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桜子と速仁、悠斗の三人は、清水寺の門前から、坂道の清水道をまっすぐ西へ下り、現世と冥界の境界だとされる〈六道の辻〉へむかっていた。東山のひとつである阿弥陀ヶ峰と鴨川との中間にあって、葬送地である鳥辺野の入口に位置しているために、このように言い伝えられている場所だ。
〈六道の辻〉から鳥辺野にかけての一帯は、飛鳥時代の昔から愛宕ともよばれ、その名を冠した郡の一部だった。平安京への遷都と相前後して愛宕寺が創建され、公卿たち上級貴族らの葬儀の多くはここでおこなわれた、と考えられている。
源氏物語冒頭の〈桐壷〉帖において、光源氏の母である桐壷の更衣の葬儀が、愛宕寺で厳粛にとりおこなわれたと書かれている――〈おたぎといふところに、いといかめしう、その作法したる〉。光源氏は、数え年三歳で、母を亡くしたのだった。
愛宕寺は現存しない。だが、藤原道長の日記である御堂関白記のなかで、清水寺とならんで珎光という名の寺が言及されており、これが愛宕寺の後身だと考えられている。そして、この珎光寺が、現在の六道珍皇寺だと推定されている。
この数日でここまで調べあげた悠斗は、桜子と速仁を連れ、この六道珍皇寺をめざしていた。
六道珍皇寺のすぐ西方には、六波羅蜜寺という古刹もある。源氏物語が書かれた頃からさかのぼること約半世紀まえに、空也上人が創建した寺である。たいていの高等学校用日本史教科書には、この寺の、空也上人像の図版が掲載されている。南無阿弥陀仏の念仏を唱えると、その一音一音が阿弥陀仏になったという言い伝えを表した立像だ。悠斗も、大学に入学してすぐの春四月に、この像を実際に見たくて六波羅蜜寺を訪れた。
だが、そのときは、六道珍皇寺の存在さえ気づかなかった。盂蘭盆期間中の八月七日から四日間おこなわれる〈六道まいり〉には、門前の松原通りに列ができるほど、大勢の参拝者がつめかける。だが、ふだんの門前や境内は、いたって閑静なのだ。
桜子たち三人が六道珍皇寺の境内に足を踏み入れたときも、人影はまったくなかった。
手水鉢で三人が手と口をすすぎ終えると、速仁が、
「今日は、光るじいさんを呼びださないのか?」
と、桜子にたずねた。
桜子と悠斗は、顔を見あわせた。そして桜子が、
「悠斗さんと相談して、光る君さまをお呼びするのは、すこし控えることにしたの」
と、答えた。
「おれはその方がうれしいけれど……。光るじいさんは、おれのこと『おい少年』なんて言ってバカにするし……、でも、どうして?」
さらにたずねる速仁に、悠斗が桜子に代わって答えた。
「光る君は、自分に都合のいいように言いつくろうところがあるだろ。その点、夕霧さんは頼りになる。それで、夕霧さんには来てもらうんだけど、あの親子はけんかが絶えないから、光る君を呼ぶのは止めておこうと、桜ちゃんと相談して決めたんだ。――でも、なにか重大なことがおきたら、光る君には小さな姿で来てもらうつもりだ」
速仁は、
「ふーん。でもおれ、会ったことないけれど、夕霧の君も苦手だな。あの人、秀才なんだろ? つきあいにくそう……」
と、肩をすくめた。
だが、桜子は速仁の言い分に取りあわない。
「いまから夕霧さまを、お呼び出ししますね」
桜子は悠斗にそう話しかけたあと、桜子は速仁にむきなおって言葉をつづけた。
「宮ちゃんは、この世界にいるあいだも、夕霧さまと悠斗さんに勉強をみてもらえばいいのよ。そうすれば、わたしたちといっしょにいられる時間が長くなるのじゃない?」
「うーん、そりゃそうだけれど……。おれ、いまでも目一杯だぞ。これ以上勉強したら、頭がおかしくなるかも」
と言ったあとで、速仁は両方の黒目を真ん中によせた。
「なによそれ、また変な顔をして! ふふふ」
桜子と速仁は笑いあっていたが、悠斗は、べつのことが心に重くのしかかっていた。千年昔の世界にいるかもしれない、桜子の許婚のことだ。地主神社を出てから、ずっと気になってしかたなかった。
――どんなヤツなんだろう? 頭のいい、若い学者だろうか?……。
『大学の君!』
うしろから声をかけられ、悠斗はハッとしてふり返った。
桜子に呼びだされた夕霧が立っていた。雲居雁と結婚して数年後、右大将の位にある二十歳すぎの夕霧だった。
「すみません、おれ、ボーッとしてて。――また、よろしくお願いします」
悠斗はていねいに頭を下げた。
夕霧は、
『今日は父上をお呼びにならなかったのですね』と、
うれしそうな顔だ。そして、初対面の速仁にむかって、無言で小さく頭をたれた。
だが、速仁はあいさつを返さず、黙りこんでいる。桜子が信頼にあふれた顔で夕霧を見ているのが、速仁には気にくわなかった。
――どうして夕霧の君や悠斗には、そんな顔をするんだよ!
桜子は、
「宮ちゃん、しっかりあいさつしなさいよ。もうすぐ元服なんでしょ!」
と、速仁を叱った。だがそれでも、速仁は口をとがらせ知らんぷりだ。
「もう、宮ちゃんたら!」
しかたなく桜子は、速仁が時空を超えてきた事情を、速仁に代わって夕霧に伝えた。
『そうですか、助太刀は、多い方がよろしいでしょう』
夕霧は、四人のなかの最年長者であることがうれしく、おうような態度でうなずいた。そして、
『それでは、ご本尊さまたちに祈願いたしましょう。ですが、どの御堂でしょうか?』
と、あたりを見わたした。
六道珍皇寺の境内には、本堂の他にも数棟の仏堂が、ところ狭しとならんでいる。
「桜ちゃんのお祖母さんが祈願されたとしたら、その仏像は、薬師堂に収められているようです」
悠斗が、この数日で調べた知識を披瀝した。薬師堂には、薬師如来像にくわえて、脇侍の毘沙門天と地蔵菩薩が安置されており、三体とも、平安時代の作だと言い伝えられているのだ。
桜子たちは、薬師堂へむかって歩きだした。
すると、とつじょ地面が波打ちはじめた。立っていられないほどの激しさだ。桜子と悠斗、速仁の三人は、その場にしゃがみこみ、夕霧は尻餅をついた。
地表の砂と小石が、桜子たちを中心にして渦を巻きだした。悠斗は桜子の肩を抱いた。速仁も、桜子を守ろうと、背中に手を伸ばそうとした。
と、そのとき、
「キャー!」
という桜子の悲鳴が、境内に響きわたった。
桜子の足下の地面から、ゴツゴツした黒い右腕が一本、まっすぐ突き出され、人間のようなその腕が、桜子の右足首をムズッとつかんだのだ。腕は、桜子を地中に引きずりこもうとしている。
悠斗と速仁は、いっきに膝まで土に埋まってしまった桜子を、懸命に助けあげようとした。夕霧も、尻餅をついたまま、桜子の上着をつかんだ。だが、砂と小石の渦は、勢いを増す一方だ。桜子の体は、蟻地獄のような、すり鉢状の渦の中心に引きこまれていく。
悠斗たち三人が力を合わせても、どうしようもなかった。地面の波動がおさまったとき、桜子の姿は地上からすっかり消えていた。
取り残された悠斗たち三人は、四つんばいになったまま、地面を見つづけた。速仁と夕霧は呆然自失のていだ。だが悠斗は、混乱する頭で懸命に考えていた。――
あれは、光る君が言っていた物の怪にちがいない。源氏物語の新帖が世に出ることを嫌ってる物の怪だ。だとすれば、やはり六道珍皇寺に、新帖の秘密が隠されてるのではないだろうか。おれたちが真相に近づいたからこそ、物の怪が現れたにちがいない。紫式部は、この寺の仏たちに祈願したのだ!――
悠斗は、物の怪の出現に、背筋も凍る思いだった。だが、まなじりを決して立ちあがると、ひとり、薬師堂へむかった。
薬師堂の鉄扉は、かたく閉まっていた。だが、それにかまわず、悠斗は堂前で手を合わせて頭をたれた。
――紫式部の孫娘である桜ちゃんを、物の怪から守ってください! おれが身代わりになります。そして、桜ちゃんに、源氏物語の新帖の手がかりを与えてください!
祈りつづける悠斗に、速仁と夕霧が近づいてきた。
「おれたち、どうしよう?……」と、
涙目の速仁が、悠斗の背中に声をかけた。
と、そのときだ。あたり一面が、金色と銀色の光につつまれた。仁和寺で増長天が現れたときと同じように、悠斗たちを取りまく建物や木が、すべて粉々になって消えうせた。金色に輝く三体の仏像だけが、悠斗たちの目のまえにあった。本尊の薬師如来と、その両脇侍だ。
悠斗は、叫ぶように大声をあげた。
「桜ちゃんを助けてください!」
すると、脇侍の地蔵菩薩像が、右手に握りしめている錫杖をサッと振りあげた。そして、その切っ先を地面に勢いよく突き刺した。
人ひとりが通れるほどの、急傾斜な石階段の穴が、みるみるうちに地表に生まれた。地の底深くつづいているようだった。
『ここを通り、式部殿の孫姫を探しなさい。源氏の新帖の手がかりも、そこで見つけられるでしょう』
地蔵菩薩の、おごそかだがやさしげな声だった。
「ありがとうございます!」
と言ったあと、速仁がまっさきに穴に跳びこんだ。
悠斗も、深く辞儀をして後につづいた。
だが、夕霧は、
『あのぉぉ、この穴はどこへつづいているのでしょうか?』と、
おそるおそる地蔵にたずねた。
『ここは冥土の入口ですから、穴の先のひとつは、もちろん、地獄です』
と、さも当然といった顔で地蔵は答えた。
――ヒェェェ、じ、地獄!
夕霧は、顔をひきつらせ、まっ青になった。
――やはりわたしは、父上とちがって、どこまでも損な役まわりだ……、
と嘆きながら、夕霧も、地蔵に一礼したあと、トボトボと穴へむかった。
『早く行かないと、ふたりとはぐれますよ』
という地蔵の言葉に、夕霧の歩みが急に早くなった。




