8-4
『かた苦しいあいさつはぬきにし、サッ、ここにみなで座ろう』
なにかにつけて即断即行の頭中将は、桜子たちにそう声をかけると、まっさきに、簀子縁であぐらをかいた。
『夕霧の君は、わたしのよこにお座りなさい。かわいい甥で、そのうえ、だいじな婿殿だからな。それにしても婿殿は、さきほどから頬がゆるみっぱなしで、なにを思いだしておるのかな、アハハ』
全員が円座を組むと、夕霧が顔をひきしめ、桜子たち三人の素性をくわしく頭中将に語った。そして、いましがた吉田神社にみなで参詣したことも伝え、最後に夕霧は、
『どのような質問にも、全身全霊をかたむけてお答えする所存です』
と言って低頭した。
『アハハ、あいかわらず夕霧の君は堅物だね。たしかに式部殿から、新帖につながる品を預かっているよ。やって来たのが孫姫なのだから、すぐにでも渡したいぐらいだ。だが、式部殿との約束があるから、そういうわけにもいかない、アハハ』
快活に応じる頭中将の言葉に、桜子の顔が生気をとりもどした。桜子は、龍沢池のほとりで赤玉を見てからずっと、心ここにあらずだったのだ。
「頭中将さまとは、五年まえに祖母の部屋でお会いして以来のことですね。今日、氏社の吉田神社に参拝して、よかったです」
『そうですぞ、孫姫。わたしたちは同じ藤原一門なのだから、源氏のかたがただけでなく、たまにはわたしも物語から呼びだしてくだされよ、アハハ。――それに大学の君も、藤原一門の末裔ではないのか?』
頭中将の問いかけに、桜子たち四人は、驚き顔で目を合わせた。
『夕霧の君が、〈むとう〉は武者に藤の花だと言っておっただろ。はじめて聞く氏名だが、藤原と関係があるのではないか? 大学の君は、どこのお生まれかな』
頭中将に問われた悠斗は、自分の苗字の由来について考えたこともなく、困惑の表情を浮かべながら口を開いた。
「いちおう、東京です。東京というのは、昔の武蔵国……」
言い終わるまえに、悠斗の顔がパッと輝いた。
「アッ、そうか! 武者じゃなく、武蔵の〈む〉で、武蔵国の藤原、という意味かもしれない! おれの、遠い先祖は桜ちゃんだったりして……、アハハ」
悠斗はそう言いながら、桜子の顔を見た。桜子も、笑顔でうなずき返した。
「おれだって、藤原一門の血が、半分は流れているんだぞ!」
速仁は、ムスッとした顔で大声をあげた。
「知っている。宮ちゃんは、夕霧さんと同じでお母さまが藤原一門だし、わたしとは再従姉弟だよね」
桜子の返事に、速仁は、
「わかっているんだったらいい……」と、
ボソッとつぶやいた。
――それに、はとこ同士だって、結婚できるんだからな!
『ということは、みなが、藤原一門ということだ、アハハ。これはメデタイ、メデタイ、アハハ』
頭中将は、ひとしきり笑うと、謹厳な顔になり、言葉をついだ。
『では、源氏の新帖につながる品を得られるよう、藤原一門どうし、心をひとつにしてくだされよ』
「はい!」
桜子と悠斗、速仁の三人は、声をそろえて返答した。
頭中将は、草紙箱のふたを、おもむろに開けた。
『春になったばかりのある日のことだった。式部殿は、東の空がようやく白みはじめたころ、わたしを連れて吉田神社に参詣された。そして、新帖を探し求める者が現れれば、わたしに引きあわせるようにと春日神に祈願され、わたしには、その者たちにこれをまず見せるようにと、お言いつけになられた』
頭中将は草紙箱から、絹布や和紙をつぎつぎに取りだし、桜子たちの目のまえに広げた。一年十二か月の行事を季節の風景のなかに織りこんで描く月次絵や、かぐや姫などの物語絵、そして、須磨の海岸を描いた日記絵だった。
『これらの絵は、〈絵合〉の帖で使われたものだ。婿殿はまだ元服まえだったから、宮中で開かれたこの遊びにはくわわっておらなかったね』
頭中将は、夕霧たちの顔を順々に見たあと、鏡のようになめらかな水面がひろがっている庭に目をやった。そして、
『わたしと光る君との、激しくも楽しい絵合戦だった。わたしのほうが負けてしまったがな、アハハ』
と、言葉をついだ。
〈絵合〉帖では、頭中将と光源氏とによる、宮中での名望をかけた争いが繰りひろげられる。冷泉帝と、その生母である藤壺の宮の御前で、それぞれが所有する絵を一点ずつ見せあい、その優劣を競ったのである。
光源氏の弟である帥宮が判定役を務めたが、なかなか勝負がつかないまま夜に入り、最後の一番を迎える。光源氏は、須磨で謹慎していたおりに自身が筆をとった日記絵を出し、一方の頭中将も、とっておきの絵を出した。結局、須磨を描いた日記絵が、帥宮をふくめて満座の感動をよび、みやびな絵合戦は、光源氏の勝利に帰したのである。
頭中将は欄干にもたれて庭をながめながら、夕霧を婿として屋敷に迎えた日の思い出話を、夕霧とかわしはじめた。
夕霧は、きまじめに居ずまいをただしているが、晴れ晴れとした顔だ。光源氏といっしょにいるときには見せない顔である。夕霧には、なにかに優れた父といるよりも、長所も短所もある伯父といるほうが、気が楽だった。
桜子と悠斗、速仁の三人は、目をこらして絵を見ていた。これらの絵のなかに、源氏の新帖につながる第四の品の秘密が隠されているのかもしれない。三人は、そろってそう考えたのだ。だが、まったく見当がつかない。
そのうち、秘密を探すよりも、絵のできばえや、絵で表されている物語のほうに、三人の関心は自然と引きよせられた。
速仁が、
「この女の人、きれいだね」と、
絵のなかのかぐや姫を見ながらポツリとつぶやいた。すると桜子が、
「髪の毛が、輝くようにつややかで、とっても長いものね」と、
すまし顔で応じた。
速仁は、
「うん」
と、おもわずうなずいた。
すぐに悠斗が右肘で小突いたので、速仁は失言にハッと気づいた。
「あっ、あっ、か、髪のことではなくて、全体にきれいな人だと、おれは言っているんだからな、かんちがいするなよ」
あわてる速仁に、桜子は、
「わたしは、いまのこの短い髪を気にいっているから、いいのよ」
と、おだやかな笑顔で答えた。
「それに、たしかに美しい人だよね。とくに、月の世界へもどっていくこの場面のかぐや姫は、まばゆい光につつまれて、とってもきれい」
桜子は、うっとりした顔になり、さらに言葉をついだ。
「おばあちゃまが、〈かぐや姫の、この世のにごりにも穢れず〉と書いておられたわ……」
悠斗も、絵を見ながらうなずいた。
「たしか〈絵合〉の帖に、竹取物語は、日本で最初の物語文学だとか、物語文学が誕生したころの代表的作品だ、というようなことも書かれていたよな」
「はい。〈物語の出で来はじめの親なる竹取の翁〉ですよね」
速仁には、桜子と悠斗が物知りどうしで話しこんでいるように思えて、くやしくてならなかった。
「おれも、竹取の翁の物語だったら読んだぞ! 竹から生まれた姫君の話しだろ。ちっちゃいときに、式部ばあちゃんに膝枕してもらって読んだんだからな!」
「もう、宮ちゃんたら、おこちゃまね。それに、読んだのではなく、読んでもらったのじゃない? たしか、おばあちゃまの家に初めて泊まったときでしょ。うれしそうな顔をしていた宮ちゃんを覚えているわ」
「!………」
速仁は顔を赤らめ、言葉に詰まってしまった。
だが、悠斗がかばってくれた。
「子どものときは、読んでもらうのも読書のうちだと、おれは思うよ。おれも、竹取物語を最初に知ったのは、幼稚園のときだったかな……。先生が、大きな絵をみんなに見せながら、読み聞かせをしてくれたんだ。かぐや姫を迎えに月の使者たちが大空から下りてくるところを、おれ、ドキドキして聞いてたのを覚えてる。月に帰らずに、ずっとこっちで暮らしたらいいのにと思ったよ。それに、幼稚園のお遊戯会でも竹取物語をした。遊戯会というのは、お芝居のことで、みんなで歌や踊りの練習をして、楽しかったよ」
悠斗が言いおえると、桜子がきゅうに真剣な顔になり、一言一言、慎重に言葉を選びながら心のうちを漏らした
「わたしも、かぐや姫は月にもどって幸せになれるのかしら、この世界で暮らしつづけるほうが幸せかもしれない、……と思った。――宮ちゃんの考えは?」
桜子に問われた速仁は、そのときまで、かぐや姫の行く末を思いめぐらしたことがなかった。あらためて、絵のなかのかぐや姫を見た。どことなく桜子と顔つきが似ているように思えた。
「かぐや姫は月の世界にもどって、月の皇子さまと幸せに暮らしたと、おれは思うよ。ぜったいにそうだよ!」
「アハハ、一宮は、あまぁぁい話しが好きなんだ。でも、ほんというと、おれも、そういうの好きだ」
悠斗は照れ笑いの顔を桜子にむけた。桜子も、かすかに笑みをこぼしていた。
「かぐや姫は、どちらの世界でもきっと幸せになれたですよね。そう思って読むと、いいのですよね」
三人は、おたがいにうなずきあった。速仁は、桜子がもとの世にもどることを願い、桜子は、二つの世界のどちらに住むことになっても悲しみを乗りこえたいと、このとき心につよく願った。
悠斗だけは、かぐや姫と桜子を重ねることなく、ただただ文学談義ができて楽しかった。
悠斗は、まだ話したりなかった。数日まえに読んだ研究書のなかで展開されていた説を、桜子と速仁に披露したくなった。
「源氏物語は竹取物語の影響を受けてる、という説があるんだよ。どこなのか、わかる?」
問われた桜子も、
「えぇぇ、どこなんだろう?」
と、目を輝かせて考えだした。
「おれ、わかったぞ!」と、
速仁がすぐに叫んだ。
「かぐや姫は、光につつまれて竹のなかから現れた。光るじいさんも、ピカピカに光り輝くように一応は美しいから、光る君って呼ばれている。ねぇ、これ正解?」
「ああ、そうかもな。おれが読んだ本には、そういうことは書かれてなかったけれど、たしかに、そういうことも言えるよな」
「よし、やったぁぁ」
と、速仁は自慢げな顔を桜子にむけた。
桜子は、速仁にうなずき返したあと、自信なさそうに口を開いた。
「まちがっているかもしれないけれど……。玉鬘の女君が、たくさんの人から求婚されるでしょ。それに困って肥前国から京都へ逃げてきた。ところが京都でも、たくさんの男君から求婚され、帝からも入内を期待されるでしょ。これって、かぐや姫によく似ている」
「それも正解。研究書には、そのとおりのことが書かれてあった。でも、おれがなるほどと感心した説は、八月十五日について……」
そう言いかけて、悠斗は口をつぐんだ。言おうとしたことが、桜子への自分の想いと深くかかわることに、ハッと気づいたのだ。
「悠斗さん、どうしたの?」
桜子は、きゅうに押し黙った悠斗を、不思議そうにみつめた。
「い、いや。――八月十五日は、十五日は……」
悠斗が口ごもっていると、桜子が、
「あっ、わかった!」
と、はずんだ声をあげた。
「光る君さまが須磨の屋敷で、八月十五日の、中秋の名月をながめられますよね。そのときに、京の都を懐かしんでお詠みになる歌が、〈見るほどぞ しばし慰む めぐりあはむ 月の都は 遥かなれども〉でした」
「それが、かぐや姫とどう関係するんだよ?」と、
速仁は首をひねった。
「だってね、かぐや姫が月にもどる日は、八月十五日よ。光る君は、かぐや姫と自分を重ねあわせたのじゃない? 京都を月の都にたとえて、かぐや姫のように故郷へ帰りたかったのよ。おばあちゃまは、かぐや姫の話しを踏まえて、〈須磨〉の帖を書かれたのじゃないかしら……」
桜子は速仁に説明しおわると、悠斗に顔をむけた。
「正解ですか?」
「う、うん……。あってる……」
そう言ったきり、悠斗は口を閉ざした。予想外の答えを返してきた桜子の聡明さに驚くと同時に、自分が口に出しかけた説を、どうしても言いだせなかった。
「桜ちゃんって、ほんと、物知りだよな……」
「そんなことないわよ。宮ちゃんだって、正解だったじゃない」
「うん、ありがとう、エヘッ」
「それじゃ、須磨の日記絵をもういちど、いっしょに見ようね!」
「おう!」
悠斗の眼は、光源氏が描いた日記絵を懸命にみつめる桜子と速仁の髪を映していた。だが頭のなかでは、八月十五日についての学説を、繰りかえし考えていた。
それは、愛する女性たちを亡くした光源氏の悲しみに着目するものだった。かぐや姫を八月十五日、満月の夜にうしなった竹取の翁と帝は永遠の喪失感覚にさいなまれ、その苦悩を、源氏物語は主題として継承した、という読み方である。
というのも、源氏物語では、夕顔が八月十六日の深夜に横死し、葵の上は、六条御息所の生霊にとり憑かれて八月のなかばに亡くなる。そのうえ、紫の上は八月十四日に病死し、その葬儀は十五日におこなわれる。三人の死が八月の、しかも満月のころであることは、話しの展開として必要なことではない。したがって、光源氏が女君三人を亡くす日付と、かぐや姫が地上を永遠に去る日とがほぼ重なっているのは、偶然ではなく、紫式部による意図的な設定にちがいない。竹取の翁と帝は、かぐや姫をうしない、いたたまれないほど嘆き悲しむ。それは、女君三人を亡くして途方に暮れる光源氏の胸のうちと同じなのだ。
――愛する人が手の届かない世界へ行ってしまったあとの、その悲しみを、紫式部は、竹取物語の設定を踏まえて書いたんだ。でも、たんなる物語じゃすまない。もとの時代に桜ちゃんがもどってしまったら、おれもきっと……。
「悠にいちゃん! ね、悠にいちゃん!」
速仁になんども名前を呼ばれて、悠斗はわれに返った。
「頭中将さんが、そろそろおれたちと話しをしたいって……」
「ああ、わかった。いよいよ質問だな……」
――新帖が見つかったら、桜ちゃんは帰ってしまうかもしれない。
悠斗は、桜子の横顔をコッソリとうかがった。頭中将の質問を待ちかまえている一途な瞳が、そこにあった。




