうだったのだ。

「石山の観音さまと、そう約束したから……。今度、五番目の品を探しに行くときは、月見ができる夜にして欲しい」

 速仁がそう言うと、まえを歩いていた悠斗が、立ち止まってふり返った。

「今夜は、またおれの部屋に泊まっていけると思ってたんだが、残念だな」

 そして悠斗は、しばらく口を閉ざしたあと、ためらいがちに言葉をついだ。

「つぎは、十日後の日没どきに待ちあわせようか……」

「エッ!? そんな先でなくても、おれはだいじょうぶだよ。こっちの世界に日の入りから日の出までのあいだいられるようにするのに、三日もあれば十分だと思う。だっておれ、がんばって勉強するから」

「そ、そうか……」

 立ち止まったまま悠斗が返答に窮していると、桜子が、こみあげてくる笑みを抑えながら、速仁にむかって口を開いた。

「六条御息所さまにお目にかかるには、準備が必要だと思うの。どこの寺社に出むけばよいのかを悠斗さんが調べてくださるのに日数がいるだろうし、心の準備も必要だろうし……」

 桜子は、ふたたび上目づかいで悠斗を見た。きまりの悪そうな顔が、そこにあった。

 ――やっぱりね、うふふっ。


 悠斗は、地下鉄駅へむかってふたたび歩きだしてからも、ずっと考えつづけていた。やはり、五番目の品を探しに行く日を先延ばしにしたい。でも、それは卑怯なことだと、心の片隅では思わずにおられない……。

 すると、うしろを歩いている速仁が、とつぜん、思いつめた表情で桜子に語りかけた。

「さっき言ったこと、本気だからな!」

「えっ、なに? 髪の長い女君のこと?」

「ち、ちがうよ! こちらの世界で住むことだよ!」

 速仁は叫ぶように言いはなつと、悠斗のまえに走りでた。そして、驚いて立ち止まった悠斗の目をまっすぐみつめた。

「おれ、こちらの世界で、ずっと住めるようになったら、餅づくりの手伝いをするから、悠にいちゃんの家で暮らしてもいいだろ?」

「エッ、おまえ……」

 本気なのか、と言いかけて、悠斗は口をつぐんだ。たずねるまでもないことだと、速仁の真剣な顔が語っていた。

「な、いいだろ!?」

 速仁の真顔に、悠斗は心臓をわしづかみされる思いだった。桜子と同じ世界で生きるために、速仁はこれまでの生活をぜんぶ投げ捨てようというのだ。

「な、いいだろ!?」

 懇願しつづける速仁に、悠斗も真剣な面持ちでうなずいた。

「わかった。おまえがその気なら、祖父ちゃんと祖母ちゃんに、おれから頼んでやる。ふたりとも、おまえのこと気にいってたから、むしろ大歓迎されるかもな……」

「ヤッタァァ」

 そう一言叫ぶと、速仁は口を真一文字に結んで空を見あげた。天変地異なんて、ぜったいに起こらない。速仁は心のなかで叫んだ。

 それは、速仁の確信というよりも、願いだった。速仁の目には、心のなかとおなじように、薄明かりが空に差しはじめているように見えた。


 悠斗も、意をけっした面持ちで、速仁の横顔をみつめた。みずしらずの新しい世界で生きていく苦しみを、桜子と一宮だけが引き受けるのは不公平だと、そのとき悠斗は感じたのだ。その苦しみに愛する人がさいなまれるのであれば、なおさらだ。

 ――おれだって、おまえのように、千年の時空を超えて生きていけるぞ!

 三人がそれぞれ、どの世界で生きていくことになっても、異邦人となった友や最愛の人に手を差しのべればよいのだ。

 ――桜ちゃんがもとの世界にもどるなら、おれがついていく! 石山の観音さまにお願いすれば……。

 心にそう決めると、悠斗は胸の大きなつかえがおりた。心残りは、祖父母のことだけだ。だが、あのふたりなら、それこそ手を差しのべあって生きていくだろう。

 ――いまのうちに、手伝いをして孝行しておけばいいよな。

 そう考えると、桜子といっしょに暮らすための生活の糧も思いついた。

 ――平安時代の鞍馬で、おれ、桜ちゃんと餅屋を開こう!


 桜子たちは、また歩きはじめた。やがて幅広の歩道に出た三人は、桜子をまんなかにして、ならんで地下鉄駅へむかった。

 悠斗は清々(すがすが)しい顔で、ふたりに話しかけた。

「おれも、祖父ちゃんに餅づくりのことを、もっと教えてもらうよ」

 すると、速仁が肩をすくめた。

「悠にいちゃんは、自分がどれだけ不器用なのか、わかっている? せいぜい力仕事だけにしておいたほうがいいよ。おれのほうが、ぜったいに器用だぞ、エヘヘッ」

「言ったな……。おまえだって、桜ちゃんには全然かなわないぞ。それに、おれのほうが、半月ぐらいは餅屋の先輩なんだからな、アハハ」


 桜子は、じゃれあっているような悠斗と速仁の言いあいを、笑い顔で聞いていた。

 ――いいなぁぁ、男友だちどうしって。面とむかって悪口を言いあえるのだもの……。それにしても、宮ちゃんが好きな女君って、だれなのだろう……。

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