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悠斗はタクシーをひろい、北山連峰の一角にある屋外プールへむかった。一刻も早く速仁に水泳を教えたかったのだ。それに、源氏物語の新帖につながる第三の品が得られず、猛暑ともいえる一日が暮れはじめたとき、冷たい水のなかで桜子と遊べば、気分転換できそうだった。
このプールは、去年の夏休みに悠斗が知った穴場だ。市街地の喧噪から離れ、芝生や木々の緑に抱かれるようにして、二面のプールがある。レストランやショップも充実している。夕飯はここで食べ、今夜も速仁を自室に泊めよう。悠斗はそう考えていた。
プールに到着すると、悠斗はショップで、自分と速仁のために、まよわず競泳用の用具一式を買い求めた。だが桜子はとまどった。
――ぷうるは、大きなお風呂のようなものだと、悠斗さんは言っていたけれど……。ここは露天風呂で、悠斗さんといっしょに入るようだし……。
体の線が露わになり、肌も大胆に露出させる水着が、桜子は恥ずかしかった。おまけに、悠斗と速仁が口をそろえて奨めるのは、ビキニ型の水着なのだ。
結局、桜子が選んだのは、フリル付きのワンピース水着だった。
速仁がまっさきに、勢いこんでプールに入った。ついで悠斗が、ゆっくりとクロールで往復した。
「悠にいちゃん、格好いいなぁぁ」
「一宮も、すぐに泳げるようになるよ。おまえ、運動神経よさそうだからな」
ふたりは、さっそく練習をはじめた。
「まず、水に慣れるために、目を開けたまま潜ってみろ。おれがいいと合図するまで、潜ってろよ」
悠斗がそう言うと、速仁は口もとを引き締めてうなずき、ブクブクと水中に身を沈めた。
一分ほどすぎたとき、水着姿の桜子が、恥ずかしそうに、ようやくプールサイドに入ってきた。ピンクのスイミングキャップと、それよりも薄いピンクの花柄水着を身につけた姿が、初々しかった。
悠斗は、桜子を見やりながらプールのなかで立ちつくした。
桜子は、悠斗の熱い視線を避けるように、いそいでプールに入った。
「わぁぁ、冷たいぃぃ」
そう言ってほほえみかける桜子の顔を、悠斗は声をかけることも忘れ、ジッとみつめつづけた。
「宮ちゃんはどこ?」
と桜子がたずねたが、悠斗の耳には、なにも届かない。
悠斗の横では速仁が、右手を水面に出し、左手でノドを押さえながら、水中でもがき苦しんでいた。だが悠斗は、それにも気づかない。
「ブファァァ」
速仁が、苦しそうに水中から顔を出した。そして、目のまわりの水滴を両手でぬぐいながら、情けなそうな声で悠斗にたずねた。
「ごめんなさいぃぃ。く、苦しくて、……。おれ、不合格?」
「?………。あっ!」
悠斗は、速仁への合図を忘れていたことに、ようやく気づいた。
「い、いや、十分に合格だぞ。――アハハ」
悠斗は、気まずい思いを、笑いで押し隠した。
「よかった、エヘッ。つぎはなにをしたらいいの?」
うれしそうな顔でそうたずねる速仁が、悠斗には、素直でカワイイ弟のようにますます思えた。
「ヨシ! 今度はバタ足だ。桜ちゃんもいっしょにね」
三十分ほど練習すると、桜子は、ビート板を使えば前に進めるようになった。
速仁は、もっと上達した。ぎこちない息継ぎながらも、プールの端から端まで、なんとか泳げるようになったのだ。
そして三人は側壁に集まり、日が沈んだプールのなかで水の感触を楽しみながら、しばらく体を休めた。
「宮ちゃんは、すごいね。もう泳げるようになったね」
「おまえ、やっぱり運動神経いいな!」
そう言って桜子と悠斗が口をそろえてほめると、速仁は、水に濡れた顔を輝かせた。そして、
「おれ、潜水の方が得意だぞ」
と言うと、ザブンと水に潜り、反対の側壁にむかって泳いでいった。
だが速仁は、なかなか水中から体を現さない。心配になった悠斗は、いそいで水に潜った。桜子も、水中を歩いて探した。
プールの中央に、速仁の水着とゴーグル、スイミングキャップが、プカプカと浮いていた。桜子がゴーグルを手に取ると、悠斗も水面に顔をだし、水着とスイミングキャップをつかんだ。
「宮ちゃんは、もどってしまったのでしょうか?」
「ああ、きっとそうだよ。予定より早かったけど……」
「宮ちゃんたら、勉強しながら居眠りでもしてたのだわ。石山の観音さまは、宮ちゃんの居眠りを、きっとお見通しだったのでしょうね」
「アハハ、そうかもしれないな。でも、あいつ、がんばってると思うよ」
「そうですね、宮ちゃんに感謝しなきゃ。また三人で、源氏の新帖を探しましょうね」
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「若宮! どうして、また裸でおもどりなのですか! むこうの世界でも、むちゃをしないでくださいよ」
惟清が、東宮御所の曹司のなかで、小言を口にしながらも、心配げな顔で速仁を迎えた。
――うぅぅぅ、観音さまのケチ!
と、速仁は文机の上に目をやった。厨子のなかの観音像は、眠っているかのように、両目をピタリと閉じていた。
惟清は、新調の装束を速仁に着せながら、予定よりも早くもどってこなければならなくなった理由を説明した。――
速仁の父である東宮が、月の出ない今宵、速仁をかたわらに呼び親子水入らずで虫の音を愛でようと、きゅうに思いついた。というのも、女房たちが不思議そうに言うには、このところ熱心に勉強するようになった速仁が、今日も昼から、人払いまでして勉強に没頭しているらしい。東宮は、愛息をほめてやりたくなったのだ。
「お招きをご辞退できず、途方に暮れてしまい、観音さまにご相談した次第です。わたしひとりでは、若宮の不在を隠しとおすことができず、もうしわけありません」
そう言って頭を下げる惟清に、速仁は、
「おれの方こそ、困らせてしまったのだね、ごめん」
と言葉をかけた。
速仁は、観音像に礼を述べたあと厨子の両扉を閉め、いつものように、文机にうつぶした。
――父上と鈴虫の宴か……。桜ちゃんもいっしょだったらなぁぁ。
内心ため息をついている速仁のうしろでは、惟清が、速仁の体といっしょにもどってきた蓬色の装束をたたんでいる。川に浸かった痕跡は欠片もなかったが、皺がたくさんできていた。それをていねいに伸ばしていると、童直衣の袖のなかに、なにやらゴワゴワしたものがあった。
「若宮、ここになにか入っておりますよ」
と惟清が声をかけると、速仁が、体を起こし振りむいた。
「ああ、それはね……」
速仁がそう言いかけたとき、とつぜん、賢子が曹司に入ってきた。
「お部屋に籠もってのお勉強も、ほどほどになさいませんと、お体に障りますよ」
と声をかけながら、賢子は速仁の横に座った。だがその顔には、いつもの笑みがない。
「このお召しものについて、お伺いしたいことがございます」
そう言って賢子が惟清の目のまえに置いたのは、冥界へ行ったときに速仁が着ていた、撫子色の童直衣だった。
賢子はなにが言いたいのだろう。速仁と惟清が不思議そうに顔を見あわせていると、賢子は、その直衣の袖を広げながら言葉をついだ。
「袖のほつれを繕ったのは、わが娘の、一の君ではありませんか? この縫い方、そして糸のこの留め方は、まちがいなく、あの子のものです。――あの子には、とても癖がありましてね……。ひとことで言いますと、下手なのです」
速仁と惟清は、困った顔で押し黙るしかなかった。速仁が時空を移動していることは他人に漏らさない。これが石山観音との約束なのだ。
「ほつれを繕ったこの薄紫色の糸にも、見覚えがございます。あの子が石山詣のおりに着ていた装束の、縫い糸にちがいありません。わたしがこの手で、あれを縫ったのです」
そう言い終えると、賢子も押し黙り、速仁の目をまっすぐ見つめた。
速仁は、身を固くしたまま、瞳だけをなんども観音像へむけた。
「若宮さまは、それに惟清さんも、わたしに、なにか隠し事をしておられるのではないですか? わたしは、母として一の君の安否が、そして乳母として、若宮さまのことが心配でなりません。人には明かせない秘密があるにしても、母であり乳母であるわたしには、どうか教えてくださいませ」
賢子が目に涙を浮かべながらそう懇願すると、観音像が納められている厨子の隙間から、あわい光がもれだした。
「こ、これは!……」
賢子は仰天し、口を右手でおおい叫び声をあげた。
速仁は、いそいで厨子の扉をひらいた。そして、光り輝く観音像の顔をみつめながら、
「乳母ちゃんに教えてあげてもいい、ってことですよね。おれ、そうしますよ」
と、キッパリ言いきった。
観音像はますます輝き、その光は曹司のなか全体を、あかるく照らした。
速仁は、石山観音の力で時空を超え、千年先の未来で、三度にわたり桜子に会ってきたことを賢子に話しはじめた。――
桜子は、鞍馬寺の近くの、狭いが居心地のよい屋敷で暮らしている。仲のよい年寄り夫婦と、その孫息子に暖かく迎えられ、幸せそうだ。そして、悠斗というその孫に手伝ってもらい、源氏の新帖につながりそうな品を二つ手に入れた。横笛と銅鏡だ。
「おれも、鏡を手に入れるのを手伝ったんだ。二つとも、式部ばあちゃの遺品らしいよ」
速仁はそう言うと、惟清のまえにある蓬色の童直衣の袖から、薄紫色の糸で束ねられた一房の髪を取りだした。そして、賢子のまえにそれを置いた。
「これね、一の君ちゃんの髪だよ。でも出家したわけではないから安心して。むこうの世界の女の人は、短いのも長いのも、自分の好きな髪型にするらしい。――観音さまのお許しが出て、秘密を乳母ちゃんに打ち明けてもよくなったら渡すように、って頼まれたんだ。今日ね、大堰川で舟遊びして、そのときに預かった」
賢子は、速仁の話しを静かに聞いていた。桜子が無事に暮らしていることが、なによりもうれしい知らせだった。そのうえ、髪が長くならないことを嘆いていた桜子が、自分の意志で髪を切ったのだ。心を強くもって生きているのだろう、と賢子は思った。
賢子は、横笛と銅鏡についても、心あたりがあった。
「母が亡くなったとき、たしかに、家宝として伝わってきた品がいくつか見あたらず、不思議に思っておりました。いまは娘の手元に、そのうちの二つがあるのですから、母も本望でしょう」
賢子はそう言うと、居ずまいをただして観音像にむきあい、手を合わせながら頭をふかくたれた。
礼拝をつづける賢子の背中にむかって、あらためて速仁が話しかけた。
「ふたりよりも多くの人が時空を超えると、むこうの世界に天変地異が起きるらしい。だから、いま一の君ちゃんがいる世界には、もうおれしか行っちゃいけないんだって。この秘密を知ると、できもしないのに時空を超えたいと望み、かえって苦しみが大きくなることがあるらしい。それで、乳母ちゃんにも黙っておくよう、観音さまから言いつかっていたんだ。ごめんよ」
賢子は顔を上げ、観音像に手を合わせたまま、頭を横に振った。
「あの子が幸せでいるだけで、わたしはうれしゅうございます」
賢子がそう言うと、観音像の光がゆっくりと消えていった。
賢子は、あらためて速仁とむきあい、笑い顔で言葉をついだ。
「それに、若宮さまの軽い体とちがい、わたしのこの体を千年もさきの世へ運ぶのは、観音さまといえども、難儀なことでしょう、ほほほ」
「アハハ、そうだよね、アハハ、アハハ」
笑いこける速仁につられ、惟清も、体を震わせながら笑い声を漏らした。
「若宮さまも惟清さんも、笑いすぎですよ、ほほほ」
「もうしわけありません、乳母殿。ククッ」
三人がひとしきり笑いおえると、速仁は東宮のもとへ参上した。
速仁は廂で、行儀よく東宮と言葉をかわしながらも、空にかかる天の川にときおり目をやっては、桜子を想った。織姫星と彦星が、はかなげに光をはなっている。速仁の耳に、にぎやかに鳴く虫の声はひびかなかった。
――ふぅぅ。織姫に一年に一度しか会えない彦星か……。
鈴虫の宴を終えるとき、東宮は、このところの勉強ぶりをあらためてほめ、速仁に御衣を授けた。自身が元服のときに身につけていた束帯だ。他の皇子たちとはことなる、破格のあつかいである。
簀子縁で控えていた藤原兼隆は、ほくそ笑んだ。
――これで、一の宮さまが次の東宮に就かれるのは、まちがいないだろう。あとは、道満が源氏の新帖のありかを見つければ万全なのだが……。あやつ、あれから連絡のひとつも寄こさないが、どうしているのだろう。




