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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第6章 地蔵
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6-10

 円山公園でのランチのあと、悠斗が桜子に歴史ガイドをしながら、ふたりは清水寺へむかった。西行(さいぎょう)法師の仏道修行地に建つ西行庵、そして石川五右衛門の墓がある大雲院に、豊臣秀吉の正室おねが晩年に住んだ高台院……。

 悠斗は西行庵のまえで、〈願わくは 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ〉と口にした。そして、

「この和歌は、このあたりの桜を見ながら詠んだそうだよ。平安時代の末の頃のお話し」

と、桜子に教えた。

 桜子は、悠斗が高校時代に使っていた日本史教科書を読みはじめていたので、悠斗の話しが半分ぐらいは理解できた。だが、興味深かったのは、歴史そのものというよりは、悠斗の話しぶりだった。とても熱く語るのだ。

「悠斗さんは、歴史をよくごぞんじですね。わたしは、祖母から少し教えてもらっただけだから……」

「桜ちゃんのお祖母さんは、たしか〈日本紀の御局(おつぼね)〉とよばれるぐらい、歴史にも造詣(ぞうけい)が深い人だったよな」

「はい。でも、祖母の話しは難しくて……」

「それはきっと、桜ちゃんがまだ幼かったからだよ」

「そうかもしれないです。でも、悠斗さんから教えてもらう方が、楽しいな。話しが上手だから……。大学で勉強をつづけて、いつかは大学の先生になられるのですか?」

「うーん、おれ、文学とか歴史とか好きだけど……」

 桜子といっしょに生きることができるかもしれない、このさきの世界。でも、自分はそこで、どんな仕事をしたいのだろうか……。悠斗が将来の生き方をばくぜんと考えはじめたとき、ふたりは清水寺の仁王門前にもう着いていた。


「桜ちゃんは、清水寺に来たことがある?」

 門を見あげながらそうたずねる悠斗に、桜子はかぶりをふった。

「来たことがあるのかもしれませんが、この門には見覚えがないです」

「そうだよな。いまの清水寺の建物は、たいていが、室町時代か江戸時代のものらしいから」

 だが、本堂から張り出した〈清水の舞台〉に足を踏みいれるや、

「あっ、ここに来たことがあります!」

と、桜子が声をあげた。懸造(かけづく)りの舞台の様相は、千年まえとさほど変わっていないのだ。

「だれと来たの? 紫式部と?」

 悠斗も、おもわず大声をあげた。そして、すぐに後悔した。舞台にいた人間がいっせいに、いぶかしげな顔で悠斗を見たのだ。なかには、バカにしたような目つきの若い男たちもいた。

 数歩うしろにいた高田も、驚き顔だ。

 ――悠斗くんは、いがいと、おっちょこちょいなんだ! 紫式部が生きているような言いかたをすれば、それはマズイだろ!


 悠斗は、桜子が式部といっしょに参詣したことがあるなら、式部は清水寺への信仰が篤く、本尊に、源氏の新帖につながる品か、新帖そのものを託したにちがいない、と考えたのだ。

 清水の舞台のうえで悠斗は、まわりから冷ややかな視線を浴び、身がすくむ思いだった。その視線を避けようと、悠斗は桜子を欄干まで誘い、参拝客たちに背をむけた。

 だが、自分の愚かな質問に答えようと、懸命に考えている桜子の横顔を見て、悠斗はまわりの他人のことなど、どうでもよくなった。源氏物語の新帖を見つけだすことが、ほかのなによりも、桜子のためになるのだ。そして自分自身も、新帖の中身を、だれよりも早く読んでみたい。自分のいまの気持ちに忠実でいよう。それがひとを傷つけることでないなら、それでいいではないか。悠斗は腹をくくり、桜子の顔をみつめつづけた。


「たしか、母とここにお詣りした気がします。おばあちゃまとはいっしょでなかったと思うけれど、そのとき、おばあちゃまからもらったこれを、髪に飾っていたのは、よく覚えている」

 桜子は、真珠とガラス玉の髪飾りをバッグから取りだし、手のひらにのせて悠斗の目のまえに差しだした。

「石山寺のときにも飾っていたよね」

「はい。玉鬘といって、髪が長く美しくなりますようにという願いをこめるの」

 桜子は髪飾りを握りしめた。

「でも、もう願いは……」

 桜子が言いおわるすんぜん、桧造りの舞台がはげしく揺れた。

「ワァー」

「キャー」

 叫び声が、あたりをとびかった。大きな地震に、だれもが立っておられず、ひざをついて顔をふせた。

 揺れがおさまり、悠斗は桜子の手を取って立ちあがった。


「ヒェェェー」

 また声が響いた。こんどは、舞台の欄干の外側からあがった叫び声だった。

「宮ちゃん、危ない!」

 桜子の目のまえに、欄干をへだてて速仁が、ブルブルと足をふるわせながら立っていた。崖に突きだして建てられた舞台の高さは、ビルディングの七階に匹敵する。落ちたら、まず命はない。

「お、おれ、へ、平気! この欄干のうえで蹴鞠だって、で、できるぞ!」と、

速仁はまっ青な顔で、真下の地面を見やりながら震え声をあげた。

「なに馬鹿なことを言っているの! 早くこっちに来なさいよ!」

「一宮、気をつけろよ、ゆっくりとだぞ!」

 心配する桜子と悠斗に、速仁は情けない顔でうなずくしかなかった。


 ところが、

「ギャァァァ」

と、また速仁は、さきほどに倍する叫声をあげた。

「宮ちゃん、こんどはどうしたのよ!?」

「む、む、虫!」

 速仁が欄干に置いた手の指先に、小さなトンボがとまっていた。速仁は体がこわばり、身動きひとつできないでいる。

蜻蛉(とんぼ)さん、かわいいぃぃ!」

 おおよろこびする桜子に、速仁は、ますます情けない顔をむけた。

「桜ちゃん、お願い。その虫、あっちにやって。お願いします」

 もう泣き声になっていた。

「いいわよ。――宮ちゃんは、こんなかわいいもの、どうして怖いのかなぁぁ」

 桜子はそう言いながら、トンボの羽に指をふれた。トンボはヒュッと飛びたち、こんどは、速仁の額にとまった。

 速仁は凍りつき、声さえあげることができない。

 悠斗が手で払い、トンボはヒュッヒュッと飛びさった。


 速仁は、桜子のまえでは逞しい男を演じたかった。仁和寺の中門につづいて、ここでも情けないようすを、もうこれいじょう見せるわけにはいかない。目をかたくつむり、へっぴり腰ながらも欄干をくぐった。ようやく速仁は舞台の内側に入り、スクッと立って息を整えた。

 そんな速仁に、参拝者の目がいっせいに集まった。虚空から出現した瞬間は、だれも見ていなかったが、角髪(みずら)にくわえて、撫子色の童直衣に指貫という、その平安装束の立ち姿にみんなが驚いているのだ。

 だが、ただひとり、高田だけはちがった驚きようだった。

 ――ひょっとして、この子もタイムワープしてきたのか? どうしよう……。先輩がいてくれたらな……。

 今日の尾行を任された高田は、三田に電話しようか迷った。

 ――やっぱり、やめておこう。相談したら、自分の頭で考えろって怒られそうだし……。

 高田は、桜子たち三人のようすを数歩うしろから探り、これまで以上に聞き耳をたてることにした。


「宮ちゃん、どうして正午に来なかったのよ!?」

「ゴメンよ。元服のことで、父上に呼ばれて……」

「あっ、元服なんだ! おめでとう、宮ちゃん!」

「それがね、あまりめでたくないんだ……」

「どうして?」

「うーん、こんど、ゆっくりと話す。――そんなことより、だいじな仕事があるだろ! おれ、そのために猛勉強したんだからな!」

「うん、ありがとう、宮ちゃん。それじゃ、三人で本堂へお詣りに行こうね」

 桜子はそう言うと、悠斗にも笑顔をむけた。

 悠斗は、財布から五百円玉を二枚取りだし、その一枚を桜子に渡した。

「これ、祖母ちゃんからもらったバイト代の一部なんだ。おさい銭にしよう」

「はい、寄進ですね」と、

桜子はうなずいた。

 すると速仁が、ボソリとつぶやいた。

「おれ、なにも持ってこなかった。それに、持ってきても、この世界に残していけないと、観音さまが仰っていたから……」

「あっ、気がきかなくて悪かった」

と言いながら、悠斗は財布のなかを探った。

 だが、五百円玉はもうなかった。悠斗は、百円玉を二枚、速仁に渡そうとした。

「それ、なんなんだ?」

とたずねる速仁に、桜子が、

「この世界のお金よ。宮ちゃんにはまだわからないだろうけれど、とても大切なものよ」

と答えた。

「ふーん。おれ、自分の力で、そういう大切なものをなにか寄進したい。そうしなきゃ、桜ちゃんを助けたいというおれの気持が、仏さまに届かない気がする」

 そう言いはる速仁をまえに、桜子と悠斗は顔を見あわせた。速仁の思いをかなえる手段があるのだろうか?

 速仁自身も懸命に考えた。そして、やおら、

「ヨシ、決めた!」と、

速仁は右手で力強く拳をつくった。


 清水の舞台の中央に進み出た速仁は、本堂にむかって居ずまいをただし、おもむろに両手を広げ、ついで右足を上げた。そして、ゆっくりと全身を動かしはじめた。

秋風楽(しゅうふうらく)だわ」

 そうつぶやく桜子に、悠斗が不思議そうな顔でたずねた。

「準備体操みたいに見えるけど、ひょっとして、あれは舞楽?」

「はい、源氏の物語の〈紅葉賀〉で、親王さまのおひとりが舞われた演目です。――でも、宮ちゃんは、上手じゃないから……」

「でも、一宮が頑張ってる気持は、清水寺の仏さんたちに、きっと伝わるよ」

 悠斗がそう言うと、桜子は、えくぼをつくりおおきくうなずいた。


 速仁が舞いおわると、舞台のあちこちで、小さいながら拍手がおこった。高田も、桜子と悠斗のうしろで、手をたたいていた。もっとも大きな拍手だった。

 速仁は、笑顔の桜子と悠斗のもとにかけよった。

「舞いを奉納した」

と言ったあと、速仁は、口をとがらせながら桜子につぶやいた。

「下手って、言うなよな」

「ううん、上手だったよ」

「そうかな、エヘッ。蹴鞠を奉納する方が、自信あるんだけどな、エヘへッ」

 はにかむ速仁に、悠斗が、

「今度、おれとリフティングで競争しよう。蹴鞠のようなものだから、おもしろいぞ」

と、声をかけた。

「おう、いいぞ。負けないからな!」

「おれもな」

 自信ありげな悠斗の顔を見ながら、速仁は、ふたたび右手で、こっそり握り拳をつくった。


 桜子たち三人は、本堂の外陣に入り、桜子を真ん中にして横一列にならんだ。そして、内々陣に置かれている三基の厨子の方向に手を合わせた。厨子のなかには、本尊の千手観音像と、脇侍の勝軍(しょうぐん)地蔵菩薩像および毘沙門天像が、それぞれ秘仏として納められている。言い伝えによると、平安時代の初めに、坂上田村麻呂が祀った像である。


 三人は静かに祈った。だが、仁和寺のときとはちがい、あたりの風景は少しも変化しない。三人の心に呼びかける声もなかった。

「おれの舞いが下手だったからかな?……」と、

速仁が、手を合わせたまま、ボソッとつぶやいた。

「ちがうと思う」

 悠斗がキッパリと答えた。

「おれの調査不足だ、ゴメン。桜ちゃんのお祖母さんが参詣した寺か神社は、きっと別の場所なんだ。心当たりがもう一箇所あるから、今度はそこに行こう」

 悠斗は桜子にそう言うと、今度は速仁にむかってたずねた。

「今日はすぐにもどらなくてもいいんだろ? 今夜はおれの家に泊まれよ」

「おう、ありがとう。そこそこ勉強したから、明日の正午まではここにいられるって、観音さまが言ってくれた」

 そう答えた速仁に、桜子も、

「よかった! 今夜、ゆっくりお話ができるね」

と、笑顔をむけた。

「うん、おれも楽しみ!――それじゃ、悠斗、もうひとつの場所におれたちを連れていけよ」

 速仁は、わざとぞんざいな言葉を選んで口にした。速仁にとって悠斗は、あいかわらず、横一線でいたい相手なのだ。だが、

「宮ちゃん、なによ、その偉そうな物言いは! もうすぐ元服するんだから、言葉遣いもおとなになりなさいよ」と、

桜子からこっぴどく叱られた。

 速仁は、

「だって……。それじゃ、どう言えばいいんだよ!?」

と、ふくれっ面だ。

「兄上さまとか、悠斗さまとか、そうお呼びするものよ!」

と言う桜子に、悠斗が苦笑いした。

「そんなふうに呼ばれたら、こっちが照れくさいよ、アハハ。兄ちゃん、とかでいいよ」

 速仁は、

「わかった」と、

まだ不満そうな声で答えた。そして、

「悠にいちゃん、でいいか?」

と、うつむきながら、聞こえるか聞こえないかのような小さい声を出した。

「ああ、それでいいぞ」

 弟が欲しかった悠斗は、心の底からうれしかった。


 悠斗は、桜子と速仁を、あらためて舞台の欄干に誘った。そして、そこから西南方向に見渡せる場所が鳥辺野であることを説明した。

「それじゃ、行こう!」

と悠斗が声をかけた。

 速仁は、

「へぇぇい、悠にいちゃん」

と言いながら、これでいいんだろ!、という目つきで桜子を見た。

「へぇぇい、は余計よ。でも、さっきよりはいいわ。さあ、みんなで行きましょう」

「へぇへぇ」

「へぇ、もダメ! はい、でしょ!」

「はぁぁぁい」と、

速仁は、おもいっきり音を伸ばして返事した。そして、両の黒目をギュッと真ん中によせ、その奇妙な顔を桜子にむけた。

「もう、宮ちゃんたら! その顔、おかしすぎ!」

「そうかな、エヘへッ」

 速仁と桜子の言い合いを、欄干に腕をもたせ掛けながら聞いていた悠斗は、やんちゃな弟分ができて、ますますうれしくなった。


「それじゃ、行こう!」

 ふたたび悠斗が声をかけ、三人は本堂の外へむかった。

 と、そのときだ。内々陣の厨子に納められている勝軍地蔵菩薩像の両目が、カッと見ひらかれた。そして、つぎの瞬間には、なにごともなかったかのように、ゆっくりと閉じられた。

 その地蔵は、袈裟(けさ)の下に(よろい)を身につけている。その名のとおり、悪行や煩悩(ぼんのう)に立ちむかい勝利するという、武闘に()けた地蔵だ。

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