5-8
悠斗たち四人は、昼食後、食堂に隣接する休憩所にたちよった。境内ガイドなどの資料が置かれており、悠斗は、なん冊かそれらに目を通した。
平安時代の作で、現存する阿弥陀三尊像と、おなじく四天王像二体が、金堂から霊宝館に移されている。悠斗は、そのことをようやく知った。金堂には現在、鎌倉時代の仏像が安置されているらしい。紫式部が仁和寺に参詣していたとすれば、現在の金堂ではなく、霊宝館にある仏像たちに祈願したのだ。
悠斗からそのことを伝えられた桜子は、たちまち顔を輝かせた。桜子たちは霊宝館へ急いだ。
しかし霊宝館の扉は、かたく閉ざされていた。春と秋のそれぞれ一時期しか開館されないのだ。悠斗は、入り口でそれを知り、桜子たちに平謝りした。
「悠斗さん、気にしないでください。また秋に来ましょ。あっ、春にも来ましょうよ。桜が見られますよ」
くったくのない桜子の言葉に、悠斗は助けられた思いだった。
『孫姫、今度、仁和寺にわたしを呼びだすときは、直衣と指貫の色をよく考えてくださいよ。色目は、春だと、やはり桜襲がよいでしょう。秋の色目は、うーん迷いますね。でも、艶のない今様色は、ぜったいに駄目です!』
光源氏が、これもくったくなく桜子に話しかけている横で、夕霧は片方の眉を上げ、わざとらしくつぶやいた。
『父上は、明石の方や朧月夜の女君たちに会いに行くのと、勘違いされておられるのでしょうかね!?』
『うん? どうしたのだ、夕霧?』
『いえ、なんでもございません』
とぼける夕霧に、光源氏は、からかい顔でたずねた。
『おぬし、どうも疲れておるようだな。子どもの夜泣きで、よく眠れないのか? アハハ』
落葉の宮への浮気心で巻きおこった家庭騒動を揶揄され、とうとう夕霧の堪忍袋の緒が切れた。夕霧は両方の眉をつり上げ、
『父上とちがい、わたしは来世のことで物思いをしているのです!』
と、めずらしく大声をあげた。
夕霧は、それ以上、もうなにも言わなかった。光源氏に背をむけ、霊宝館の正面扉にむかって両手を合わせ、目と口をかたく閉じながら一心に祈った。
――どうぞ御本尊さま、もし新帖の〈雲隠〉帖をお持ちなら、孫姫さまにお譲りください。姫さまは、紫式部殿のお孫さまです。源氏の新帖を探しだすために、千年の時を越えてここに来られました。……そして、万が一にも、父上が極楽往生なされたと、そこに書かれてあるなら、孫姫さまが書き直すお気持ちになられるよう、お口添えください。孫姫さまが手直しされても、愛孫のなされることですから、式部殿は、けっしてお怒りにならないでしょう。
夕霧は目を開いた。そして、意を決したかのように、あらためて目をつむり念じた。
――もしも書き直しが無理であるなら、……新帖を、未来永劫、だれの目にも触れないよう、お持ちつづけください!
祈るまえに夕霧が発した大声に、桜子たち三人は驚いていた。だが、熱心に祈る夕霧の姿を見て、本尊をへだてる扉はけっして祈願の妨げになるものではないと、三人が三様に気づいた。
――夕霧さま、ありがとうございます。夕霧さまは、やはり、おやさしいうえに、頼りがいがあります。
桜子は、紫式部遺愛の数珠をバッグから取り出し、夕霧の横で同じように合掌した。
いっぽう光源氏は、
――さすが我が息子。なかなか立派だぞ。といっても、わたしには適わないだろうがな、
とばかりに、他の三人よりまえに出て、優美に両手を合わせた。
そしてその口は、
『ノウマクサンマンダボダナン……』
と、難解な真言陀羅尼を大声で唱えはじめた。
悠斗は、財布から五十円玉を一個取り出し、賽銭箱を目で探した。だが見あたらない。
――どうしよう……、
と悠斗が思ったとき、一瞬にして、あたり一面が半透明の鮮やかな朱色に染まった。
そして、草も木も堂宇も、一切合切すべてが、こなごなになって消えさった。四人のまわりには、もはや空と大地しかなかった。
天空には、巨大な火炎が渦を巻き、一羽の朱色の鳥だけが、全身から火の粉を発しながら、その渦のなかを飛翔している。
大地には、小さな火炎があちこちから立ちのぼるなかを、ただひとつ、霊宝館の大扉だけが、地面に突き刺さるように建っている。
驚きおびえる四人がみつめるなか、ギギーと低い音をたてて大扉が開き、むこう側から、全身まっ赤な仏像が一体現れた。熱気が、その体から吹き出しているようだった。
「阿弥陀さん!?」
と、悠斗が声をあげた。
『悠斗殿、それはちがいます。阿弥陀如来さまが、あのような甲冑姿のわけがありません。四天王のおひとりでしょう。戟を持っておられますから、おそらく増長天さまです』
「でも仏さんなのだから、おれたちを傷つけることはないですよね」
悠斗は、増長天の憤怒の形相に気づき、おそるおそる光源氏にたずねた。
『さぁぁぁ?、それはどうでしょうか。四天王は、邪鬼を退治する武人です。邪心を抱いてさえいなければ、問題はないのですが……』
光源氏は、おおきく脇へ退き、増長天と目を合わせないようにと、明後日の方向に目を泳がせた。悠斗は身がすくんだが、それでも勇気を奮いおこし、自分のうしろに桜子を隠した。
「きゃぁぁ、かわいいぃぃ!」
――えっ!?
悠斗は驚いた。桜子が、増長天を見やりながら歓声をあげたのだ。
――平安時代の女の子って、こういうの、見慣れてるんだろうか?
だが増長天は、そんな三人には一瞥もくれず、左手で戟を振りまわしながら、ゆっくりと夕霧にむかっていった。
夕霧は、あまりのことに尻餅をつき、その場で腰を抜かして立ち上がれない。『邪心を抱いてさえいなければ……』という光源氏の言葉が頭のなかをかけめぐり、迫ってくる増長天を見るその目は、おびえきっていた。
増長天は、戟の切っ先を夕霧の眉間にむけ、おもむろに口を開いた。
『仏法を守護するこの増長天が、御本尊の阿弥陀如来さまに代わって、邪心なき願いであればひとつかなえよう。なにを望むのか?』
夕霧はゴクリと空唾を飲みこみ、唇をわななかせ、やっとのことで声を絞りだした。
『もし〈雲隠〉帖をお持ちなら、……そ、そ、そこになにが書かれていようと、孫姫さまにお譲りください!』
『まちがいなく、それを望むのだな』
『は、はい』
夕霧は、目に涙を浮かべながら、小さくうなずいた。
増長天は、
『わかった』
と力強く答え、右手を、夕霧の目のまえに差しだした。
その手のひらに、〈雲隠〉帖が現れるにちがいない。桜子も悠斗も、そして光源氏も夕霧も、みながそう思った。桜子たちは、固唾をのんで待ち構えた。
だが増長天は、
『どうした? 早くわたしの手を取れ!』
と、右手を差しだしつづけるだけだった。
夕霧がおそるおそるその手を取ると、増長天はグイと夕霧を助け起こし、
『〈雲隠〉帖など、持っておらんわ、ワハハ』
と、高笑いした。
笑い声は出しても、増長天の顔は、あいかわらず憤怒の形相だ。
『そなたたち、そんな怖そうにわたしの顔を見るな。この顔は、生まれついてのものだから、しかたないのだ、ワハハ』
だが桜子だけは、頬をゆるめて増長天を見ていた。
桜子は、声もろくに出ない夕霧たちを尻目に、しっかりとした声で増長天にたずねた。
「わたしは紫式部の孫の桜子ともうします。石山の観音さまのお力で、千年の時を越えて、この世界にやって参りました。お教えください。〈雲隠〉帖をお持ちでないということは、祖母は仁和寺に参詣しなかったのでしょうか?」
『いや、いや、式部殿はおいでになられましたぞ。〈西山なる御寺〉の、ここ仁和寺に縁があるという、源氏の物語のなかの人物をひとりともなわれてな。春とは名ばかりの、寒い日であった。そして、阿弥陀如来さまにではなく、他の四天王にでもなく、このわたしに祈願された。だが、〈雲隠〉とかいうものを預かって欲しい、という願いではなかった。源氏の物語を愛し、その新帖を世に出すことを無私無欲で願う者が現れれば、その者に手を差しのべて欲しいと、そう祈願されたのだ』
そして増長天は、夕霧に顔をむけ、言葉をついだ。
『身勝手な思いから改ざんしようと企む者の手に新帖が渡りませんように。式部殿はそのようにも願っておられた』
いまにも泣きだしそうな顔になった夕霧のよこで、桜子は顔を輝かせていた。
――悠斗さんが仰ったように、仁和寺が〈西山なる御寺〉だったのだわ。よかった。
桜子が悠斗の横顔をうかがうと、悠斗も桜子に顔をむけた。増長天のやさしげな口調で、悠斗の緊張の糸も、ほぐれつつあるようだった。
増長天は、目を閉じ顔を天空にむけながら、さらに話しつづけた。
『なぜ式部殿がわたしを頼られたのか、わたし自身もわからない。だが、わたしに祈願する人は少ないものだから、たいそううれしかった。そのときから、もう千年以上になる。開山当初の金堂が応仁の乱で焼け、その後あちこちの堂宇を転々とし、いまは霊宝館に移っても、わたしはこの御室の地で、源氏の新帖を探そうとする人間がやって来るのを、ずっと待っていた』
増長天は目を開き、桜子をまっすぐみつめた。
『そして今日、そのような者たちが、ようやく現れたようだな。――そなたが握りしめている数珠は、式部殿がわたしに祈願されたときに持っておられたものだ。そのうえ、そなたは式部殿と同じ力を持っているようだ』
増長天は、源氏親子を横目でにらみつけ、口もとをゆるめた。そして、あらためて桜子を正面からみつめ、穏やかな声でたずねた。
『そなたは、まがうことなく、式部殿の孫姫なのだろう。だが、源氏の新帖を世に出すことを、邪心なく願う者なのか?』
そして間髪入れず、増長天は悠斗にむきなおり、戟の切っ先をその眉間にむけながら問うた。
『信心深くも賽銭箱を探していたおまえは、その同じ心で、源氏の物語に親しみ、それを深く愛しているのか?』
桜子は、
「はい」
と、キッパリした声で答えた。
しかし悠斗は、ためらった。源氏物語は好きだけれど、精通しているわけではない。夕霧が詠んだフジバカマの和歌だって知らなかった。そんな自分が、桜子のように「はい」と答える資格があるのだろうか? 悠斗は、そう思わずにおられなかった。
――それに、「はい」と答えて、嘘だと思われたら、この仏さん、すごく怖そうだし……。
だが、悠斗の逡巡は、いっときだった。桜子のためだ。ひるむわけにはいかない。
「おれも源氏物語が好きです。いまはまだ勉強中だけど、原文でも読めるようになりたいと思ってます。それにおれ、これから一生懸命、若紫餅も売ります!」
『?………。なんだ、その若紫餅というのは?』
いぶかしげな面持ちの増長天に、悠斗は勢いこんで答えた。
「おれの祖父ちゃんと祖母ちゃんが作ってる餅です。餅だけど、これも源氏物語だと、紫式部ならきっと思ってくれるはずです!」
『ワハハ、おまえ、なかなかおもしろいことを言うな。よし、おまえも源氏の新帖を探す資格がありそうだ』
鮮やかな朱色の世界で、増長天は桜子たちに、式部が祈願した中身を、あらためて語りだした。
『式部殿が、出家姿の見知らぬ御方といっしょに金堂へ入ってこられたのは、昼まえのことであった。そして式部殿は、その御方とならんでわたしのまえにお座りになり、こんなことを祈願されたのだ――何十年か何百年か先の世に、源氏の新帖を探し求める者が、物語の縁をたどって仁和寺に現れるかもしれない。その者が、源氏の物語に深い愛を注いでいるなら、新帖探索の手がかりになる品を得られるように差配して欲しい。――式部殿は、そのように念じられたあと、連れの御方が朱雀院さまだと明かされた。式部殿は、石山の観音のおかげで、生き人形を呼びだす力を手にされたそうだ。だが、その力も、ご自身の体とともに果てるだろうから、新帖を求める者が現れたなら、この増長天が朱雀院さまを人界に招いて欲しい、とのことだった。その者が源氏の物語に常日頃から親しんでいるのかどうか、朱雀院さまにご判断いただこうと、お考えになられたようだ。たしかに、もっともなお考えだ。わたしは、物語の中身を、よく知らないからな。ワハハ。知っていることといえば、あちこちで女君を哀しませた男が、齢を重ねてから、ようやく仏道に励み極楽往生を願った、ということぐらいだ。まにあったのかな? ワハハ』
増長天は、高笑いしながら、その鋭い眼光を光源氏にむけた。光源氏は、だれのことだ、とでも言いたげな顔をしたが、夕霧は、わが意を得たとばかりに、ようやく口もとをゆるめた。
〈雲隠〉帖そのものではないにせよ、新帖につながる大きな手がかりが得られそうだった。桜子と悠斗は、顔を見あわせてほほえんだ。
そして悠斗が、増長天に顔をむけ、
「新帖の手がかりとなる品を、増長天さまがお持ちなのですか」
とたずねた。
『いや、わたしはなにも持っておらぬ。その品は、式部殿がわたしの目のまえで、朱雀院さまに託された。布袋に包まれていたので、中身はわからなかった』
「それで、朱雀院さまは、仁和寺のどこにおられるのでしょうか?」
桜子がそうたずねると、増長天の憤怒の形相のなかに、困惑が表れた。
『それがな、不思議なのだ。お姿を現されますようにと、霊宝館を出る際に念じたのだが、いっこうにお見えにならない。どうされたのだろう?』
桜子も、増長天と同じように不思議だった。悠斗たちと境内に足を踏み入れてすぐ、金堂脇にお越しくださいと念じたのに……。
――鞍馬寺での光る君さまのように、のんびりと散歩でもしておられるのかしら?
だが、光源氏にとっては、不思議なことではなかった。
――あんたの法力が足りないだけじゃないの?
と、心のなかで増長天に憎まれ口をたたいていた。多彩な女性遍歴と仏道修行の、相反する姿がからかわれたことを、根に持っていたのだ。
だが、口に出すことはなかった。なにせ相手は、邪鬼さえ踏みつける怪力の持ち主だ。怒らせると怖い、と光源氏は考えていた。
夕霧は、新帖探索のことさえなければ、朱雀院に会いたくなかった。
――落葉の宮とのことを、なにか言われそうだな……。
夕霧は、愛情の押しつけが巻きおこした騒動を思いだし、胸が痛くなってきた。
――父上がなさる懸想は、相手の女君を苦しめるだけなのに、わたしときたら、自分が苦しくなる……。父上だって、女三の宮さまを、わたしよりもウーンとたくさんおありの妻妾のひとりに迎えた挙げ句、出家に追いやってしまい、朱雀院さまを嘆かせたはず。朱雀院さまに合わせる顔がないだろうに……。父上は、わたしとちがって鉄面皮なのだろうか。そういう方が、気楽だろうな。ふぅぅ、わたしは、いつも損な役まわりだ。
光源氏の極楽行きにくわえて、夕霧の嘆きは尽きなかった。




