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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第7章 薫香
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7-6

 紫式部と同じころに生きた清少納言が、枕草子のなかで、〈寺は壷坂、笠置(かさぎ)、法輪〉と書いている。平安時代の法輪寺は、当時の代表的寺院のひとつだった。

 現在でも春と秋の数か月のあいだ、十三詣りの親子で境内はにぎわう。そして、たいていの子どもが、参拝後は本堂をふり返ってはいけないと、親から注意される。ふり返ると、本尊の虚空蔵菩薩から授かったせっかくの智恵を落としてしまうことになる、と言い伝えられているのだ。

 その法輪寺を訪れるために、桜子たち三人は、ふたたび渡月橋へむかい、橋を渡って嵐山地区に入った。嵐山の中腹に、法輪寺の堂塔が点在している。


 三人が寺の山門をくぐったとたん、悠斗のうしろで肩をならべて歩いていた桜子と速仁が、どちらも驚き顔になり目を合わせた。

「おれ、ここにお詣りしたことがあるような気がする。二年まえに乳母ちゃんたちといっしょに来たよね」

 速仁がそう言うと、桜子もおおきくうなずいた。

 悠斗はふりむかなかったが、口もとをゆるめた。

 ――そうか、桜ちゃんたちも十三詣りで、ここに来たんだ。


 悠斗は石段の参道を登りながら、聞くともなしに、速仁と桜子の会話を聞きつづけた。

「おれ、智恵をくださいと、虚空蔵菩薩さまに祈願したのになぁぁぁ」

「お祈りしたあと、大堰川へもどる途中でうしろをふり返ったからよ。お母さまが、ふり返ったらだめですよと、あれほど注意しておられたじゃない」

「うーん、だって……。ふり返ったのは、桜ちゃんのせいなんだぞ。石段を下りていたとき、キャー、なんて変な声をうしろで出したから、おれ、桜ちゃんが転げたのかと思ったんだ。それなのに桜ちゃんは、口を手で押さえながらうれしそうな顔をしておれを見ているし……。あれ、わざとだろ」

「そんなわけ、ないじゃない。あれはね、カナヘビちゃんがいたの。でも、カナヘビや虫を見て喜んではいけないと、お父さまから言われていたから、それで口を押さえたの。――そうか、宮ちゃんが頭悪いのは、わたしのせいなんだ。智恵なしにしてしまって、ごめんね」

「あのな、智恵なしとか、頭悪いとか、そうハッキリと言うなよ。おれ、これでも最近はそこそこ勉強しているのだから……。頭悪いのに勉強するのは、疲れるんだぞ」

「勉強しているんだ! よかった。虚空蔵菩薩さまに、今日もういちど、智恵を授けてもらいましょうよ!」

「よーし、今日は絶対にふり返らないからな!」


 悠斗は背中越しに、桜子と速仁が幼なじみらしい遠慮のない言葉をかわしているのを、笑いをこらえて聞いていた。

 桜子たちと同じ時間を共有して今ここで感じているさわやかな気分が、母との最後の旅行になったという七年まえのつらい思い出を、かき消すように上書きしていった。おもいきって法輪寺に来てよかったと、あらためて悠斗は思った。


 本堂のまえで手を合わせたあと、悠斗は桜子と速仁を、本堂の北側にある展望台へ誘った。そして、悠斗は欄干を見てすぐ、七年まえの記憶が鮮明によみがえった。京都市内が一望できるこの場所で、記念の家族写真を撮ったのだ。

 悠斗は欄干に両手をつき、町を見渡した。そして、カメラのまえで、はしゃぎながらピースサインをしていた七年まえの自分を思いうかべた。〈健〉という字を紙に書いて祈祷を受けたので、きっと母の病気はすぐに治るだろう。そう思ってうれしかったのだ。

 悠斗は、そんな幼い自分を思いだし、口もとをゆるめた。自然にこぼれた笑みだった。


 桜子と速仁も、悠斗をはさんで、おなじように京都の町をながめていた。

「きっと、あそこのどこかに、源氏の新帖があるのだわ……」

 桜子がそうつぶやくと、悠斗と速仁もおおきくうなずいた。

 悠斗は、

「ヨシ! 明日から、また、あらためて探そう」

と言ったあと、からかい顔で速仁にたずねた。

「さっき、なにをお祈りしたんだ? 勉強?」

「うん、もちろんだよ。でも、もうひとつお祈りした」

 速仁がそう答えると、桜子が、笑い顔で応じた。

「蹴鞠の上達でしょ!」

「あっ! それもお願いするんだった。おれ、もういちど、本堂に行ってこよーと」

「だめよ宮ちゃん。本堂をふり返ることになるから、また智恵をなくすわよ」

「おっ、そうだった。危なかったぁぁ」

 そう言って肩をすくめる速仁に、桜子が、

「ねぇ、もうひとつの願いごとってなに?」

と、あらためてたずねた。

 速仁は、ようやく乾いた髪に手をやりながら、恥ずかしそうに答えた。

「おれ、泳げるようになりたいって、お祈りした」

 すると悠斗が、目を輝かせ、うれしそうな顔をした。

「ヨシ! それじゃいまから、おれが特訓してやるよ。プールへ行こう!」

「ぷうる?」

 桜子と速仁は、初めて聞く言葉に、そろってけげんな声をあげた。

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