7-15
桜子たち四人は、おおきく幾重にも波うつ砂地を、まっすぐ鳥居をめざして進んだ。
砂に足がめりこみ、歩くのが一苦労だった。なかでも光源氏は、前かがみになって、ヨロヨロと歩いている。生地タップリの指貫では、人一倍、歩きにくい。
なんどもころびそうになった光源氏は、物語世界にもどしてもらおうかと考えた。
――それにですよ、神社に到着したあとで、ふたたび呼びだしてもらったら、楽ではないですか……。
だが、女君のまえでは恰好をつけたい光源氏は、それを口に出すことができなかった。
――フゥゥ、夕霧も呼びだされたらよかったのに……。
同じ指貫姿の速仁がふりかえり、肩で息しながらも、
「やーい、やっぱり、じいさんだ」
と、登り斜面で四苦八苦している光源氏をからかった。
――この悪ガキが! エッ!?
速仁が、光源氏に右手を差しだしたのだ。
『すまぬな、少年』
「もぉぉ、少年って言うな! それにおれ、来年の春までには元服するんだぞ!」
『それでは、やはりまだ少年だ、ハハハ』
憎まれ口をきく光源氏を、それでも速仁は手を引いて助けた。
『すまぬな』
ようやく一行は檪谷七野神社に着いた。鳥居も石段も、砂に半分埋まっている。四人は石段を上がり、拝殿のまえで順々に鐘を鳴らした。
そして二礼二拍手一礼をした直後、ザザーという音が足下で響いた。砂が緩やかに動きだしたのだ。鳥居と石段を埋めていた砂は、引き潮のように消えていく。波うっていた砂地は、みるみるうちにまっ平らになった。
そして、砂地のあちこちから水があふれ出し、それはつながって、清らかな流れの小川となった。シダが芽吹き、ところどころに生じた苔が、砂浜を走る波のように広がっていく。さらに、ポコ、ポコ、ポコポコポコと、地面から幼木が、つぎからつぎに、飛びだすような勢いで現れた。それは、グングンと幹を伸ばして若木となり、またたくまに枝も広げて大木になった。
拝礼して一分後、桜子たちは、シダと苔が地面をおおい、シイやカシの大木が緑の天井を作っている照葉樹林の森のなかに、呆然と立ちつくしていた。
本殿の扉が、ギギィィとにぶい音をたててひとりでに開き、なかから、古代飛鳥人のような装束をまとった女性が現れた。巻きスカート風の裳も、上半身をつつむ袍も、すみれ色や藤色、ききょう色など、さまざまな紫の彩りがあざやかだった。
――春日神だ!
桜子たち四人は、そろってそう思い、ふたたび一礼したあと、その口が開くのを待った。
だがその女神は、桜子にほほえんだあと、なにも言わず、石段を下りていった。そして、ひときわ大きなカシの木のまえまで行くと、それを背にしながら、両手を広げまっすぐ上に伸ばした。その体に、天上からサッと光がさした。
時をおかず、女神の口から歌声が流れだした。背後にそびえ立つカシの木が枝をふるわせ、その巨木から周囲の木へと、葉のざわめきが広がっていく。木も歌っているようだと、桜子は思った。
月影のない夜 ひとりぼっちのわたし
現れたあなたは 闇の皇子さまなの?
それでもよかった あなたとなら
どこへでも行こう 地獄であっても
鳥のさえずる朝 からませる指と指
お寝坊なあなたは 銀色の瞳なの?
それでもよかった あなたとなら
ともに歩みたい 道に外れても
はなれる手 薄れる匂い
ひとつの枕 ひとりの朝食
わたしは またひとりぼっちなの?
いいえちがう だって歌があるもの
つきせぬ想いを この声に乗せ
あなたの世界へ届けよう
透きとおった、だが力強くもあるその声は、天上にまで届いているにちがいない。桜子たち四人がそろってそう思ったとき、歌声が静かに止んだ。
歌姫は口もとに笑みをたたえながら、ふたたび石段を上り、拝殿のまえに立ちつくしている桜子たちのまえにやってきた。
『あなたは、式部殿の孫姫だそうですね』
やさしく問いかけられた桜子は、ふかぶかと頭を下げ、
「はい、藤原桜子ともうします、天美津玉照比売命さま」
と、神名を口にした。
『まだ幼いのに、藤原の娘としての智恵をしっかり身につけているようですね。うれしく思います』
藤原一門の氏神である春日神とは、四つの神を合わせた総称である。そのなかで、女性神は天美津玉照比売命だけなのだ。
『式部殿は、この紫野の地に縁のある、源氏の物語のなかの人物とごいっしょに参詣され、源氏の新帖を無私無欲に探し求めている者への力添えを祈願されました』
比売命は、桜子にそう告げると、悠斗と速仁の顔も順々にみつめた。そして、その歌声を響かせたカシの大木を指さし、言葉をついだ。
『あの木のまえでお待ちなさい。式部殿が新帖につながる品を託された人物に、さきほど、お声をかけました。一千有余年たったこの時代にお越しなさい、とね。ほどなくして姿を現されるでしょう。そして、その方の問いかけに答えなさい。満足のゆく答えであれば、その品を譲っていただけますよ』
言いおわると、比売命は本殿のなかへもどり、ふたたび扉がひとりでに閉じた。
桜子たちは、拝殿まえであらためて一礼したあと、カシの大木へむかった。
『そんなに慌てなくとも、木は逃げませんよ、ハハハ』
石段を急いでかけ下りる桜子たち三人の背中にむかって、光源氏は悠長に声をかけた。
『それにですよ、朝顔の姫君はわたしを心から愛してくださっているのですから、わたしがついていれば、第三の品は手に入ったも同然です、ハハハ。――聞いているのですか!』
桜子たち三人は、光源氏にまったく耳を貸さず、一直線にカシの大木をめざしていた。
朝顔の姫君が現れるにちがいない。光源氏とおなじように、桜子と悠斗もそう確信していた。ここは、斎院御所の一画か、すくなくともその隣接地なのだ。朝顔の姫君のほかに、この地に縁のある人物は考えられない。みながそう思っていた。
だが、カシの大木のまえで五分ほど待っても、だれも現れなかった。光源氏は、あいかわらず呑気そうに、桜子たちに話しかけた。
『朝顔の姫君は、おくゆかしい方ですから、大勢のまえに姿をさらすのを恥ずかしがっておられるのでしょう。みなさんは、雲林院におもどりなさい。わたしだけになれば、朝顔の姫君は姿をみせられます。ふたりだけで夜をすごし、明日の朝、お別れするときに、第三の品を譲ってもらいましょう。――聞いているのですか!』
桜子と悠斗は、速仁をまじえ、光源氏を無視してヒソヒソと相談していた。ふたりは、朝顔の姫君が出すだろう質問に正々堂々と答えたかったのだ。そうすることが、紫式部の願いに応じることだと考えていた。だが、なぜ朝顔の姫君は現れないのだろうか。
「光るじいさんなんかに、会いたくないのじゃないか?」
速仁が肩をすぼめてそう言うと、悠斗もうなずいた。
「そうかもしれないな。朝顔の姫君は、光る君の求婚に、結局は応じなかった人だもなぁぁ。光る君は物語のなかへ帰ってもらおうか?」
「でもそれだと、光る君さまにお気の毒です。いっそうのこと、夕霧さまにもお越しいただき、ご相談しましょうか?」
と、桜子は悠斗にたずねた。
「ああ、いい考えだと思う。夕霧さんは頼りになるからな」
悠斗がそう言うと、速仁は口をとがらせた。
「あの人は、冥界でほとんど役にたたなかったよ。小さい光るじいさんを、おんぶしたぐらいなものじゃない?」
「そんなことはない! おまえが気をうしなっているあいだ、夕霧さんは、おれたちが地獄道に転落しないよう、必死だったんだぞ」
悠斗が力をこめてそう言うと、速仁は目をまるくした。
「そうだったの!? おれ、知らなかった……。だったら、お礼を言わなきゃ。夕霧さんをお呼びしてよ、ね、桜ちゃん」
「うん、わかった」
と答えた桜子は、悠斗の顔を見た。悠斗も、頭をおおきく縦に振った。
桜子は目を閉じた。だが、何歳の夕霧に来てもらったらよいのか、すぐには決めかねた。光源氏が二四歳のとき、夕霧はまだ三歳だ。そんな幼い夕霧であれば、大きな助けにならないかもしれない。
――でも、同じ年頃だったり、冥界のときのように夕霧さまの方が年上だったら、おふたりともバツが悪いだろうし……。そうだ! あの頃の夕霧さまだったら、きっといいわ!
桜子は、あらためて目を強く閉じた。
たちまち、元服後まもない十代半ばの夕霧が現れた。
『孫姫、それに大学の君、ご機嫌うるわしくぞんじます。一の宮さまもおられるのですね』
そう言って夕霧が三人に会釈すると、すぐに速仁が冥界での礼を述べた。
『アハハ、たいしたことではなかったですよ。とにかく、鏡が得られてなによりでした。今日は、第三の品の探索ですね。お手伝いいたします』
夕霧は、自分が少年姿で現れたことに気づかないまま、いたって上機嫌だった。だが、
『えっ!? 父上もおられるのですか……』
と、光源氏を目の端にとらえるや、小さく肩をすぼめた。そして、無言で頭をたれた。
光源氏は、おうように笑顔を作り、ゆっくりと口を開いた。
『孫姫から厚い信頼をよせられているわたしは、おまえよりも、ズーッとまえに呼びだされていた。おまえが現れるより、ズーッとズーッとまえから、孫姫のお手伝いをして、新帖につながる第三の品を探しておるのだ』
光源氏の言いように、夕霧は、また肩をすぼめた。そして、光源氏をそのまま若くしたような、よく似た顔を桜子にむけ、ほほえみながら口を開いた。
『父上ではまったくお役にたたず、まだ第三の品が見つかっていない、ということですね』
桜子は、どう返答したらよいか、困ってしまった。火がついた源氏親子のいがみ合いに、油を注ぐようなことはしたくない。悠斗を見ると、右手で首のうしろを掻きながら、おなじように困った顔をしている。
だが、桜子と悠斗の心配をよそに、光源氏が夕霧を、またからかった。
『浅葱色の若造が、どこまで役にたつかな? まあ、がんばりなさい、アハハ』
夕霧は、光源氏からそう言われて、自分の手と装束を見た。子どもっぽい、ふっくらした指と、低い官位用の、薄い藍色の束帯だった。夕霧は、とたんに情けない顔になった。
平安時代の宮廷官僚は、その官位に応じて、身につける束帯の色が決められているのだ。夕霧は従兄弟たちよりも低い官位の六位で元服し、一年半ほどのあいだ、浅葱色の束帯を身につけなければならなかった。浅葱姿を、母方の従兄弟たちにからかわれたうえに、雲居雁の乳母にまで見くだされ、それに耐えられないあまり、一時は屋敷に引きこもったほどだった。
桜子は、しょげてうつむいている夕霧少年と、扇子を口にあてて笑っている光源氏に目をやりながら、悠斗に耳打ちした。
「あのおふたりを、できるだけ引き離しましょう。わたしは光る君さまのお相手をします。悠斗さんは、夕霧さまをお願いします」
悠斗はうなずき、夕霧をカシの大木の後方に誘った。
悠斗は、光源氏たちの耳に声が届かないところまで来るとたちどまり、夕霧に、雲林院に参詣してからの経緯を伝えた。そして、春日神からよびだされたはずなのに、
「朝顔の姫君が姿をみせないのは、どうしてなんでしょう? 夕霧さんの考えを聞かせてください」と、
姿形は年下の夕霧に、ていねいな言葉づかいでたずねた。
悠斗に頼られて気をとり直した夕霧が、うれしそうに口を開いた。
『それはきまっています。父上に会いたくないからですよ。――しかし、なんとかしないといけませんね……』
夕霧は右の拳を顎にあてながら、目を閉じて考えはじめた。
ほどなくして、夕霧は左袖がクイクイと引っぱられるのを感じた。
夕霧がまぶたを上げると、年のころ七十ほどの老女が、手箱をひとつ抱え、目のまえに立っていた。尼姿だが、白粉を厚く塗っている。そのよこでは悠斗が、目をまるくして固まっていた。
老女は、
『お・ま・た・せ、光る君さまぁぁ』と、
歯が抜け落ち、すぼんでしまった口ながら、しなを作って夕霧に話しかけてきた。
『い、いえ、ひ、人ちがいです!』
夕霧はちいさくそう叫ぶと、悠斗に顔をむけた。
――いったいだれなんだ、この奇妙な年寄りは? これが朝顔の姫君? 嘘だろ!
夕霧と悠斗は、同じことを思って目をあわせた。




