6-13
桜子は、地中に引きずりこまれた直後に気をうしない、地下深くへ伸びている巨大な洞穴のなかで、鬼の右肩に担がれていた。上半身裸のその鬼は、左手に握りしめた棍棒で、ドスン、ドスンと地面を打ちつけながら洞穴を下っていく。岩肌から発せられる淡い燐光のなか、ボーッと浮かびあがるその体は、石炭のように黒い。
ほどなくして鬼は、天井の高い、たいらかな広場に足を踏みいれた。岩壁には、燐光石のほかに、さまざまな鉱石が露出している。鉄鉱に、金鉱、銀鉱、さらに銅鉱、……。金属を産み出す、あらゆる鉱石が、モザイク状に岩肌を覆っていた。
鬼は広場の中央まで来ると、肩にのせていた桜子の体を、ドサッと地面に落とした。
すると、
『鬼王よ、生きておる者をそのように手荒にあつかうではない!』
おもおもしく低い男の声が、薄暗い岩窟中に響きわたった。
年の頃五十ほどのその男は、広場の中央にあって地面から一段高い岩石の上に、衣冠束帯姿で座っている。
鬼王は片ひざをつき、しおらしく辞儀をした。
『シタイしか、はこんだことがないもんで……、もうしわけねえでごわす、タカムラさま』
地獄の刑吏である獄卒鬼王にかしずかれている男は、小野篁だ。人界では嵯峨天皇に仕えた公卿で、紫式部が生まれた頃には、すでに肉体は朽ちていた。しかし、生前から、夜は冥界で閻魔大王に仕えて死者を裁く手伝いをしていた、という妖力の持ち主で、死後も霊魂が、人びとの畏敬を集め、その力を保持しているのだ。六道珍皇寺には、いまも、篁と閻魔大王をならべて祀る閻魔・篁堂が、薬師堂の北隣に建っている。
『その娘で、まちがいないのだな』
篁がおもむろにたずねると、鬼王はおおきくうなずいた。
『へい。おいらがチンノウジでみはっておったら、このムスメはんのネンリキで、ユウギリとかいうカタシロがあらわれたでごわす』
『そうか、式部殿の力を受け継いだ者が、仁和寺につづいて、珍皇寺にも現れたわけだ。カッハハ、カッハハ』
篁は、奇妙な声で笑った。だが、声だけの、無表情な笑いだ。そして、ひとしきり笑うと、桜子にヨロヨロと近づき、その左ほほを軽くたたいた。
桜子は、両目をゆっくりと開けた。
「キャー!」
叫ばずにはおられなかった。すぐ目のまえに、見知らぬ男の顔があるのだ。
『怖がらなくてもよい。そなたは、紫式部殿の孫娘であろう?』
桜子は、おそるおそる小さくうなずいた。
『わしは参議の篁だ』
「タカムラさま?……〈わたのはら 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟〉とお詠みになった、あの篁さまでしょうか?」
『まぁ、そうじゃ。隠岐へ遠流になったときの、つらい思いを詠んだものだがな』
「えっ!? あの歌は、そういうものだったのですか! 失礼いたしました」
桜子は、おもわず両手で口をふさぎ、篁の顔をうかがった。
だが、篁は無表情だ。顔からは、なにを考えているのか、まったく読みとれない。
身を縮めるようにしてかしこまっている桜子に、篁は、ゆっくりと、ふたたび口を開いた。
『源氏の新帖を探しに来たのであろう?』
桜子は目を輝かせてうなずいた。
『あれは、そう、千年以上の昔になる。式部殿が珍皇寺に参詣され、わしを祀っている御堂に入って来られた。そして、源氏の物語から桐壺の更衣殿を呼び出され、物語を書くにあたって石山観音から格別の力を授かっていたことを明かされた』
篁は両目を閉じ、遠い昔を思いおこしているようだった。そして、ゆっくりと目を開け、話しをつづけた。
『源氏の物語を深く愉しむ力を備えた者が、いつの日か、新帖を探し求めて珍皇寺に現れれば、その人物に譲ってくれと、ある品を奉納された』
桜子の胸のなかに、希望の明かりがおおきく灯った。
篁は、あいかわらず無表情なものの、桜子の瞳をジッとにらみ、言葉をついだ。
『そなたは、そのような力を持っておるのかな? それを試そうと思い、そなたをここに迎えるために、鬼王を遣わしたのだ。だが、手荒なヤツでな、もうしわけなかった。許せ』
「はい」
桜子はうなずいたあと、ためらいがちにたずねた。
「あのぉぉ、わたしが源氏の新帖を探していることを、篁さまは、どうしておわかりになったのでしょうか?」
『それはな、そなたが仁和寺で朱雀院さまから横笛を渡されたことを、ここに居ながらも地獄耳で聞いておったからだ』
「!?………」
『そなたが、式部殿と同じように、物語の形代を操る力を持っていることも、この耳で聞いた。カッハハ、カッハハ』
桜子は、ハッとした。その奇妙な笑い声に聞き覚えがあった。仁和寺の参道で、地中から聞こえてきた声だ。
『生前のわしは、毎夜、珍皇寺の井戸から冥界に入り、嵯峨野の福生寺にあった井戸を通って冥界から抜け出たものだった。鳥辺野から嵯峨野まで、京の町の地下には、長大な洞穴が横たわっているのだ。仁和寺は、ちょうど、その洞穴の上にある。明治の世に福生寺は廃寺となり、その寺の井戸もうしなわれた。わしは、出るに出られず冥界に閉じこめられている、というわけだ。だが、冥界から出られなくとも、洞穴のすぐ上で起こっていることであれば、法力で聞き知ることができる』
篁の説明に、桜子はようやく合点がいった。だがそれでも、心細さは変わりなかった。なにせ、ここは冥界なのだ。
「わたしには、新帖探しを手伝ってくれている仲間がふたりおります。なぜわたしだけを、ここにお連れになったのでしょうか?」
『それはな、珍皇寺に参詣者があふれる〈六道まいり〉の時期をすぎると、わしの法力はしだいに弱くなってしまうからだ。死者ならともかくも、生者を冥界に迎えるのは、たいへん厄介なことでな、今日は、もうそなたしか連れてこられなかった。だが、他のふたりも、新帖を求める気持が真に強ければ、そなたを捜そうとして、ここにたどりつくだろう。ひとりは、そなたにとっての、だいじな白露の君であったな。――〈心あてに それかとぞ見る 白露の……〉、カッハハ、カッハハ』
桜子は顔を赤らめた。
篁が吟じた和歌は、光源氏と夕顔の恋物語である〈夕顔〉帖の冒頭で詠われるものだ。桜子が仁和寺の境内で、悠斗の横顔を見ながら心に想い浮かべた歌でもある。悠斗によせた桜子の想いは、篁に筒抜けだったのだ。
『五日まえは、〈六道まいり〉がおわって間もなくのことであったから、仁和寺から遠く離れたここに居ても、そなたの心の中の想いまで聞くことができた。カッハハ、カッハハ』
篁は笑い終えると、かたわらに置かれている小櫃に目をやり、言葉をついだ。
『三人がそろえば、そなたたちが新帖を読むに値する者であるかどうかを、試してみよう』
そして、口の端をかすかにゆるめ、桜子にむきなおった。
『そなたが式部殿の力を継いでいることは、耳で知った。だが、この目で見たわけではない。そなたの力を、わしの目のまえで示してくれまいか? 神仏界も、人界と同じく噂好きでな、よい話しの種になる』
桜子はうなずき、静かに目を閉じた。
――でも、どなたをお呼びすればよいかなぁぁ?
しばらくして、篁の目のまえに、桐壷の更衣が、つづいて光源氏が現れた。
『あっ、ひかる、あなたですね!? 会いたかった!』
更衣は、光源氏を両腕でギュッと抱きしめた。
『ははうえ、ボ、ボク、ぐるしいです……』
三歳の、小さななりの光源氏だった。




