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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第6章 地蔵
67/160

6-19

 桜子と悠斗、速仁の三人は、ようやく九時すぎに、鞍馬堂のガラス戸を開けた。

 一治は、居間のテレビのまえで、もうウツラウツラしている。だが、春恵は、遅い夕食を速仁の分まで準備し終えたあと、店内の照明を落とさず大机のまえに座って、悠斗たちの帰りを待っていた。


 悠斗は速仁を、おなじ文学部の後輩でフットサルサークルの仲間だと、春恵に紹介した。そして、

「一宮くんは、おれよりも和歌に詳しい優等生なんだ」

と、つけくわえた。

「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極にぞんじあげます。不肖わたくし、速仁ともうします。悠斗大先輩のお祖母さまにおかれましては、ご清祥のこととお慶びもうしあげます。本日は、格別の思し召しをもって、金殿玉楼に一夜(ひとよ)の宿を賜り、まことに光栄の極みにぞんじあげます」

 腰を深く折り、堅苦しいほど丁重にあいさつする速仁だった。

 春恵は、

「まぁぁ、ほんま、優等生さんやねぇぇ」

と、ほほえんだ。

 速仁は電車のなかで桜子から、悠斗の家に着けば礼儀正しくふるまうよう、きつく言いわたされていたのだ。


 夕食を終えると、悠斗が速仁を風呂に誘った。弟ができたらいっしょに入りたいと、夢みていた悠斗だった。

 桜子が速仁に、

「それがいいわよ。水道とか、シャワーとか、操作がむずかしいから……」と、

耳打ちした。

「たかが風呂だろ? おれ、そこまで頭わるくないぞ!」

と、速仁は、春恵に聞こえないように小声で言いかえした。

 だが、いざ風呂場に入ると、悠斗に手取り足取り教えてもらわなければならなかった。

「悠にいちゃんといっしょで、おれ、よかった……」

 そうつぶやく速仁の言葉が、速仁はうれしくてならなかった。

「背中も頭も、おれが洗ってやるよ。おまえの髪の毛、長いもんな」

「うん、ありがとう」


 速仁を洗い終えた悠斗は、速仁の白い肌の左胸に、小さい平坦な赤痣(あざ)があるのに気づいた。ハート型で、ピンク色に近い。湯水に濡れて艶やかだ。

「おまえ、カッコいいアザがあるな。女の子にもてるぞ。アハハ」

「なぜもてるの……?」

 速仁はけげんな顔をしながら、

「これ、生まれつきなんだ」と、

そのアザを指で触れた。そして、

「桜ちゃんの父親の兼隆卿からは、人まえにさらさないように気をつけろと、しつこく言われている」

と、顔をしかめた。


「桜ちゃんのお父さんって、どんな人なんだ?」

 そうたずねる悠斗に、速仁は、

「こんな感じ」

と言いながら、両方の黒目を真ん中によせた。

「アハハ、それどういう意味だよ!?」

「おれ、あまり好きじゃない。――あっ、でもこれ、桜ちゃんに内緒だよ」

「ああ、わかってる。――それじゃ、もういちど、湯に入ろう!」


 タイル張りの古い浴槽だが、三人ぐらい同時に浸かれるほど大きい。悠斗と速仁はならんで座り、足を伸ばした。湯はぬるく、いつまでも入っていられそうだった。

「なあ、桜ちゃんのお母さんは、どんな人なんだ?」

 悠斗は、自分が知らない時代の、桜子のことが知りたかった。

「乳母ちゃんは、兼隆卿とちがって、やさしいし、とってもおもしろい人だよ。おれ、大好きだ。桜ちゃんは、口うるさいところをのぞけば、お母さん似だと思う。それに乳母ちゃんは、けっこう美人だしね。エヘへッ」

 速仁が言いおわると、悠斗が、浴槽のなかで体を半回転させた。そして、浴槽の(ふち)(あご)を乗せ、両手を外にたらした。

 速仁も、すぐに真似をした。

「桜ちゃんには兄弟がいるのか?」

「………」

 速仁は、すぐに答えなかった。洗い場の床を、しばらくみつめていた。

「妹姫がひとりだけいる。その子のお母さんは乳母ちゃんじゃないけれどね……」

 速仁が、ようやくボソリと返事した。そして、途切れ途切れに言葉をついだ。

「おれね、その子と……、元服の夜にね……、結婚しなきゃいけないって。――今日、父上から、そう言われた。――待ち合わせ時間に遅れたのは、父上にお会いしなければいけなかったから……」

 速仁の目が濡れている。湯水のせいだけでないことが、悠斗には、いたいようにわかった。

 ブクブクブクと音をたてて速仁が湯に潜った。


 悠斗は、長い髪を湯のなかで漂わせている速仁の頭を、だまってみまもるしかなかった。

 一分近くたった。

 さらにもう一分。

 だが、速仁は潜ったままだ。心配になり、悠斗が抱き起こそうとしたとき、ようやく速仁が頭を上げた。

「ブファァ、く、苦しいぃぃぃ。死ぬかと思った」

 そう言ったきり、速仁は、浴槽のなで膝を抱え、口を閉ざした。


 悠斗は立ちあがり、浴槽の縁に腰かけた。そして、窓に目をやりながら、速仁に話しかけた。

「おまえ、桜ちゃんが好きなんだろ?」

「………」

 しばらくして速仁がコクリとうなずき、湯をみつめたまま、問い返してきた。

「悠にいちゃんもだろ?」

「ああ、好きだ。大好きだ」

 悠斗は、すぐさま答えた。


 ふたりが口を閉ざしつづけるなか、天井から浴槽に落ちた水滴の音が、風呂場におおきく響いた。


「おれ、負けないからね」

 ようやく速仁が口を開いた。速仁は、両ひざを固く握りしめている。

「ああ、おれもだ。――でも、一宮、おれたちは仲間だからな。すくなくともおれは、おまえのことを、そう思ってるからな」

 速仁は浴槽のなかで立ちあがり、悠斗の目をまっすぐみつめ、右手を差し出した。

「うん、おれもだよ」

 そう言ってほほえむ速仁の手を、悠斗は強く握った。

 速仁が握り返してきた。悠斗は、さらに力を込めて握った。速仁が、必死の形相になり、また握り返してきた。悠斗は、負けず嫌いの速仁が、おかしくてならなかった。

「おれ、のぼせそうだ。もう出ようか」

 悠斗はそう言うと、手の力を抜いた。そして、

「おまえ、力あるな」と、

感心したような顔をした。

「そ、そうかな!? エヘッ」

 うれしそうに笑う速仁を見て、悠斗は、桜子を恋人に、速仁を弟に持てたらいいのにと、心から願った。

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