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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第7章 薫香
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7-8

 速仁が夜空を見あげながら桜子を想っていたとき、芦屋道満は、明るい陽射しのなかを、猛烈な勢いで空高く飛行していた。というのも、――


 五日まえ、首塚大明神でマルセルの体を乗っとった道満は、すぐに境内を出たものの、鳥居からさき、どこへむかったらよいのか、まるで見当がつかなかった。しかたなく、体をマルセルに返し、自身は気配を殺して体内に潜むことにした。

 マルセルの目が、もとの青色にもどった。

 そのとたん、マルセルは我にかえった。だが、鬼に首をつかまれてからの記憶がまったくない。やはりここは心霊スポットなのだ。マルセルは、恐怖で全身を凍りつかせた。もう二度とここには来るまい。鳥居のそばに置いておいた自転車にとび乗り、マルセルは一目算に逃げだした。


 京都大学近くの学生マンションの自室にもどったマルセルは、すぐにベッドへもぐりこみ、シーツを頭からかぶって体を震わせつづけた。

 窓の外が暗くなりはじめたとき、きゅうに意識がなくなった。目の色が青から緑に変わり、道満が体を支配した。

 道満は、ベッドからムクッと起きあがると、部屋を見わたした。書棚に、妖怪関連の本がならんでいる。都合のよいヤツの体を借りることができたものだと、道満はほくそ笑んだ。酒ビンらしきものが三本、書棚に寝かせられているのも目にはいった。

 道満の頭から、角が五本、ニョキニョキと突きでてきた。道満は、首をボキボキと鳴らしながら書棚に近づき、真ん中のビンに手を伸ばした。そして、コルク栓を強引にねじりとり、匂いをかいだあと、白い器を見つけて中身を注いだ。生血のような液体だと、道満は思った。


 翌日の土曜日の朝、マルセルはベッドのなかで目覚めた。昨日の夕方からの記憶が、またうしなわれていた。シャワーを浴びず、食事もとらずに寝たようだ。気味がわるかった。おまけに、とっておきのワインが、三本とも空っぽになっていた。わけが、ますますわからなくなった。

 マルセルは、外出するのがまだ恐ろしく、週末の二日間は部屋にひきこもった。そして、今後の研究材料を真剣に考えなおした。首塚大明神について、さすがに、もう調べる気になれなかったのだ。マルセルは、指導教授のアドバイスを思いだした。心霊スポットを研究するなら、京都のあちこちをガイドブックのように浅く取りあげるのではなく、特定の場所に絞り、そこを、歴史社会学の手法でもって綿密に調べろと言われていたのだ。

 マルセルは、一条戻橋を研究対象にすることを決めた。京都市内でも指折りの心霊スポットのうえに、市街地のど真ん中にあるのが心強かった。万が一に鬼や幽霊が現れても、山中にある首塚大明神とはちがい、だれかにすぐに助けてもらえそうな場所だ。


 マルセルが一条戻橋を思いうかべたとき、マルセルの体に巣くう道満はニンマリとした。安倍晴明が式神たちを一条戻橋の下に置いていることは、陰陽師たちのあいだで、よく知られていたのだ。そして、マルセルが一条戻橋の近くの晴明神社にも思いをめぐらしたとき、道満は、歯ぎしりすると同時に、小躍りもした。

 ――晴明のヤツ、やはり神になっておったか……。だが、そのおかげで、ふたたび相まみえる機会が得られるというものだ。今度こそ、目にものを見せてやる! 覚悟しておれ!


 週明けの月曜日に、マルセルは指導教授の研究室を訪れた。研究対象の絞りこみについて報告すると、研究書や資料についてアドバイスを受け、励ましもされた。

 そして翌日、マルセルは、これまでなんども行ったことのある一条戻橋へ、自転車でむかった。現場を見なおすことで、研究への意欲を、あらためて掻きたてようとしたのだ。

 マルセルは、戻橋の下におりてみた。あいかわらず人影がない。道満も、マルセルの目を通して、式神を探した。だが、式神はどこにもいないようだった。

 戻橋から北へ、自転車で一分たらずのところに晴明神社がある。マルセルは、神社の境内にも足を踏みいれた。そしてその瞬間に、また意識が途絶えた。目が、妖しい緑色に変わっていた。


 境内には、参詣者がひっきりなしに訪れていた。道満は、いいようのない(ねた)みにとらわれ、晴明神社の堂宇を粉みじんにしてしまいたくなった。だがそれでは、晴明に勝ったことにはならない。衆人環視のもとで、鮮やかな呪術を繰りだし晴明を打ち負かす。それこそが、千年ものあいだ、ジメジメした土のなかでひたすら願っていたことなのだ。

 道満は、はやる気持ちを抑え、晴明の魂魄を境内のなかに探った。だが見つからない。

 不思議に思いながら、もういちど境内を見まわすと、晴明をかたどった等身大の座像が目に入った。近づいてその顔を見ると、道満が知っている晴明に、うりふたつだった。人を食ったような、ひょうひょうとしたその表情が、道満の怒りを爆発させた。


 道満は、クルリと座像に背をむけ、境内をあとにした。そして、鳥居をくぐり抜けたところで立ち止まり、目と口をおおきく開け、両手を勢いよく地面にむけた。

「ウワァァァ」

「キャァァァ」

 境内の奥で、複数の叫び声が上がった。

 道満は鳥居に背をむけたまま、目と口を閉じた。酒呑童子と合体したおかげで妖力が倍加したことを、道満は確信した。道満はまぶたを上げ、ニタリと笑った。その目は、ゆっくりと青色に変わっていった。


 意識を取りもどしたマルセルは、背中越しに、騒々しい声を聞いた。ふり返ると、おおぜいの参拝客が、ひとつところに集まっていた。

 いそいで鳥居からかけつけ、人だかりの頭越しにのぞきみると、晴明の座像がバラバラになっていた。

「きゅうに壊れたんよ」

「なんでやろ……」

「なにかの悪い前兆やろか?」

 人びとが口々に、その不思議さを語っている。

 マルセルは、壊れた座像それ自体よりも、それを目にしている人びとの反応を記録しておこうと思った。きっと研究に役だつだろう。そう考え、閉門になる夕方まで境内にとどまった。


 その夜、マルセルが自室のベッドのなかで眠っているあいだも、道満は、晴明の居所を考えつづけていた。一条戻橋に式神はおらず、晴明神社の境内にさえ、晴明の魂魄を見いだせなかった。だが、

 ――境内!? ひょっとしてアヤツ、境内は境内だが、人の目で見える場所にはいない、ということか……。ククク、明日が楽しみだ。


 翌朝、マルセルは大きな荷物を持ってマンションを出ると、まっすぐ出町柳へむかい、そこからバスに乗った。

 ――このマルセルという男、今日はどこへ行こうとしておるのだ? 晴明神社ではないのか!?

 マルセルの体内に潜む道満は悔やんだ。マルセルの部屋から晴明神社への道順を、憶えていないのだ。晴明神社へは、マルセルに体と意識を返したままで連れていってもらうしかない。

 ――しかたない。教授とやらの指導を守って、きっと明日か明後日には、また一条戻橋と晴明神社へ調査に行くはずだ。その時こそ……。


マルセルは、二時間ほどでバスから降りると、長大な建物に入った。そして、パスポートと航空券をバッグから取りだし、航空会社の搭乗手続きカウンターにならんだ。

 九月末までの、約一か月の帰省だ。思いだすだけで背筋が寒くなる事件があったおかげだからにせよ、研究対象がようやく絞れた。これで心おきなくバカンスがすごせる。セーヌ河畔のアパルトマンに住む恋人のことを、マルセルは心に描いていた。

 こうして道満は、関西空港から、パリ北郊のシャルル・ド・ゴール空港へむけて、機上の人となった。

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