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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第6章 地蔵
63/160

6-15

 悠斗たち三人は、ようやく橋を渡りきった。霞に隠されていた広場が、三人の目に、はっきりと見えてきた。

 そして桜子の姿が、広場の中央に見てとれた。速仁が、全速で走りだす。桜子を見つけて勢いこむ速仁のうしろ姿を、悠斗はぼんやりと見送った。

 悠斗は、ふだんよりもゆっくりと歩を進めた。手を取りあって喜ぶ桜子と速仁のようすが、悠斗の目に、だんだんと大きく見えてきた。だが、薄ぼんやりしている。涙のせいだ。桜子に再会できたうれし涙なのか、弟分の速仁に恋を譲らなければならないかもしれないと思って流れた涙なのか、悠斗自身にもわからなかった。


 悠斗は右手で涙をぬぐい、笑顔を作って桜子に声をかけた。

「心配したよ」

 桜子が、信頼に満ちた笑顔を返してきた。

 悠斗は、もうなにも言えなくなった。

 ――おれ、やっぱり、友だちや兄貴のままでおわりたくない!

 悠斗は、桜子の左肩に右手を置いたまま、桜子の瞳をみつめつづけた。

 桜子の口が、小さく開いた。

「きっと助けに来てくださると、信じていました」


『ゴホン!』

 桜子のうしろに座っていた小野篁が、おおきく咳払いした。

『逢瀬の語らいは、あとでよかろう? 早くせんと、わしの法力が時間切れになるかもしれんぞ!』

 桜子は、ポーッと顔が赤くなりそうな自分を感じた。

 ――やだぁぁ! 悠斗さんに変に思われてしまう……。

 桜子は、うろたえながら、自分ひとりだけが獄卒鬼王に連れてこられた事情と、篁が紫式部からなにか品を預かっていること、そして、篁からの質問に答えれば、その品を譲り渡してもらえることを、悠斗と速仁に、口早に説明した。


「鬼王ちゃん! こちらにいらっしゃーい!」

 桜子は、悠斗たちに紹介しようと、獄卒鬼王を呼んだ。ふたりは、もうすっかり友だちになっていた。

『へーい』

と言って、鬼王が、棍棒で地面を打ち鳴らしながら現れた。名前どおり、恐ろしい鬼の形相だ。

「かわいい鬼さんでしょ!」

と、桜子が悠斗と速仁に、相づちを求めるかのように言った。

 ――どこが!?

 悠斗と速仁は、顔を見あわせた。夕霧も、桜子のうしろで肩をすくめている。

『オイラ、かわえぇですか? エヘッ、エヘッ』

 鬼王は照れて頬の筋肉をゆるめたようだったが、ますます恐ろしげな顔になった。


『ゴホン!』

 篁が、また咳払いした。

 桜子と悠斗、速仁の三人は目配せし、岩の上に座っている篁のまえに、横一列にならんだ。

 今回も、仁和寺で朱雀院が出したような、感想文程度の質問だろう。悠斗はそう考えていた。思ってることを、おちついて答えればいいんだ。楽勝かもしれない。悠斗は、二つ目の品を得て喜ぶ桜子の顔を想像し、おもわず口もとが緩んだ。

 ――兄貴を卒業するぞ!


 速仁も、はやりたっていた。

 ――今回は、おれがもらうぞ。つべこべぬかすなら、力ずくで取るまでだ!

 速仁は、横に立っている桜子の顔を盗み見し、口もとを引き締めた。

 ――幼なじみの友だちなんて、さよならしてやる!


 悠斗と速仁に挟まれて、桜子は心強かった。

 ――難しい質問でも、三人で考えれば、きっとだいじょうぶだわ。悠斗さんは、もともと物知りだし、宮ちゃんも、ここんところは、よく勉強しているみたいだもね。


 夕霧は、桜子のうしろに立ち、篁の質問を待った。だが、童直衣姿の男の子と、小袿(こうちき)を着た女性が広場の右隅にいるのが目にとまり、質問よりも、そちらの方が気になった。男の子は、女性の膝の上に、甘えるように座っている。

 ――孫姫は、わたしが知らないだれを、物語から呼びだされたのだろう? それにしても、美しい女君だなぁぁ。童も、清らで賢そうだ。

 だが、その子がピースサインをして笑顔をむけてきたので、夕霧は仰天した。

 ――ち、父上だ! ……しかし、あいかわらず、けしからん人だ! あんな幼いなりして、女人と見れば、見境ないのだから……。こちらが恥ずかしくなる。


 見知らぬ女君のまえで親子の名乗りをあげるのはよそう。夕霧が心にそう誓ったとき、篁が、おもむろに口を開いた。

『心の準備はよいかな?』

「はい、いつでも」

 桜子と悠斗が声をそろえて返答し、速仁は、いまにも殴りかからんばかりに右拳を握りしめた。

 篁は、源氏物語五四帖を、脇の小櫃から出して目のまえに積んだ。

『これは、菅原孝標(すがわらのたかすえ)(むすめ)君が、亡くなる前年に、珍皇寺に寄進してくれたものだ』

 桜子と速仁には、心当たりのない名前だった。だが、悠斗には、高校生時代からなじみのある人名だ。古文の授業で習った更級(さらしな)日記の作者である。紫式部の時代からおよそ半世紀後に生きた人物だ。悠斗は口もとをゆるめた。

 ――こりゃぁ、やっぱり楽勝だ。孝標の女がどういう気持で源氏物語を読んだのかにひっかけ、読書感想を聞いてくるにちがいない。

 悠斗の頭に、更級日記の一文が浮かんだ――〈源氏を、一の巻よりして、人も交じらず、几帳のうちにうち臥して、引き()でつつ見るここち、(きさき)の位もなににかはせむ〉


『孝標の女君は、源氏の物語を、なんども読んだのであろう。いたるところ、紙の縁が擦りきれておる』

 篁は、紙をめくりながら話しつづけた。

『わしも読ませてもらった。愉しめる物語だ。そなたたち三人も、それなりに読んだのだろう。――だが』

と言って、篁は顔を上げた。

『この物語を深く愉しむに必要な学識を、身につけておるのかな?』


 速仁は、眉をつり上げた。

 ――このオッサン、なにが言いたいのだ!? 物語を楽しく読むのに、学識なんか、いらないだろうが! 難しいこと言いやがって……。だ・か・ら、勉強ができるヤツは嫌いなんだ!

 小野篁が学識と才知に優れた人間であることを、速仁は、惟清から聞いたことがある。〈子〉の字が十二個連続している難解な漢文を、篁は〈ネコノコノ コネコ シシノコノ コジシ〉と読解したらしい。

 その話しを聞いたとき、速仁は、

「そんなの、読めても読めなくても、どうでもいいんじゃないの」と、

惟清に言ったのだ。一年まえのことだった。


 悠斗は、学識という言葉が篁の口から出たとたん、ギクっとした。

 ――ちょっと、まずそうな感じ……。

 篁が問おうとしていることは、たんなる感想ではなさそうだ。悠斗は、それにようやく気がついた。


『源氏の物語を、どのような心根で愛し、常日頃どれだけ親しんでいるのか。仁和寺では朱雀院さまが、そのことを確かめられたようだな。だからわしは、それとは異なることをたずねよう。――源氏の物語には、和歌などからの引歌が、たくさんある。全部でいくつあるか、知っておるか?』

 篁の質問に、桜子たち三人は顔を見あわせた。悠斗と速仁はもちろんのこと、桜子もわからない。桜子は、源氏物語中の和歌の数は知っていても、引歌の数まで気にとめたことがない。

『二一〇八だ。といっても、これはわしが分るかぎりでの数だ。実際には、もっと多いかもしれんな』

 篁はそう言うと、引歌の知識を持つことの重要さを、三人に説きはじめた。――

 作者は、自分の韻文や散文のなかに他人の詩歌を、一部を引用、あるいは全体を改変して取り入れる。もとの詩歌の意味や、それが詠まれた状況を読者に想起させることで、表現の重層化を図るのだ。読者側からすれば、和歌や漢詩文についてどれほどの学識を持っているか、その程度に応じて、読みの深浅が決まることになる。

『読みが深ければ深いほど、物語を愉しめるであろう? そうは思わんか?』

 篁の問いかけに、桜子と悠斗は、しずかにうなずきを返した。

 だが、速仁は眉間に皺をよせている。

 ――うーん、おれ、よくわからん。〈そうき〉とか〈じゅうそうか〉とか、どういう意味だ? 難しい言葉を使いやがって……。やっぱり、勉強ができるヤツは嫌いだ! 


 篁は、目のまえの冊子の山から、〈夕顔〉帖を取り出した。

『この帖に、夕顔の女君を荒れ屋敷に連れ出した光る君のようすが、こんなふうに書かれている――〈まだ知らぬことなる御旅寝(たびね)に、息長川(おきなががは)、と契りたまふことよりほかのことなし〉。光る君にとっては、宮中でも自邸でもない、通っている女君たちの屋敷でもない、そのようなところで夜をすごすのは、これが初めての経験だったらしい。それゆえ感情が高ぶり、勢いにまかせ、夕顔の女君に固く約束したのだろう。だが、なにを約束したのか。式部殿は、〈息長川〉としか書かれなかった。引歌は、〈にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ (こと)尽きめやも〉という、万葉集に収められているものだ。光る君は夕顔の女君に、なくなりそうにない川の流れ以上の、永遠とも言える男女の仲を約束したことになる。引歌を熟知していてこそ、物語の情感を愉しめるというものだろ? ――それで質問はだ……』

 篁は一息つき、桜子たち三人の顔を順番に見やった。


 篁の説明を、悠斗は、まばたきもせず聴いていた。源氏物語の表現技法の巧みさに、あらためて感じいったのだ。この巧みさを味わえる読み手になりたいと、心の底から思った。それに、そういう読み手であれば、篁から、源氏物語の新帖につながる第二の品を譲ってもらえる。だが、いまの自分の知識では……。

 ――たぶん、無理だ。おれ、質問に答えられないよ……。桜ちゃんをガッカリさせちまうな。恋人どころか、兄貴のポジションも危うい……。

 悠斗は、まったく自信がなくなった。篁の、射抜くような視線にも、まともに目を合わせられない。天井を仰いだ。と、そのときだ。

 悠斗は左手に、温かい人肌を感じた。おもわず横を見ると、桜子がほほえみをむけていた。

「いっしょに考えてくださいね」

 悠斗は無言でおおきくうなずき、手を握りかえした。


 ――なんだよ、桜ちゃんは! 悠斗と手をつないじゃって!

 桜子と悠斗が手を握りあっているのを、速仁は、目ざとく見つけた。

 ――うぅぅぅ、二つ目の品は、絶対におれが腕ずくで取ってやる!

 速仁は、篁をにらみ返した。と、そのとき、速仁も、右の握り拳に桜子の温かい手のひらを感じた。グッと、強く握ってくれている。

「宮ちゃん、わたしたち、仲間だよね。いっしょに考えようね。考えてくれるよね」

 そう話しかける桜子に、速仁も、おおきくうなずいた。

 ――でも、頭を使うのは桜ちゃんと悠斗に任せる。おれの出番は、そのあとだ!


『ゴホン!』

 篁は、咳払いしたあと、話しをついだ。

『光る君と夕顔の女君は、おたがいに名を伏せたまま、逢瀬を重ねる。だが、荒れ屋敷で一夜をすごしたあと、光る君は、自身の素性を明かした。そうしたくなるほど、愛おしさが募ったのだろう。そして、夕顔の女君にも、名を教えて欲しいと口説いた。だが、女君は(がえ)んじなかった。そのあたりのことを、式部殿は、つぎのように書いておられる――〈いまだに名のりしたまへ。いとむくつけしとのたまへど、あまの子なればとて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり〉。もちろん、ここにも引歌がある』

 篁が読みあげた一文を聞いて、悠斗は、もうダメだと覚悟した。意味のわからない古語が含まれているのだ。引歌がどこにあるのかも、まるで見当がつかなかった。

『この引歌には、女君の境遇が巧妙に示唆されている。そのおもしろさを、そなたたちの口から聞いてみたいものだ。いかがかな?』

 篁は、あらためて三人の顔を順番にみつめた。


「引歌は、〈あまのこなれば〉、なんじゃないか?」

 速仁は、そう言いながら、桜子の目をうかがった。

 桜子は速仁にうなずき返した。

 悠斗が、

 ――一宮は、なんだかんだと言っても、おれよりは和歌に強いんだろうなぁぁ、

と、速仁をみなをしたとき、その速仁は独り言のようにちいさくつぶやいた

「夕顔って、尼さんの子どもだったんだ。ふーん、そうか……」


 桜子が、

「〈白波の 寄する渚に ()を過ぐす 海人の子なれば 宿もさだめず〉――本歌は、この歌なのだと思います。和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)に収められている歌です」と、

篁の目をまっすぐみつめながら、自信ありげに返答した。

『そうだと、わしも思う』

 篁はそう言ったあと、無表情なままで言葉をついだ。

「それで、どうなのだ? どこがおもしろいのかと、わしはたずねているのだがな……」


 桜子はうろたえた。万葉集から和漢朗詠集まで、桜子はたくさんの和歌を知っている。だが、貴族の子女に必要なたしなみとして、作者の名と歌詞を、ただたんに暗記しているだけなのだ。それぞれの和歌の深い意味など、考えようと思ったことさえない。

 速仁も、桜子に輪をかけて、和歌に織りこまれている意味には(うと)かった。

 ――尼さんじゃなくて、海人だったんだ! 勘違いしたこと、桜ちゃんに知られなくて、よかったぁぁ。

 速仁は目をソッと地面に落とした。


 桜子は、手を強く握りながら悠斗に顔をむけた。篁への応答を頼む顔つきだ。

 悠斗は、荒れ屋敷での光源氏と夕顔の女君との逢瀬の場面を、マンガや現代語訳本のなかでどのように描かれていたか、必死に思いだそうとしていた。だが、篁が口にした原文の意味が、どうしても推し量れなかった。

 知ったかぶりをする場合ではないと、ようやく悠斗は腹をくくった。悠斗は、桜子にむかってたずねた。

「〈あいだれたり〉って、どういう意味なのか、教えてくれる?」

「えっ!? そ、それは……」

 桜子は気恥ずかしかった。男性に甘える、女性の媚態(びたい)を表す言葉なのだ。そんな言葉に通じていることを、悠斗に知られたくなかった。

 桜子が言いよどんでいると、速仁が桜子に、不思議そうな顔で話しかけた。

「それって、デレデレすることだろ? おれより桜ちゃんの方が、いろいろな言葉を知っているはずなのに、どうしたんだ? ――い、痛ぁぁ! なんで蹴るんだよ!」

「ちょっと足が当たっただけじゃない。宮ちゃんは、大げさなんだから……」

と言いながら、桜子は速仁に目配せした。

「なんだよ? わけわかんない」と、

速仁は頬を膨らませた。


『ゴホン!』

 篁が、謹厳な顔で、今日なんどめかの咳払いをした。悠斗は、あらためて篁をまっすぐみつめ、口を開いた。

「平安時代の昔、多くの漁師は浜から浜へ、貝や海藻、それに魚を求めて移動していたと、大学の講義で聴いたことがあります。そうだとしたら、漁師の娘である〈海人の子〉も、住居が定まらなかったのだと思います。夕顔は、自分の境遇をそれにたとえた、ということですよね。実際にも、当時の夕顔は、住まいを転々としなければならない状況に置かれていた、と思います。以前は、父親が遺した屋敷に住み、そこに頭中将が通っていた。ふたりのあいだには、女の子もできた。この子が、のちに玉鬘と呼ばれる人ですよね。でも、頭中将の正室が嫉妬にかられてしまう。正室の実家である右大臣家から脅され、夕顔は、西の京にあった、乳母の家に身をよせた。そして、山里に住まいを求めることになり、方違(かたたが)えのために、乳母の娘の留守宅である五条の家に移る。その家に仮住まいしていたとき、夕顔は光源氏と出会ったんでしたよね」

 篁は、めずらしく、口もとをかすかにゆるめて聞いていた。

「夕顔の、こういう境遇が光源氏と読者に同時に明かされるのは、夕顔が死んでからの、〈夕顔〉帖のおわりの方だったと思います。だから、夕顔が〈海人の子〉と口にしたときは、夕顔が本当に〈宿もさだめず〉の状況にあったことを、光源氏も読者もわからない。〈あいだれたり〉という言葉がはさまれているせいで、夕顔のかわいらしげなふるまいばかりが印象につよくのこる。読者は、住まいがさだまらない夕顔の境遇をあとで知ったとき、この引歌を思い返し、桜ちゃんのお祖母さんが周到に伏線を張ったことに、ハッと気づくのだと思います。物語を読む楽しさのひとつは、作者の、こういう知的な仕掛けを味わうことなんじゃないかと、おれは思います」

 篁は、ますます口もとをゆるめた。

 悠斗は、桜子の右手をあらためてやさしく握り、ゆっくりと言葉をついだ。

「おれ、源氏物語について、深い学識を持ってないです。さっきの引歌も、〈あいだれたり〉という古語の意味も、わからなかった。仲間に助けてもらって、やっとわかっただけです。でも、引歌が重要だということは、今日、よくわかりました。〈おき長川〉についてのお話は、とても勉強になりました。それに、〈海人の子なれば〉のことも、自分の頭のなかで考えているあいだ、なんというか、楽しい気分でいられました。物語を読む楽しさを味わえた気がします。――おれたち三人、これからも勉強をつづけます。だから、桜ちゃんのお祖母さんから預かられた品を、どうか、お譲りください! お願いします」

 悠斗は、勢いよく辞儀をした。桜子も、

「お願いいたします」と、

悠斗と声を重ね頭をたれた。

 だが、速仁は直立不動のままだ。左手で拳をつくり、篁のようすをうかがっている。

 ――つべこべぬかしたら、今度は、おれの出番だからな!


『よかろう! ぎりぎり合格といったところかな……』

 篁はそう言うと、速仁を一瞥して言葉をついだ。

『まだ勉強不足の者がいるようだが、悠斗くんの学識と熱意に免じて、了としよう。――それにしても、わしを護っている鬼王を腕力で倒せるとでも思っているのかな? カッハハ、カッハハ』

 速仁は、ビクッとした。

 すると桜子が、速仁に顔をむけ、とがめ立てするように声をかけた。

「腕力だけじゃなく、悠斗さんをみならって、頭も鍛えなさいよ。――それから、篁さまに、しっかりお礼を言いなさい!」

「へいへい」

と言って、速仁は篁に小さく辞儀をした。

 ――おれだって、どこが引歌なのかは、わかっていたんだぞ……。海人とは思わなかったけれど……。

 ふてくされる速仁に、悠斗が声をかけた。

「ありがとな、一宮。おまえのおかげで、引歌の場所や、古語の意味がわかったよ」

「う、うん」

 速仁は、照れながら素直にうなずき返した。


『ゴホ!』

 篁は、か細く咳払いすると、鬼王に無言で指図した。

 鬼王は、

『ヘイ!』

と力強く答え、岩壁へむけて歩きだした。

 そこには、一抱えもある大きな金塊が突き出ている。鬼王は、その金塊を、渾身の力で引き抜いた。空洞が現れ、そのなかにあった平らな手箱を、鬼王は篁のまえに運んだ。


『これが、式部殿からの預かり物だ』

 篁が手箱のふたをとると、なかから古式な銅鏡が現れた。

『式部殿が仁和寺で朱雀院さまに託された横笛と同じように、この鏡も、家宝として伝来してきたものだそうだ。見覚えはあるか?』

 問われた桜子は、頭を縦に振った。桜子が幼いとき、短い髪を式部に()いてもらっていたおりの鏡だった。

『手にとってみなさい』


 桜子は、両手で鏡を手箱から取り出し、顔をそれに映した。式部に髪の手入れをしてもらっていた時分より、すこしおとなびた顔がそこにあった。そして、桜子の脳裏に、式部の顔がありありと浮かんだ。

「祖母は、これを篁さまに奉納したとき、新帖のありかについて、なにか言っておらなかったでしょうか?」

 篁は、ちからなく頭を横に振った。

『なにも……。そろそろ、法力が切れそうだ。その鏡を持って、早くここを去りなさい。近道の出口まで、鬼王に案内させよう。ゴホ、ゴホ……』

 篁は苦しそうに咳きこみはじめた。

『わしの法力が切れると、冥界のすべての出口が閉ざされる。一年後の〈六道まいり〉の時期まで、そなたたちも冥界から出られなくなるぞ!』


『そ、そ、そんなぁぁ!』

 叫び声をあげたのは、夕霧だった。

『は、早くもどりましょう!』

 夕霧は、せっぱつまった顔で、桜子たちをうながした。

 と、そのときだ。天井から、こまかな鉱石が崩れ落ちだした。篁の姿も、虚空に消えはじめた。

 桜子は、篁にあらためて一礼した。そして、桜子が顔を上げたとき、篁の霊魂は、銀色の光の玉となって目のまえを漂っていた。

 落下する鉱石の数が増え、大きさも、人のこぶし大になってきた。


『こっちでごわす!』

 鬼王が、棍棒で岩壁をたたき割った。小さな隧道が現れ、なかは、金塊と銀塊が燐光石で明るく輝いている。

 桜子たちは、隧道の入口へ急いだ。桐壷の更衣と、三歳の光源氏も、いそいでかけよってきた。桜子は、ふたりを物語から呼びだした事情を、悠斗たちに手早く説明した。

 すると、光源氏が、ピースサインを悠斗にむけてきた。悠斗は、おもわず白い歯をこぼした。

 ――光る君には、小さい姿で来てもらうはずだったのに……。小さくじゃなくて、小さい子どもで呼びだすなんて、桜ちゃん、おもしろすぎ、ククク。

 悠斗は、笑い声を押し殺しながら、

「それじゃ、鬼王さんについて行こう! おれが、いちばんうしろを行く」

と、みなを隧道のなかへ導こうとした。すると、

『オンブちて!』

という甘えた声が、背中越しに聞こえた。ふり返ると、光源氏が、両腕を上方に伸ばし、夕霧にせがんでいた。物言いも、わざとのように舌足らずだ。

『親孝行、ちたいときには親はなち』

 光源氏は、ニッコリ顔を夕霧にむけていた。


 夕霧は、苦虫を噛みつぶしたような顔でしゃがみ、光源氏を背中におぶった。そして、天井の低い隧道に足を踏みいれた。そのとたん、夕霧の顔が、ますますゆがんだ。まえ屈みになると、こっぴどく速仁にたたかれた背中が痛むのだ。

 ――トホホ、わたしは、いっつも損な役まわりだ……。


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