6-19
桜子と悠斗、速仁の三人は、ようやく九時すぎに、鞍馬堂のガラス戸を開けた。
一治は、居間のテレビのまえで、もうウツラウツラしている。だが、春恵は、遅い夕食を速仁の分まで準備し終えたあと、店内の照明を落とさず大机のまえに座って、悠斗たちの帰りを待っていた。
悠斗は速仁を、おなじ文学部の後輩でフットサルサークルの仲間だと、春恵に紹介した。そして、
「一宮くんは、おれよりも和歌に詳しい優等生なんだ」
と、つけくわえた。
「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極にぞんじあげます。不肖わたくし、速仁ともうします。悠斗大先輩のお祖母さまにおかれましては、ご清祥のこととお慶びもうしあげます。本日は、格別の思し召しをもって、金殿玉楼に一夜の宿を賜り、まことに光栄の極みにぞんじあげます」
腰を深く折り、堅苦しいほど丁重にあいさつする速仁だった。
春恵は、
「まぁぁ、ほんま、優等生さんやねぇぇ」
と、ほほえんだ。
速仁は電車のなかで桜子から、悠斗の家に着けば礼儀正しくふるまうよう、きつく言いわたされていたのだ。
夕食を終えると、悠斗が速仁を風呂に誘った。弟ができたらいっしょに入りたいと、夢みていた悠斗だった。
桜子が速仁に、
「それがいいわよ。水道とか、シャワーとか、操作がむずかしいから……」と、
耳打ちした。
「たかが風呂だろ? おれ、そこまで頭わるくないぞ!」
と、速仁は、春恵に聞こえないように小声で言いかえした。
だが、いざ風呂場に入ると、悠斗に手取り足取り教えてもらわなければならなかった。
「悠にいちゃんといっしょで、おれ、よかった……」
そうつぶやく速仁の言葉が、速仁はうれしくてならなかった。
「背中も頭も、おれが洗ってやるよ。おまえの髪の毛、長いもんな」
「うん、ありがとう」
速仁を洗い終えた悠斗は、速仁の白い肌の左胸に、小さい平坦な赤痣があるのに気づいた。ハート型で、ピンク色に近い。湯水に濡れて艶やかだ。
「おまえ、カッコいいアザがあるな。女の子にもてるぞ。アハハ」
「なぜもてるの……?」
速仁はけげんな顔をしながら、
「これ、生まれつきなんだ」と、
そのアザを指で触れた。そして、
「桜ちゃんの父親の兼隆卿からは、人まえにさらさないように気をつけろと、しつこく言われている」
と、顔をしかめた。
「桜ちゃんのお父さんって、どんな人なんだ?」
そうたずねる悠斗に、速仁は、
「こんな感じ」
と言いながら、両方の黒目を真ん中によせた。
「アハハ、それどういう意味だよ!?」
「おれ、あまり好きじゃない。――あっ、でもこれ、桜ちゃんに内緒だよ」
「ああ、わかってる。――それじゃ、もういちど、湯に入ろう!」
タイル張りの古い浴槽だが、三人ぐらい同時に浸かれるほど大きい。悠斗と速仁はならんで座り、足を伸ばした。湯はぬるく、いつまでも入っていられそうだった。
「なあ、桜ちゃんのお母さんは、どんな人なんだ?」
悠斗は、自分が知らない時代の、桜子のことが知りたかった。
「乳母ちゃんは、兼隆卿とちがって、やさしいし、とってもおもしろい人だよ。おれ、大好きだ。桜ちゃんは、口うるさいところをのぞけば、お母さん似だと思う。それに乳母ちゃんは、けっこう美人だしね。エヘへッ」
速仁が言いおわると、悠斗が、浴槽のなかで体を半回転させた。そして、浴槽の縁に顎を乗せ、両手を外にたらした。
速仁も、すぐに真似をした。
「桜ちゃんには兄弟がいるのか?」
「………」
速仁は、すぐに答えなかった。洗い場の床を、しばらくみつめていた。
「妹姫がひとりだけいる。その子のお母さんは乳母ちゃんじゃないけれどね……」
速仁が、ようやくボソリと返事した。そして、途切れ途切れに言葉をついだ。
「おれね、その子と……、元服の夜にね……、結婚しなきゃいけないって。――今日、父上から、そう言われた。――待ち合わせ時間に遅れたのは、父上にお会いしなければいけなかったから……」
速仁の目が濡れている。湯水のせいだけでないことが、悠斗には、いたいようにわかった。
ブクブクブクと音をたてて速仁が湯に潜った。
悠斗は、長い髪を湯のなかで漂わせている速仁の頭を、だまってみまもるしかなかった。
一分近くたった。
さらにもう一分。
だが、速仁は潜ったままだ。心配になり、悠斗が抱き起こそうとしたとき、ようやく速仁が頭を上げた。
「ブファァ、く、苦しいぃぃぃ。死ぬかと思った」
そう言ったきり、速仁は、浴槽のなで膝を抱え、口を閉ざした。
悠斗は立ちあがり、浴槽の縁に腰かけた。そして、窓に目をやりながら、速仁に話しかけた。
「おまえ、桜ちゃんが好きなんだろ?」
「………」
しばらくして速仁がコクリとうなずき、湯をみつめたまま、問い返してきた。
「悠にいちゃんもだろ?」
「ああ、好きだ。大好きだ」
悠斗は、すぐさま答えた。
ふたりが口を閉ざしつづけるなか、天井から浴槽に落ちた水滴の音が、風呂場におおきく響いた。
「おれ、負けないからね」
ようやく速仁が口を開いた。速仁は、両ひざを固く握りしめている。
「ああ、おれもだ。――でも、一宮、おれたちは仲間だからな。すくなくともおれは、おまえのことを、そう思ってるからな」
速仁は浴槽のなかで立ちあがり、悠斗の目をまっすぐみつめ、右手を差し出した。
「うん、おれもだよ」
そう言ってほほえむ速仁の手を、悠斗は強く握った。
速仁が握り返してきた。悠斗は、さらに力を込めて握った。速仁が、必死の形相になり、また握り返してきた。悠斗は、負けず嫌いの速仁が、おかしくてならなかった。
「おれ、のぼせそうだ。もう出ようか」
悠斗はそう言うと、手の力を抜いた。そして、
「おまえ、力あるな」と、
感心したような顔をした。
「そ、そうかな!? エヘッ」
うれしそうに笑う速仁を見て、悠斗は、桜子を恋人に、速仁を弟に持てたらいいのにと、心から願った。




