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仁和寺は、親王ら皇族が歴代の住職を務めていた時代に、御室御所と呼ばれていたことがある。明治時代に入ると親王たちが住職に就くことはなくなり、現在は〈旧御室御所〉と称されている。
その旧御所の中心が、境内の西南に広がる〈御殿〉だ。御殿には、大正時代に建てられた檜皮葺の宸殿がある。内裏の正殿である紫宸殿をなぞった建物で、白砂が敷きつめられた南面の庭に、〈左近の桜〉と〈右近の橘〉が植わっている。宸殿の北には、池泉式の庭園も配されている。
桜子たち五人は、宸殿の簀子縁を南から北へめぐった。そして、人影がまばらな簀子縁の、その北東角で円座を組んだ。
光源氏は、悠斗が朱雀院の簡単な質問にかるく答え、なにかたいせつな品をすぐに渡されるはずだと考えていた。それまでの短い時間を、朱雀院の右横で欄干にもたれ、のんびりとすごす腹だった。
夕霧は、朱雀院の左横に座らなければならず、居心地が悪かった。だが、落葉の宮との結婚騒動について朱雀院がずっと口を閉ざしているので、ずいぶんと気が楽になっていた。
そして桜子は、悠斗の横に座り、庭を、東宮御所や〈中川のあたり〉の自邸と重ねながらながめていた。ナデシコの可憐な花が、ところどころに咲いている。日暮れまでにはまだ時間があったが、桜子の脳裏に、〈常夏〉帖の一文がよぎった――〈撫子の色を整えたる、唐の、大和の、籬いとなつかしく結ひなして、咲き乱れたる夕映えいみじく見ゆ〉
桜子は不思議だった。京都の町なみは、千年のあいだで、おおきく様変わりしていた。だが、この御殿のように、千年まえを彷彿させる風景にも出会える。そういう場所は、きっと他にもあるのだろう。
――四条河原町も楽しかったけれど、ここもすてき! いろいろなところに行ってみたいなぁぁ。
桜子はそう思いながら、上目づかいで悠斗の横顔を見た。
悠斗は、目を閉じ、指を一本ずつ折りまげている。御殿に入ってから今までずっと、源氏物語五四帖のあらすじを、最初の〈桐壺〉から最後の〈夢浮橋〉まで、一帖ずつ、思いだせるかぎり精一杯、頭のなかで整理しているのだ。
――物語の第二部が〈若菜・上〉で始まって、光源氏が女三の宮を正室に迎えるんだったよな。〈若菜・下〉は、落葉の宮と結婚した柏木が、女三の宮に横恋慕する話。つぎの〈柏木〉で、女三の宮が薫を生み、柏木が病死。つづいて〈横笛〉で、夕霧さんが落葉の宮に近づき、さらに〈夕霧〉で、夕霧さんちの家庭騒動が本格化。ん!? そのまえにひとつあったよ。なんだったっけ!? まずい! 思いだせない!
悠斗は、〈夕霧〉帖のところで、右手の中指を曲げたり伸ばしたり、それをなんども繰り返した。
悠斗に対座している朱雀院が、とうとう口を開いた。
『悠斗の君にたずねる質問は、簡単なものでよいでしょう。孫姫を手伝っておられる方なのだから、きっと式部殿も、それでよいとお思いのはずです』
「はい、ありがとうございます!」
と、悠斗は目を開き、おもわず大きな声を出した。
ところが、
『大学の君は、どのような難しい質問でも、すらすらとお答えになるでしょう』
と、夕霧が口出しした。
悠斗は、
――もぉぉ、かんべんしてよ夕霧さん!
と、涙が出そうになった。
光源氏も肩をすくめた。
――困った息子だ。きまじめすぎて、要領が悪い。
だが、落葉の宮との結婚騒動が話題にならないおかげで気分が軽くなっている夕霧は、無頓着に話しつづけた。
『大学の君は、石山寺の門前で、しじみご飯を食べながら源氏の物語を講釈されましたが、深い学識に基づく、たいそう興味深いものでした』
夕霧の多弁な口もとを見ていた光源氏の目が、いらつきはじめた。
――なるほど。夕霧は、この世界の読者のあいだでは自分が人気者だ、ってことが言いたいわけか。だが、なぜそれが今の重大事なんだ!? 困ったヤツだ!
光源氏は、もう黙っておれ、と言わんばかりの眼差しを夕霧に送った。だが夕霧は、それに気づかない。
『大学の君は、とりわけ、物語のなかの人物が読者のあいだで、どのような好悪の感情を引き起こしているか、よくごぞんじのようです。それによれば……』
と、夕霧がさらに言葉をつごうとしたとき、
『そうですか、それなら、ますます簡単な質問になりますね』と、
朱雀院が穏やかな顔で、ふたたび口を開いた。
『おたずねしたいのは、読者としての悠斗の君ご自身の考えです』
そして朱雀院は、悠斗の目をまっすぐみつめながら、一言一句、ゆっくりと問いかけた。
『わたしの娘たちに対する、それぞれの婿の振る舞いについて、悠斗の君は、どのように考えていますか? ご意見をお聞かせください』
夕霧には青天の霹靂だった。落葉の宮との夫婦関係が、悠斗を通して間接的に詰問されようとしている。火の粉が降りかからなかった、と喜んでいたが、それはとんでもない思いちがいだったのだ。
夕霧は、朱雀院の横顔ごしに、同じように脛に傷を持っているはずの光源氏を見た。だが光源氏は、素知らぬふりで庭に目をやっている。
――父上は、やはり鉄面皮だ……。
夕霧は、朱雀院の横で身を縮めながら、悠斗が返答するのを、固唾をのんで待つしかなかった。
悠斗にとっても、予想外の質問だった。おおかたの大学入試と同じように、文章の解釈が問われると思っていたのだ。
――おれ、自由に意見を述べたらいいんだろうか?
悠斗が桜子を見ると、自分を信頼しきっている顔がそこにあった。
「桜ちゃん、もしおれの考えがおかしくて、たいせつな品がもらえなかったらゴメンな」
「きっとだいじょうぶですよ。それに、母がよく言っていました。今日がだめだったら明日がある、そして明日がだめだったら明後日があります。品を戴けるまで、なんどでも来ましょう」
そして桜子は、朱雀院にむかって問いただした。
「それでよろしいですよね。祖母は、質問と答えは一度きりだと、言っておらなかったのではないでしょうか?」
朱雀院は、笑顔でうなずいた。
光源氏も、おもわず苦笑した。新帖を書くなと脅した物の怪を、紫式部がたぶらかそうとした、あの夜のことを思いだしたのだ。
――孫姫の、頭の回転の早さは、式部殿譲りなんでしょうね、ハハハ。
だが夕霧は、ますます身が縮まる思いだった。
――品が手にはいるまで、なんども、落葉の宮とのことが蒸し返され、それを聞いていなければならないのだろうか。とほほ……。
悠斗は、桜子の言葉で、かえって腹がすわった。
――ありがとう桜ちゃん。でも、新帖につながる品を、今日、いっしょに持って帰ろう!
そして悠斗は、朱雀院の目をまっすぐみつめ、意を決して口を開いた。
「おれ、朱雀院さまが、いちばん悪かったのだと思います」
悠斗のこの言葉を聞いて、夕霧は、もう一刻も早く物語世界に帰りたくなった。朱雀院が激怒するのではないか。とばっちりが来たらどうしようかと思い、ソワソワしだした。
修羅場にめっぽう強い光源氏は、何食わぬ顔をつづけている。朧月夜の女君との密会現場を、女君の父親である右大臣に見とがめられても、平然としていた光源氏なのだ。だが、女三の宮との夫婦関係がこじれた責任に、頬かぶりする気はなかった。むしろ、心のうちでは、
――悠斗殿は、わたしと夕霧を悪者にして、朱雀院のご機嫌をとってしまえばよいのです。そうすれば、式部殿からの預かり品を、サッサと渡してもらえるはずだが……、
と、考えていた。
――まっ、オタオタしている夕霧よりは、肝のすわった、おもしろそうな若者だ。
桜子は、声こそ出さなかったが、悠斗にむかって小さく相づちを打った。それに励まされ、悠斗は、ふたたび話しはじめた。
「光る君が女三の宮と結婚したのは、憧れの藤壷に似ている人かもしれないと思ったからでしたよね。でも期待はずれだったので、光る君は女三の宮を、表面的にはたいせつにしながらも、あまり思いやることがなかったような気がします。女三の宮は、そんな光る君に不満も抱かず暮らしていたけれど、柏木から一方的に迫られて、望んでもいなかったのに柏木の子を産んでしまい、ますます光る君に疎まれてしまいましたよね。たしかに光る君は、父の妻だった藤壷とのあいだに冷泉帝をもうけた罪の報いだと思って苦しんだけれど、おれ、読んでて、光る君に全然同情できなかったです。でも、そんな光る君を女三の宮さんの婿に選んだのは、朱雀院さまご自身だったでしょ。選んだ責任があるんだと、おれは思います」
光源氏は、あいかわらず平静な顔で悠斗の話を聞いていた。
――悪い男を選んだアンタも悪い、っていうわけだね。そうそう、とにかくわたしを悪者にしておけば、早くかたがつきますよ。
「それに、朱雀院さまは女三の宮の婿に柏木を選ばなかったけど、その理由が、おれには悲しかったです。柏木は優秀な人間なのに、若くて、まだ位も低かったから、それで婿になれなかったんでしょ。おれ、まだ学生だし、おまけに優秀じゃないから、おれだったら絶対に婿になれないなって、思ってしまいました」
夕霧は、簀子縁の床板に目を落とした。
――大学の君の言いたいことは、よくわかります。わたしが十二歳の時に雲居雁から引き離されたのも、まだ学生で位が低いから、という理由でした。情けない思いをしたものです……。
「そりゃ、柏木は、位が上がって落葉の宮の婿になっておきながら、女三の宮に横恋慕したんだから、そこはどうかなと思う。でも、女三の宮が好きでどうしようもなく、挙げ句に死んじゃったわけで、可哀想な人だという印象を、読んでて、どうしても持ってしまいました」
悠斗は、しずんだ顔の夕霧をチラリと見たあと、さらに話しつづけた。
「落葉の宮は、柏木が死んだあと、出家して静かに暮らしたいと望んでいたでしょ。ところが、朱雀院さまがそれを許さなかったじゃないですか。たぶん、娘がふたりまでも出家すれば、悲しくてやりきれないとお思いになったんでしょ。で、夕霧さんが、嫌がる落葉の宮を強引に妻のひとりにしてしまった。でも夕霧さんは、その後、たぶん、雲居雁さんと落葉の宮さんの両方から許されて、なんとか家庭騒動を収めた。夕霧さんなりに、かなり努力されたんだと思います」
――大学の君、ありがとうございます。
「おれ、いま、二十歳です。それで、いま言ったことは、二十歳の男の感想です。年をとって、もし好きな人ができて、ひょっとしたら結婚もして、子どもができて、それが女の子だったりしたら、別の読み方をするかもしれません。いまでも、朱雀院さまが娘の将来をとても心配していた、その気持ちは、なんとなくわかる気がします」
光源氏は、目だけを動かして桜子を見た。
――「もし好きな人ができて」っていう言い方は、悠斗殿、だめじゃないですか。ほら、孫姫の顔がくもってしまいましたよ。
「だから、朱雀院さまが悪いって、おれ、最初に言いましたが、本当は、だれがよい悪いという話しではないと思ってます。同じ人間が、年齢と、そのときの境遇に応じて、いろいろな読み方をするのだと思います。源氏物語を読み返すときどきで、生きてく力になるものが、なにか得られたらいいな、と思います。おれは、三年ほどまえに、マンガで初めて読みました。そのときは、なぜ夕霧さんが懸命に勉強するのか、よくわからなかった。好きな女の子と早く結婚するために猛勉強したと描かれていたけれど、現実感がなくて読み飛ばしました。それに、父親に強制されて勉強するなんてことも、気味が悪かった。いまでも、父親や家のために勉強するというのは、まったく理解できないです。でも、数日まえからは、たいせつに思ってる人のために勉強するという気持が、おれにもわかるようになりました。そういう気持で生きていけたらいいなと、いまは思います」
言いおえた悠斗は、これでよかったのかな、と問いたげな目を、桜子にむけた。
桜子も悠斗を見た。桜子のその顔は、満足しているというよりも、驚いているようだった。
――生きていく励みを物語から見つけてもらいたいと、おばあちゃまが口癖のように言っておられた……。悠斗さんは、それを見つけた人なんだ! それにひょっとして、その励みって、わたしなの!?
そして光源氏は、満足げにうなずいていた。
――「たいせつに思っている人のために」という言い方は、たいへんよろしい。まっ、できれば、孫姫の目をみつめながら「愛しく思っている人のために」と言うのがよいのですがね。
『悠斗の君、それでおわりですか?』
と、静かに耳をかたむけつづけていた朱雀院がたずねた。
悠斗は、しっかりした声で、
「はい!」
と答えた。
しかし、もともと大きくなかった自信が、だんだんと萎んでいった。朱雀院は、怒ってはいないようだが、にこやかでもないのだ。おまけに、また黙りこんでしまった。
――こりゃ、ダメだったか……。桜ちゃんが言ったとおり、今日がダメだったら明日があるよな。勉強して出直そう。
悠斗がなかば覚悟したとき、朱雀院が、おもむろに口を開いた。
『話しがもうおわりとは、残念です。……物語の世界を離れることはめったにないことですから、人界で悠斗の君や孫姫と、のどかな時を、もうしばらくすごしていたかったのですが……』
そう言いながら、朱雀院は懐から蒔絵の筒を取りだし、悠斗の目のまえの板敷きにそれを置いた。
『これが、式部殿から預かった品です。お受け取りなさい』




