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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第7章 薫香
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7-13

 桜子たち三人が墓所から堀川通りに出ると、パトカーが一台、サイレンを鳴らしながらやって来た。目のまえの車道に、ワゴン車が横倒しになっている。物見高い男女が、十人ほど集まっていた。

「さっきの突風のせいやわ」

「けが人は?」

「路上駐車の車やったから、乗ってる人はおらんかったらしい」

 人びとが思い思いに口にしている言葉が、立ちさる桜子たちの耳に、聞くともなしに入ってきた。

 桜子は、左肩に留まっているスズメに、

「あの風のせいだったらしいよ。シロも怪我しなくてよかったね」

と、小声で話しかけた。

 そして、歩きながら横転車をふり返った悠斗は、速仁が時空を超えてやって来る直前にかぎって、風や地震がおきることに気がついた。タイムワープの前兆なのだろうか、と思いはじめた悠斗の横で、速仁は顔をくもらせていた。

 ――あんなに重そうな車をひっくり返すほどの、強い風が吹いたのだ。ひょっとして、……。

 速仁は、時空を超えるたびに空や大地が歪むという、石山観音の言葉を思いだしたのだ。

「ねえ、桜ちゃん。最近、こちらの世界で天変地異がおきたりしていない?」

 速仁からそうたずねられて、桜子は首をかしげた。

「うーん、なにも起きていないと思うよ。ついさっき、宮ちゃんが現れる直前に、強い風は吹いたけれど……。それに、清水の舞台にいたとき、地震があったぐらいかなぁぁ。でも、天変地異とは言えないと思うよ。――どうしてそんなことを聞くの?」

 質問に質問で返された速仁は、

「べつに……。ほら、野分(のわき)のような風が吹いたって、さっきの人たちがしゃべっていたから……」

 そう言ったきり、速仁は押し黙った。天変地異がおこりかねないという石山観音の言葉を桜子に伝えたら、心配させると思ったのだ。それに、心配のあまり、もう時空を超えてはいけないと、桜子から言われるかもしれない。

 ――おれ、そんなことになったら、……。

 速仁は、うつむいて歩きながら考えこんだ。そして、あらためて桜子の横顔に目をやったとき、どうしようもないほどの、桜子への強い思いにとらわれた。

 ――天変地異で、みんなが困ってもいい! おれは、桜ちゃんと、ずっと会っていたい!


 悠斗は、豆腐料理の店を昼食に選んだ。木造の古い京町家を改装したものだった。表通りに面した板敷きの部屋の真ん中に、十人用の大テーブルが据えられている。その角の席に、三人がならんで座った。

 悠斗にとっても初めての店だった。紅殻格子(べんがらごうし)のむこうに、道行く人が見える。鞍馬堂と同じように玄関から奥までつづく土間があり、それも席から見通せる。悠斗は、東京では見られない、木と土の温もりが身近に感じられるこういう町家の雰囲気が好きだった。おまけに、桜子がおいしそうに食べはじめたので、悠斗はますますうれしくなった。

 だが、速仁のようすが気がかりだった。店に入るまえから口数が少なくなり、目のまえに置かれた料理にも、ボーッとしながら箸をつけている。

「着替えの服を、このあたりの店で買おうか?」

 悠斗がそう声をかけても、速仁は、

「悠にいちゃんに任せる」

としか言わない。

「それじゃ、さきに雲林院(うんりんいん)へお詣りしてから、河原町へ買いに行こう」


 悠斗が口にした雲林院という言葉に、桜子のバッグのなかで耳を澄ませていた白スズメの目が、サッと赤くなった。そして桜子も、顔を輝かせた。雲林院は、源氏物語に登場する寺院のひとつなのだ。

 だが速仁は、

「うん……」

と、気のない返事をし、また黙々とご飯を口に運びつづけた。

 ――桜ちゃんに会えるのが年に一回ぐらいになっても、おれ、がまんする。それだったら、ひどい天変地異はおきないよな。でも、彦星なんて、……グス。

 速仁は、おもわず左手の甲で目をぬぐった。


「泣いたりして、どうしたの宮ちゃん? お腹が痛いの?」

 桜子にそうたずねられた速仁は、ちからなく頭を左右に振った。

「お腹は痛くない。……とてもおいしいよ」

「あっ、そうか! おいしすぎて、うれし泣きなんだ」

 桜子は、はずんだ声でそう言うと、デザートの豆乳プリンに手を伸ばした。

 すると悠斗が、自分のプリンを桜子のまえに差しだした。

「わぁぁ、ありがとう悠斗さん!」

 無邪気に喜ぶ桜子を横目で見て、速仁も、同じように自分のプリンを桜子の目のまえに置いた。

「ありがとう、宮ちゃん。でも、これは宮ちゃんが食べなさいよ。食べすぎると、太るから……」

 桜子は悠斗にほほえんだあと、速仁にむかって言葉をついだ。

「それに、わたしと悠斗さんは、いつでもこのお店に来られると思うけれど、宮ちゃんは、これっきりになるかもしれないでしょ」

 速仁は、涙がますます出そうになるのを、必死でこらえた。

 桜子のバッグのなかにいる白スズメが、脚で首を掻いた。

 ――うーん、どうも孫姫は、男心に鈍いのう……。まっ、男女交際はまだほどほどにな。ともかく、いまだいじなのは、源氏の新帖を見つけることじゃ。雲林院か、……悪くはない。


 雲林院は、紫式部の墓所から歩いて五分ほどの、市街地の真ん中にある寺院だ。このあたり一帯は古来から紫野とよばれ、平安京の北方にあって、かつては、有栖川(ありすがわ)とよばれる小川が流れ、紅葉や桜の名所だった。平安時代の初め、この地に広大な離宮〈紫野院〉が造営された。嵯峨天皇の弟である淳和(じゅんな)天皇が、離宮の釣台で、魚を鑑賞したり、供の文人たちに漢詩を詠ませた、と伝えられている。造営後しばらくして離宮は雲林院と名を変え、さらに寺に改められ、紫式部が存命だったころには、観音像のまえでの菩提講でにぎわった。極楽往生を求め、法華経を唱和したり、講説を拝聴する法会である。

 だが、鎌倉時代に入ると寺運が衰えていく。室町時代には、もともと雲林院の管理下にあった土地に大徳寺が創建され、雲林院自体が事実上その子院になったという。そして応仁の乱で堂宇が焼失し、ようやく江戸時代に、大徳寺の正式な子院のひとつとして観音堂が再建され、これが現在につづいている。


 源氏物語のなかでは、光源氏が、この雲林院の一坊に籠もる。亡き父帝の中宮である藤壷への、断ちがたい愛惜の念をまぎらわそうと、学僧たちの講説を聴いたりなどして数日をすごすのだ。だが、自分の心をみつめればみつめるほど、藤壷を忘れられそうにないことを思いしらされるのだった。

 光源氏は一方で、正妻格の紫の上に、こまやかな情愛をこめて手紙をたびたび送りもする。そのうえ、雲林院のすぐ近くにある斎院御所で神事に日を送っている従妹の朝顔の姫君と、彼女に仕える女房にも、それぞれ恋文を贈るのだった。

 斎院とは、下鴨神社と上賀茂神社からなる賀茂社に、天皇の代理として奉仕する巫女である。その職にあった朝顔の姫君に恋文を贈ったことが、後日、兄の朱雀帝に対して謀叛心を抱いている証しのひとつだとそしられ、光源氏は須磨への蟄居ちっきょをよぎなくされる。

 紫式部は、光源氏二四歳の、多情多感な秋の数日を、この雲林院を舞台にして物語ったのである。


 食事を終えた悠斗と桜子は、まだ箸をゆっくりと動かしている速仁を横に置き、雲林院で光源氏と夕霧を物語世界からよびだすかどうか、相談をはじめた。

「昨日の嵯峨野でも光る君や夕霧さんたちに来てもらわなかったから、今回もそうする?」

 悠斗がそう切りだすと、桜子は小さくうなずいた。

「そうですね。おばあちゃまは雲林院の仏さまに、なにも託さなかったかもしれないから、おふたりをお呼びだししても、もうしわけないことになるかもしれませんね」

「それとも、物語世界のなかばかりにいると退屈だって光る君が言ってたから、いまの雲林院を光る君に見せて、驚かせようか?」

「それもいいですね、うふっ」

「どっちがいいかなぁぁ。――一宮はどう思う? おまえが決めろよ」

 悠斗から話しをふられた速仁は、デザート用のスプーンを持ってうつむいたまま、ボソッとつぶやいた。

「呼びだしてあげる方が、いいと思う」

 ――だって、御所よりもこっちの方が、ずっと楽しいもの……。

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