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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第6章 地蔵
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6-9

 翌日は、秋をおもわせる涼しい朝で明けた。桜子と悠斗が鳥辺野に行く日だ。

 ふたりは、仁和寺に行ったときと同じ服装で出町柳へむかった。そして、鴨川と高野川の合流点にある〈(ただす)の森〉で、時空を超えてやってくるはずの速仁を待つことにした。緑陰が深く、いつも人の気配が薄い場所である。


 再会を約束した正午になった。だが、速仁は現れない。さらに十分待った。それでも現れない。桜子は、ジリジリしてきた。

 ――もぉぉ、宮ちゃんたら! きっと、勉強しなかったのだわ。

「悠斗さん、ごめんなさい」と、

桜子は謝った。

「おれはいいけど……。一宮は、病気なのかな?」

「それはないと思います。頑丈で元気なのが取りえだから……。もう放っておきましょう」

「うん、そうだな……」

 悠斗は、速仁のことが気になりつつも、桜子といっしょに清水寺へむかった。


 この数日、悠斗は、源氏物語の原文と現代語訳、それに解説本を読みあわせながら、鳥辺野が物語のなかでどのように語られているのかを、じっくりと調べた。そして、紫式部が仁和寺のあとに立ち寄った可能性のある寺社のひとつが、清水寺なのではないだろうかと考えた。東山連峰のひとつである音羽山の中腹に伽藍が建ちならび、境内が鳥辺野の北縁と接している。


 清水寺が〈夕顔〉帖に描かれている。十七歳の光源氏と、二歳年上の夕顔との、出会いと死別を描いたその帖において、人びとの篤い信仰を集めている寺のようすが活写されているのだ――〈清水の方ぞ、光多く見え、人のけはひも、しげかりける〉。

 八月の十六夜(いざよい)に、光源氏と荒れ屋敷で同衾していた夕顔は、物の怪に取り憑かれて頓死した。身内は乳母ひとりだけという寂しい葬儀が、鳥辺野の一堂でおこなわれ、十七日の深夜、光源氏は密かにそこを訪れた。この一文は、堂前から、灯火が多い清水寺の参道を光源氏が見やる場面である。十八日は観音の縁日で、千手観音を本尊とする清水寺は、平安時代の頃にも、未明から参詣者が押しよせるほどにぎわっていたのだった。


 清水寺は平安京への遷都以前に創建され、現在でも多くの参詣者を集めている。悠斗も、子どもの頃から、この寺にはなんども訪れたことがある。

 桜子と悠斗は、祇園石段下の停留所でバスを降りた。そして、文字通りの石段を上り、八坂(やさか)神社の境内に入った。ここから清水寺までは、歩いて三十分ほどだ。二つ先の停留所の方が清水寺には近いのだが、悠斗はわざと手まえで降りた。八坂神社から円山(まるやま)公園、高台(こうだい)寺、八坂の塔、そして産寧(さんねん)坂、清水寺へとつづく、東山観光のメインルートを、桜子と歩きたかったのだ。

 悠斗は、円山公園の南端にある明治時代の豪奢な洋館で、ランチを食べることにした。スコーンやサンドウィッチ、それにデザート類が、三段プレートに華やかに載せられた、アフタヌーンティーを兼ねたランチだ。大学生にしてはぜいたくだが、もともと小遣いが豊富な悠斗には、気にならなかった。そのうえ、おいしそうに食べる桜子の表情が、悠斗にはうれしくてならなかった。


 だが、離れた席でランチにつきあう羽目になった男には、痛い出費だった。今朝からずっと、桜子と悠斗のあとを、つかず離れずつけている高田だ。

 ――悠斗くんは会長の息子だもな……。大学生なのに、よくこんなところでランチするよ。おれのランチ代、会社の経費で落としてもらえるかなぁぁ。請求したら、三田先輩はきっといい顔しないだろうし……。

 せっかくの高級ランチも、高田には、ゆったりと味わう余裕がなかった。


 高田のとなりのテーブルでは、白地の()の小紋を着た若作りの大陰が、高田と背中あわせでスイーツを口に運んでいた。大陰は、桜子と悠斗ではなく、もっぱら高田を見張っているのだ。

 ――こやつ、孫姫のあとをつけるのがやけに上手いが、どうも怪しい。孫姫が鞍馬堂を出る日時が、こやつに、なぜわかったのだろう。

 大陰が考えこんでいると、高田がズボンのポケットをガサガサさせた。一瞬にして、大陰の(まなこ)のなかに、赤い点が浮かびあがった。

 大陰は、己の()を体から遊離させた。気は小さな青白い球体となり、高田の肩の上を漂った。高田はスマートフォンを操作している。その画面には、〈武藤悠斗〉の位置が地図上に表示されていた。

 一球の気は、まぶたを閉じてグッタリしている太陰の体のなかに、スウッと、吸いこまれるようにもどった。

 太陰は、ゆっくりと、まぶたを開いた。その眼は、ますます赤くなっていた。

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