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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第1章 新帖
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1-5

 紫式部は、物の怪に脅されてからというもの、重い物忌(ものい)みだと言って人払いし、光源氏とだけ語りあいつつ執筆に専念した。


 三日後、……西山連峰のなだらかな稜線に、淡い陽の最後の輝きが吸いこまれようとするとき、式部はゆっくりと筆をおいた。

 そして、料紙に書きつけた最後の字をしばらくのあいだしげしげとみつめたあと、式部は料紙に目をむけたまま、ちいさく頭をたれた。

「ありがとうございます、光る君さま」

『完成ですか?』

「はい」

 さすがに疲労のぬぐえない顔だった。だが式部は、満足げにその顔を光源氏にむけ、あらためて辞儀をした。そして、料紙を()じて草紙にするため、物語から紫の上付きの女房たちを呼びだした。

 料紙を破いたり順番をまちがえたりしないよう、細心の注意が必要な仕事だった。こういう手仕事を安心してまかせられるのは、彼女たちをおいてほかにない。光源氏が例によって女房たちに戯れ言をかけたが、紫の上に忠実な彼女たちから、適当にあしらわれただけだった。

『わたしもあなたたちの手で綴じてもらいたいな。そのつややかな黒髪で、柔肌の胸の谷間に閉じこめられたら、さぞかしよい気持ちだろうね』

『針を通しますから痛いですよ』

『!………』

『殿はなんども痛い目にあっておられるのに、性懲りもなくいらっしゃいますのね。ふふふ』

『!………』


 式部は、光源氏と女房たちのやりとりを、口もとをゆるめながらみつめていた。数年来の懸案をなしとげた喜びと、これからは光源氏たちを呼びだすことが少なくなるかもしれない、という寂しい思いとが、ない交ぜになっていた。石山の観音から得た力は、源氏の物語を書き、それを世に出すためのものであって、自分の徒然(つれづれ)をなぐさめるためのものではない。式部は、そう自分にいいきかせながら、光源氏たちをみつめつづけた。

 女房たちが料紙を綴じおえると、式部は、自身の手で蒔絵(まきえ)の手箱にそれを納めた。そして、あらかじめ絹布などを入れておいた小櫃(こびつ)のなかに、手箱もていねいに移した。そのあと、なにも言わず、ただ頭をふかくたれ、光源氏と女房たちを物語世界へもどした。

 ――これでおわったのですね……。さっ、明日は忙しい一日になるでしょう。


 式部は、小櫃をかたわらに置いて眠ることにした。そして、燈台の火を消すまえに、もういちど小櫃をながめ、そのなかにある新帖の行く末に思いをめぐらした。それを、自身が生きているうちには世に問えないことの悲しみが、あらためてこみ上げてきた。

 ――約束は守りましょう。いまの世には出さないと、心に固く決めたからこそ、あの物の怪は姿をふたたび現さなかったのでしょう。


 式部のこの想像は、正しくもあり、まちがってもいた。晴明の意を受けた大陰が、さまざまな鳥に姿を変えて、三日三晩ずっと、式部の動向を庭から監視していたのである。晴明の仕事ぶりは、いつも丁寧にして確実なのだ。大陰陽師と呼ばれる理由のひとつはそこにあった。

 式部が新帖をだれかに洩らす動きを少しでもみせれば、それを藤原兼隆より早く察知して阻止しなければならない。兼隆から依頼されたからだけではない。それが式部自身の身の安全につながると、晴明は考えていた。

 なぜ兼隆が新帖の流布を嫌うのか、その理由については晴明といえども思いおよばなかった。だが、新帖の存在をかぎつければ兼隆は、それが書かれないと請けあった晴明を詰問するだろう。式部にも、最悪の場合、危害をくわえかねないと、晴明は心配していたのである。


 翌朝早く、式部が女房に手伝わせ外出の身支度(みじたく)をしていると、桜子と賢子がやってきた。

「おばあちゃま、ものいみがおわって、よかったね。お人形ごっこしましょ」

「ごめんね、ちい姫。おばあちゃんはこれから、願ほどきで、お詣りに行かなければならないの。もし早く帰れたら、寝るまえにいっしょに遊びましょうね」

「なんの願ほどきですの、母上? もしかして、源氏の新帖が書きあがったのですか?」

「いいえ、五四帖になにか書きたすのは、もう止めにしました」

「えっ!? それは残念。どうしてですの?」

「あの物語は、あのままでよいのですよ」

 ――すくなくとも、この現世(うつしよ)ではね。


 式部は、目のまえに桜子を座らせ、その髪短な頭をやさしくなでながら、言葉をついだ。

「今日のお詣りは、あなたがたふたりが息災に暮らしてこられたことへの御礼です。それから、ちい姫の髪が、ながーく、ながーくなりますようにと、あらためて祈願してきます」

「わーい、うれしーい。おばあちゃま、ぜったいだよ、ぜったいだよ。わたしのかみの毛のこと、わすれちゃだめだよ」

 式部は、

「はい、はい」

と笑いながら、銅鏡と手箱を女房に持ってこさせた。

 桜の花びらが銀蒔絵で描かれているその手箱のふたを式部が取ると、なかから髪飾りがあらわれた。たくさんの真珠とガラス玉が、何本もの糸に通されている。

「これはね、玉鬘(たまかずら)というものです。長くて美しい髪を(かたど)っているのよ。ものの形や言葉には霊なる力が宿っており、その力のおかけで、形や言葉で表されていることが現実のものになると言われています」

 式部は、桜子を銅鏡のまえに座らせ、その短い髪を櫛で()いた。そして、玉鬘を髪に飾った。

「氏神の春日神(かすがのかみ)さまへお詣りするときなどに、こんなふうに髪につけるといいですよ」


 桜子には、式部の言ったことの意味がまったくわからなかった。だが、鏡のなかで真珠とガラス玉が放っているかがやきに、心がはずんだ。そのうえ、式部と賢子が口をそろえ、

「まぁぁ、かわいいこと」

と言ってくれた。

 桜子は、髪よりも長く、胸もとまでたれている玉鬘を小さな両手で押さえ、首をすこし右にかしげながら、鏡のなかの自分に笑顔をかえした。


 ほどなくして、式部は牛車で屋敷を出た。目だたぬようにと、供の女房と下男、牛飼童(うしかいわらわ)は、ひとりづつだけにした。そして、新帖を納めた小櫃は車に載せ、寺社への寄進物だと家の者たちには説明した。式部は、新帖完成のことがだれにも気づかれないように、慎重にことを運ぼうとしていた。

 だが、庭さきにいた鳥が一羽、式部たちのあとを追っていく。ハクガンだ。本来は黒いはずの風切り羽さえ白く、目は赤混じりの金色をしていた。

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