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桜子と速仁、悠斗の三人が初めて顔を会わせたその夜、武藤潤一郎は、京都御苑近くのホテルにいた。
武藤家の系譜は、遠く鎌倉時代にさかのぼる。藤原兼隆の子孫が承久の乱後に国司として武蔵国に赴任し、その地の有力武士団だった一豪族と縁戚を結んだのが始まりである。この豪族が、中央貴族である藤原氏との繋がりを誇示したいがために、武蔵に移ってきた藤原という意味で〈武藤〉を名乗るようになったのである。
兼隆が千年後の子孫に宛てて書いた手紙は、こうして京都から関東へ運ばれ、代々の武藤家当主に伝えられたのだった。
銀杏の葉の文様を結束の印とする秘密結社も、武藤家当主を中心にして、日本政治の裏面で、途切れることなく活動してきた。この結社は、明治時代に入ると黒銀杏会と称するようになり、現在も、潤一郎が会長を務める医療グループ〈銀杏コーポレイション〉が提供する潤沢な資金とサービスを武器に、政界・財界・官界に少なからぬ影響力を保持している。潤一郎は、各界の有力者むけに、臓器の不法移植と代理母出産を闇で斡旋し、こうした顧客が、黒銀杏会の操り人形となるのだった。
潤一郎は、一年まえから、次期参議院選挙の出馬準備を進めてきた。政権政党の比例代表名簿に登載される目処をつけ、いまは、カリスマ医師としてテレビのバラエティー番組に出演し、大衆のあいだで名前と顔を売りつつある。こうした闇医療と選挙工作の一切を統括しているのが、三田が室長代理を務めている医療情報戦略室だった。
潤一郎が武藤家に代々伝わる桐の小櫃の封を解いたのは、およそ一か月半まえの、七月一日のことだった。開封するよう小櫃に墨書されていた当日である。
そして、小櫃のふたを外すと、銀杏の葉の文様が施されている蒔絵の手箱が、千年の時をへだてて現れたのだった。
そのなかに納められていた手紙は、古典籍鑑定人によると、紙の種類と書体からみて、平安時代中期に書かれたものだった。藤原兼隆なる人物が署名していることと、その文面とを鑑定人から伝えられた潤一郎は、約束以上の鑑定料を渡し、けっして口外しないように厳命した。
潤一郎は、武藤家の系譜を遠くさかのぼると藤原兼隆の名前があることを、よく承知していた。兼隆の妻のひとりが、紫式部の娘の藤原賢子であることも、武藤家の人びとのあいだで、誇らしげに言い伝えられてきた。
その兼隆からの手紙は、桜子という娘が石山の観音によって、千年後の石山寺に送られたことを伝えるものだった。紫式部が源氏物語の新帖を京都の某所に秘匿し、それを孫の桜子が探しだそうとしているという。兼隆を総帥とする結社が、道長ら藤原氏嫡流による腐敗した政事を正そうと奔走しており、新帖が流布すれば、その努力が水泡に帰す、とも書かれてあった。新帖が日の目を見ないよう兼隆が取り計らったにもかかわらず、事情を知らない桜子が、千年先の未来から新帖を持ち帰って世に出そうとしている、というのだ。手紙の最後は、新帖の発見を阻止するか、さもなければ、新帖を闇に葬って欲しい、と結ばれていた。
潤一郎は、手紙の内容に半信半疑だった。タイムワープという話しがうさん臭いうえに、新帖の内容への言及がないことも気になった。文面通り受けとらない方がよいだろう、と潤一郎は感じた。それに、潤一郎にとっては、千年もまえの時代の先祖や政治など、どうなろうと構わなかった。
だが、手紙に書かれていることが半分でも真実であれば、源氏物語の新帖を手に入れられるかもしれない。武藤家の系譜を紫式部にさかのぼらせ、本宅の蔵から新帖が発見されたことにすれば、潤一郎は一夜にして有名人になれる。なにせ紫式部の自筆なのだ。世界遺産級の文化財である。それを国か公共団体に寄付すれば、篤志家としての顔も売りだせる。選挙の勝利は確実だ、と潤一郎は計算した。
潤一郎は三田と対策を練った。結論は簡単に得られた。桜子を監視下に置き、新帖が発見されれば、それを詐取すればよい。そしてそのために、息子の悠斗を利用することにした。日本史と日本文学が好きで、人のよい悠斗のことだ、身よりのない桜子を鞍馬の実家に住まわせ、新帖探索に協力する可能性が高いだろう、と潤一郎は考えた。
こうして、桜子が千年まえの世界からタイムワープしてくるはずの八月十六日が来る。潤一郎は悠斗を石山寺に呼びだし、自身は東京で三田からの連絡を待った。その三田は、直属の部下である高田をともない、石山寺の本堂まえに昼まえから待機していた。そして、兼隆の手紙に書かれていたように、桜子が本堂の簀子縁に突如として現れたのである。
その後の経過は、潤一郎の読みどおりだった。桜子は今、悠斗とひとつ屋根の下に暮らしている。あとは、悠斗と桜子の動静を監視していればよいのだ。
潤一郎は、悠斗と桜子が四条河原町で買い物を終えたころ、京都駅で三田の出迎えを受け、三田の運転する車でホテルに入った。三田は日中、これからの京都での本格的活動に必要となる、住居や事務所、車の確保などの雑務を、手際よく進めていたのだった。
ホテルのロビーでは、出町柳から歩いてきた高田が、ふたりの到着を待ちかまえていた。
潤一郎は、三田と高田をつれてホテル内のレストランで夕食をとったあと、上機嫌でふたりをラウンジバーにも誘った。
高田にとって、会長と親しく酒を飲むのは初めての経験だった。緊張のあまり、無言でグラスを口に運びつづけた。やがて眠気に襲われ、潤一郎と三田がかわしている話の内容が、よく理解できなくなってきた。
だが高田は、「藤原桜子さんを見張るためにも、事務所は、やはり出町柳に置くのがよいかと思います」という三田の言葉で目を覚ました。そして勢いこみ、
「はい! 出町柳は、すばらしい場所です!」
と、口をはさんだ。
三田は眉をひそめて高田を見たが、あいかわらず機嫌のよい潤一郎は、おうように相づちを打った。
「そうか、高田君もそう思うか。出町柳からだと、大阪の中心部へも電車で乗り換えなしで行けるからな」
高田は、キョトンとした顔をしたあと、何事もなかったかのように頬をゆるめ、またグラスに手を伸ばした。
そんな高田に、三田はますます眉をひそめた。
グラスを片手に小一時間ほどすごし、潤一郎は、
「明日は鞍馬だな。三田君は今夜、このホテルに部屋をとって泊まりなさい」
と言って、席を立とうとした。
「はい、かしこまりました」
そう答える三田のとなりで、高田が、
「あのぉぉ、会長、わたしはいかがすればよろしいでしょうか?」
と、情けなさそうな顔でたずねた。
「高田君は、まだしばらく素性を伏せながら悠斗たちの監視をつづけてくれたまえ。今夜は鞍馬にもどってくれて結構だよ」
「はい……」
そう返答するしかなかった高田の顔は、ますます暗くなっていった。
「それじゃ三田君、明日九時にロビーで落ち合おう」
潤一郎はそう言い残してラウンジバーを立ち去った。
「どうした? まだ鞍馬にもどらないのか?」
三田が、となりでうなだれている高田に冷たく声をかけた。
「………。おれ、もう一杯飲もうかなぁぁ」
高田は、空のグラスを握りしめ、それをみつめながら、ボソリとつぶやいた。
「明日の仕事に差しつかえるぞ。それに、早くもどらないと、温泉が閉まるんじゃないか?」
そう言って三田は、口の端を上げた。
「あっ、温泉だ!――でも、ひとりで入ってもな……。やっぱり温泉は、修学旅行みたいに、みんなとガヤガヤ入るから楽しいんじゃないですか!」
「騒いだら、他の客の迷惑になる」
「はいはい。先輩は、おれとちがってエリートですからね。仰ることが、はい、ご立派です」
「おまえ、さっきからいつも以上に変だが、もしかして酔っているのか?」
「会長はおれに冷たいです! こんな遅くに、ひとりで鞍馬にもどれなんて、ひどいと思いませんか!?」
高田は悪酔いしはじめていた。
「わかったから、それ以上言うな。今夜は、おまえもこのホテルに部屋をとれ。会長には、おれと遅くまで打ち合わせがあった、と説明しておく」
「やったぁぁぁ。先輩って、ほんと、頭が切れますよね」
「幸い、おまえとちがってな」
「アハハ! おれ、バカですから。アハハ!」
「それがわかっているなら、まだ酔っていないわけだ。一杯でも二杯でも頼めばいいぞ!」
「はーい。先輩って、チョーやさしぃぃ! おれ、どこまでも先輩に、ついていきまーす」
三田は、さっさと高田を酔いつぶして部屋に放りこもうと考えていた。
そんな三田の思惑に気づかない高田は、カクテルメニューをうれしげにながめている。
「先輩、さすが京都ですね、抹茶リキュールを入れた、〈ヒロマサ〉って名前のカクテルがありますよ。ネーミングも、なんか、純和風でカッコいいですよね。おれ、このヒロマサにしよーと」
「ペアになっている〈セイメイ〉も飲んだらどうだ?」
「〈ヒロマサ〉と〈セイメイ〉? なんのことです?」
「陰陽師の安倍晴明と、その友人で笛の名手の源博雅のことだ。このホテルは、安倍晴明の屋敷跡に建っているから、カクテルにそういうネーミングをしたのだろう」
「へぇぇ、先輩って、ほんと、物知りですよね」
「おまえとちがってな」
間髪入れずそう返した三田は、わずかにハッとした顔になって言葉をついだ。
「おい高田。今回の出張に備えて、おまえも、平安時代の京都のことを調べたのだろうな」
高田は無言で、にこにこ顔を、なんどもよこにふった。
「平安京の勉強はともかくとしてでもな、明日から、いまの京都の地理をまずはしっかり勉強しろ」
「はーい! 勉強しまーす。源氏物語も、勉強しまーす、ハハハ」
「高田、声が大きいぞ。他の客の迷惑になる。〈ヒロマサ〉と〈セイメイ〉でいいんだな?」
高田はふたたびにこにこ顔を、こんどはたてにふりつづけた。新しいカクテルが届くまえに、もう酔いつぶれそうだ。
高田が半分寝ながらカクテル二杯を待っているとき、店内の最奥のテーブル席にひとりで座っていた女性も、ウエイターにカクテルを注文しようとしていた。
「お待たせいたしました」
『もう一杯いただこうかしら。今度は、〈セイメイ〉をお願いね』
「はい、かしこまりました」
その女性の目は、カラーコンタクトをしているかのように、金色に輝いていた。




