5-9
朱雀院は、とっくに人界に現れていた。桜子たちが二王門をくぐって参道を北へ歩いているとき、金堂脇に姿を現したのである。
だが朱雀院には、ここがどこなのか、さっぱりわからなかった。
――物語のなかから人界に現れたのは、式部殿が亡くなられてからこのかた、初めてのことだが……。あの孫姫が、わたしを呼びだしたのだろうか?
朱雀院は、式部の死の数日まえに会った桜子の顔を思いうかべた。だが、当の桜子が、金堂脇にいない。あたりの景色にも見覚えがなかった。千年の時がへだたっていることなど、朱雀院には思いもおよばなかった。
途方に暮れていると、光源氏と夕霧が金堂にむかって参道を歩いて来るのが見えた。朱雀院は安堵した。だが、おかしな身なりをした若い男女が、源氏親子と、親しげなようすでいっしょにいる。そのうちのひとりが、一度だけ会った桜子の、すこし成長した姿であることに気づき、朱雀院は驚いた。
――なんという衣裳を身につけているのだ! みっともない。それに、あの男は、いったいだれだ? ひょっとして、源氏の新帖を探しに来た者か? だとすれば、ここは仁和寺で、わたしは増長天に呼びだされたのだろうか?
だが、目のまえのお堂は、紫式部といっしょに入った金堂と様相がちがう。
合点がいかない朱雀院は、桜子たちのまえに姿を現すよりもさきに、増長天を探そうと考えた。新帖を探す者たちの本性を見極めるようにと、式部から託された仕事が、朱雀院には最重要事だと思われたのだ。
それに朱雀院は、光源氏に会うのが億劫だった。頼りになる弟だが、できがよすぎる弟てもある。朱雀院にとって光源氏は、いつも引け目を感じさせる存在なのだ。
朱雀院は、若いときから、三歳年下の光源氏にたいして、なにかにつけ一歩うしろを歩むような人生を送ってきた。とくに女性問題ではそうなのだ。東宮時代には、自身の妃となるようもうし入れた葵の上が、光源氏の最初の妻となった。朱雀院が十八歳のときである。
二四歳で帝になってからは、最愛の女君である朧月夜が、光源氏と密会を重ねてしまう。
八年後に帝位を冷泉帝に譲ってからもそうだ。六条御息所の娘で、伊勢神宮に巫女として仕える斎宮に抱いていた淡い恋が、光源氏によってはばまれる、ということがあった。帝の代替わりで斎宮職を辞して京都にもどってきたその女君を、朱雀院は妃のひとりとして迎えようとしたのだが、光源氏が妨げたのである。前斎宮は、よりによって光源氏の養女となり、その後押しで冷泉帝に入内して斎宮女御と呼ばれるようになる。
そのうえ朱雀院は、出家に際して、最愛の娘である女三の宮の後見を、光源氏に頼まなければならなかった。娘の行く末を案じるあまり、光源氏のもとに降嫁させたのである。しかも、その後見は朱雀院の期待どおりに運ばず、八年後、女三の宮は髪を下ろしてしまった。
朱雀院が光源氏に対して自負心を抱けた唯一の拠り所は、自身が東宮にも帝にもなった一方で、光源氏は臣籍に降下したことだった。だが、そんな自負心も、光源氏が、冷泉帝の計らいにより〈太上天皇になずらふ御位〉を得たことで、あっけなく崩れさった。
朱雀院は、光源氏たちが金堂に近づくと、しずかにその場を離れた。そして、勝手がわからない境内で、増長天を探し求めた。
だが、増長天は見つからない。歩き疲れた朱雀院は、五重塔が影を落とす苔のうえで、休息をとった。
――どうしたものか……。やはり、光る君たちのまえに姿を現すべきだろうな。
そうは思うものの、それでもなかなか踏ん切りがつかない。朱雀院は、なにかにつけて、決断するまでに時間がかかるのだ。
夕霧が霊宝館の正面で祈願しはじめたときも、朱雀院はまだ迷っていた。
すると、とつじょ目のまえが、朱色の世界に変わった。すぐ近くにそびえ立っていた五重塔が、跡形もなく消えさった。そのうえ、朱雀院自身の体が変異しはじめた。足の指が四本になり、手と腕も、奇妙に長くなっていった。
朱雀院は、身体のあまりの変わりように恐ろしくなり、目をつむった。すると、体が宙に浮いたように感じた。おそるおそる目を開けると、空を覆う渦巻きの流れのなかを、火の鳥となって漂っていた。眼下に、光源氏らと混じっている増長天の姿が、小さく見えた。
――やはりここは、仁和寺だったのだ! 源氏の新帖を求める者がやって来たのだ!
朱雀院は決断した。決断すると素速く行動に移す朱雀院だ。
火の鳥は、翼をおおきく一度だけはためかせ、一気に降下した。そして、桜子たちの眼前に着地し、火の粉を振りまいている翼をたたんだ。
『ひさしぶりですね、光る君。そして夕霧の君も、仁和寺によくお越しになった。それから、式部殿の孫姫さまだとお見受けいたします。お元気そうでなによりです』
人語であいさつする火の鳥に、桜子たちは仰天した。だが、光源氏には、その声に聞き覚えがあった。
『兄上さま、ですよね? それにしても、なぜそのようなお姿なのですか? もしや、斎宮女御さまの御読経に、迦陵頻の鳥舞を添えられるおつもりなのですか? アハハ』と、
光源氏は、朱雀院が前斎宮に懸想していた過去を冷やかした。
だが、争いを好まない気質の朱雀院は、おだやかに答えた。
『わたしごとき者の舞は、光る君に、とうてい敵いません。紫宸殿の桜の宴で春鴬囀を舞われた光る君の方が、よほど華やかな鳥でありましたよ。ふたたび、あのような素晴らしい舞を見ることは、できないのでしょうね』
ところが光源氏は、あいかわらず、朱雀院をからかうのだった。
『あの桜の宴のあと、わたしは朧月夜の女君を、一晩中、翼で包み、温めて差しあげました。お望みであれば、わたしは、いつでも鳥になりますが、それでよろしいのですか? アハハ』
光源氏は言いすぎたようだった。火の鳥は、頭の羽毛を逆立て、
『ふたたび雁となって、さみしく須磨の空を飛ばれますか!? ――初雁は 恋しき人の 列なれや 旅の空飛ぶ 声の悲しき』
と、一首を唱えた。
かつて光源氏が、朧月夜との密会が露見し須磨で侘び住まいを余儀なくされていたときに、自身を雁になぞらえ、都の人びとを遠くから偲ばなければならない悲哀を詠んだ和歌である。
光源氏と朱雀院の視線がぶつかり、バチバチと激しく火花を散らした。
両者のにらみ合いを、夕霧は肩をすくめて見ていた。
――まただぁぁ。今回も父上が悪い! まっ、ほうっておこう、
と、夕霧は、われ関せずをきめこんだ。
それに、落葉の宮との夫婦関係のことで、朱雀院の火の粉が自分に及びそうにないことが、夕霧にはもっけの幸いだった。
だが、桜子と悠斗は、心配でならなかった。両者の雰囲気が険悪すぎて、朱雀院に新帖の手がかりを問うのも、はばかられた。それに、桜子は、鳥姿の朱雀院が気の毒だった。
「あのぉぉ、朱雀院さま、そのお姿では、ご不便ではないですか?」
と、桜子は、おそるおそるたずねた。
朱雀院は、右の翼を上げ、それを見やりながら、
『この手では、物がつかめませんね』
と、しょげた顔で答えた。
「いつから、そのお姿なのですか?」
桜子がそう問うと、朱雀院は言いよどんだあと、ポツリポツリと語りだした。
『いや、それが……。孫姫が念じられたからなのか、増長天さまのお力のおかげなのか、人界に現れ出たときは、このような姿ではなかったのです。目のまえが、いまのような朱色に変わったときに、こんな情けない姿になってしまいました』
朱雀院は、すがるような目を、増長天にむけた。だが、増長天は肩をすくめ、
『摩訶不思議なことでございますな』
と、他人事のように答えるだけだった。
――やはり法力が足りなかったんじゃないんですかね!?
光源氏は、あいかわらず心のなかで、へらず口をたたいた。
――それにだ、兄上だって、朱雀院と呼ばれているのだから、鳥のままでよいのでは? ククク。
光源氏は、あんがいに、根に持つ性格だ。相手が女性でない場合は、とくにそうである。
光源氏が朱雀院の鳥姿に同情していないことが、桜子には心外だった。
桜子の不満げな顔を見て、光源氏も、ようやく思い返した。今日の仁和寺詣の目的は、朱雀院をからかうことではない。朱雀院の助力も得て、源氏の新帖を見つけることなのだ。
光源氏は、
『兄上、もうしわけありませんでした。わたしの言葉がすぎたようです。朧月夜の女君も、結局は、わたしではなく、心の寛い兄上との暮らしを選ばれました。兄上には敵いません』
と言いながら、朱雀院に深く頭をたれた。
『光る君、お顔をお上げください。わたしの母である弘徽殿大后は、桐壷の更衣がお生みになった光る君のことを快く思っておられなかったが、それは母親どうしの問題です。わたしたちは、いつだって兄と弟です。兄弟が助けあうことを、わたしたちの父である桐壷帝も、心から願っておられました』
そう語る朱雀院の目からは、火の粉とともに、熱い涙がこぼれ落ちていた。光源氏は言葉たくみだ。人の心をつかむのに長けている。
火の鳥は、顔を上げた光源氏のまえに歩みより、火の粉をまき散らしている両翼で、光源氏の右手をやさしく包みながら、
『仁和寺にお越しになったのには、特別の理由がおありなのでしょ?』
と、柔和な声でたずねた。
――あ、熱いではないか、このアホ鳥が! 早く手を離さんか!
と、光源氏は心のなかで悪たれ口をたたきつつ、殊勝な顔で答えた。
『兄上のお心は、この両の手のように温かい。そのお心で、どうかわたしたちに、お力をお貸しください』
と、そのとき、
「わかった! きっと、ベクトルの法則が働いたんだよ!」
と、悠斗が大声をあげた。
――べくとる?
桜子も増長天も、みながみな、けげんな顔を悠斗にむけた。
悠斗は、
「桜ちゃんの念力のベクトルABと、増長天さまのベクトルBCとの和がベクトルACで、そのC点が、火の鳥なんだよ!」
と、ひとり悦に入って説明した。
光源氏は、名前を呼ばれてキョトンとしている火の鳥から、これ幸いと離れ、桜子に問いかけた。
『悠斗殿は、なにか効き目のありそうな呪文を唱えられたのでしょうか?』
「さぁぁ? きっと悠斗さんは、この世界の、とても難しい学問を修められたのでしょう。漢詩文よりも難しそうです」
と、困惑しながら桜子は答えた。
「悠斗さん、朱雀院さまが鳥になられた理由が、おわかりになったのですか?」
そうたずねる桜子に、悠斗は、おおきくうなずきながら、説明をつづけた。――
桜子が参道を歩きながら念じたとき、朱雀院が境内に出現したにちがいない。そのあと、夕霧たちが祈願して増長天が現れ、その法力が、桜子の発した力に合わさってしまい、朱雀院が鳥になるという、予期せぬ方向へ力が働いた。――
「そう思うんだけど……、どうかな?」
「きっとそうにちがいありません!」
桜子は、一も二もなく相づちを打った。
光源氏も、悠斗の考えが正しいのだろう、と思った。だが、いまだいじなことは、朱雀院を人間の姿にもどすことだ。源氏の物語を愛しているのかどうかの判断は、結局のところ、朱雀院の胸三寸で決まる。ここで朱雀院に恩を売っておけば、源氏の新帖につながる品が手に入りやすくなる、と光源氏は計算していた。光源氏は、人の心をつかむことだけでなく、かけ引きにも長けている。父の桐壷帝が期待したとおり、光源氏は凄腕の政治家なのだ。
光源氏は、火の鳥の目をやさしげにみつめながら、
『鳥になられた原因がわかれば、もとにおもどしすることもできますね』
と、他の者たちにも聞こえるように声を張りあげた。
「たぶん、増長天さまが霊宝館におもどりになれば、ベクトルの和の法則が解消されて……」
と悠斗が答えるや、われ関せずを今まで押しとおしていた夕霧が、勢いこんで話しにわってはいった。
『そうにちがいないです! それ以外に考えられません!』
そして夕霧は、増長天に深々と辞儀をし、右手を霊宝館の大扉へ指しむけながら、
『たいへんお世話になり、まことにありがとうございました。どうぞお早く、御本尊さまのもとにおもどりを!』
と、慇懃かつ早口に礼を述べた。
増長天は、おもむろにうなずき、
『そうだな。わたしの仕事は、源氏の新帖を無私無欲で探す者が現れたなら、朱雀院さまを人界にお招きすることだ。それはかなったのだから、あとは、朱雀院さまにお任せいたそう』
と言うや、戟を振りまわしながら大扉にむかって歩きだした。
夕霧は、安堵の表情を浮かべ、増長天の背中を見送った。
増長天が大扉のむこうに消えると、ギギーと音をたてて扉が閉まった。
すると、あたり一面が、また一瞬にして、朱色一色から多色の世界にもどった。火炎に代わり樹木や堂宇が現れ、桜子たちの目のまえには、霊宝館がもとどおりの姿を取りもどしていた。
火の鳥も、桜子たちが見守るなか、もとの朱雀院の姿に変わっていった。
「やはり、悠斗さんのお考えに、まちがいがありませんでしたね」
桜子は、笑顔で悠斗にそう言うと、法衣姿の朱雀院にむかって頭をたれた。
「あらためてもうしあげます。祖母が亡くなるまえに一度お会いいたしました。桜子ともうします。源氏の新しい話を世に出すことにつながる品を、朱雀院さまが祖母から預かっておられると、増長天さまからうかがいました。それをお譲りくださいますよう、お願いもうしあげます」
『ええ、よくわかっておりますよ。式部殿から、たいせつに預かった品です。源氏の物語を真に愛し、それに親しんでいる者に渡せと、仰せつかっています』
朱雀院は、桜子にそう返事すると、悠斗に歩みより、
『悠斗の君、と呼べばよろしいですか?』
と、声をかけた。
「あっ! あいさつが遅れ、すみません。武藤悠斗といいます。源氏物語の新帖を探す手伝いをしてます。おれからも、お願いします。桜ちゃんに、その品を渡してあげてください」
『ええ、よくわかっておりますよ。悠斗の君には、とくに礼を言います。おかげで、人の姿にもどれました。ですから、式部殿からの預かりものを得る栄誉を、悠斗の君に授けます』
「はぁ?………」
けげんな顔になった悠斗に、朱雀院が言葉をついだ。
『源氏の物語に、常日ごろ、どれだけ親しんでおられるのか、そのことを確かめる試験は、悠斗の君におこないましょう』
「えぇぇぇ、おれに!?」
悠斗はとまどった。文章の解釈など、難しいことをたずねられるにちがいない。自信がなかった。
悠斗は、すがるような目を桜子にむけた。源氏物語の内容には、自分より桜子の方が、ずっと詳しいはずだ。
だが桜子は、悠斗の動揺にまったく気づかず、
「よかった。悠斗さんに答えてもらえるなら安心です」
と、悠斗にほほえんだ。
そして真顔になって、光源氏に聞こえないように、小さな声で言葉をついだ。
「だって、光る君さまだと、心配ですもの……。おばあちゃまのお話を、ご自分の都合のいいように、ねじ曲げて考えておられるかもしれないでしょ」
――そりゃ、おれもそう思うけど……。
光源氏や夕霧は物語中の当事者なのだから、朱雀院の質問に答える資格は、はなからないだろう。だけれど桜子だったら、と悠斗は思った。
だが、桜子の、自分を信頼しきっている目を見た悠斗は、もうなにも言えなくなった。ただ胸のうちは、不安で一杯だった。
――もっと早く、一年生のうちから、勉強しておけばよかった……。
悠斗の不安をよそに、光源氏と夕霧も、悠斗がしっかり答えるだろうと考えていた。
『試験と聞くと、おまえが難なく合格した大学入学試験を思いだすな』
『はい父上。入学後にも、朱雀院さまの御所で、漢詩の作文試験を受けたことがございましたですね。それに合格してわたしは進士となりました。大学の君は、なんといってもわたしの後輩ですから、試験で立派な成績を修められるでしょう』
源氏親子ふたりの会話が、いやでも耳に入った悠斗は、ますます気が重くなった。
――そうだよな、夕霧さんはおれとちがって、超優等生だったんだよな……。平安時代のキャリア官僚だし……。
小さく溜め息をついた悠斗に、光源氏が話しかけてきた。
『この寺の境内に御所があると、湯葉丼の女房が言っておりましたね。夕霧にあやかって、そこで朱雀院さまから試験を受けるのがよろしいでしょう。悠斗殿、案内してください』
こうなればしかたない。悠斗は腹をくくり、桜子たち四人をつれて〈御殿〉へむかった。
だが、参道の途中で桜子たち四人が話しかけるたびに、その足取りは重くなった。
「悠斗さんだったら、簡単に答えられますね。べくとる、とかいう、とても難しい言葉や法則さえ、よくごぞんじなのですから」
――あれは数学の基礎で、古文の方が、よっぽど難しいんだけど……。質問が○×か四択形式なら、なんとか……、でも論述形式だろうな……。
そしてつぎは夕霧だった。
『朱雀院さまは、大学の君の答えをお聞きになって、きっと感心なさるでしょうね。後輩の博識ぶりが、わたしも楽しみです』
――うぅぅぅ、プレッシャーきつぅぅぅ。
さらに朱雀院がつづいた。
『悠斗の君であればよくごぞんじだと思いますが、夕霧の君が漢詩試験を受ける場面で、式部殿はわたしの容貌を、光る君と同じほどに、たいそうよく描いてくださいました。〈院も、いときよらにねびまさらせたまひて、御さまの用意、なまめきたる方に進ませたまへり〉――素晴らしい一文だと、お思いになるでしょ?』
――すみません。おれ、「よくごぞんじ」、ないです……。
そして光源氏が、悠斗だけに聞こえるように、ひそひそ声で話しかけた。
『夕霧が試験でよい成績を取ろうとしたのは、雲居雁ちゃんとの仲を、むこうの親に認めてもらいたかったからだと、わたしはにらんでいます。雲居雁ちゃんも、夕霧が自分のために一生懸命勉強し、しかも結果を出してくれたわけで、きっとうれしかったのでしょう。状況は悠斗殿に味方しているのですから、しくじらないように、いいですね』
悠斗は、グサリと、とどめを刺された。




