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当代きっての陰陽師である安倍晴明は、そろそろ引退を考える歳になっていた。それでも、宮中の公務だけでなく、藤原道長など公卿から私的依頼が引きもきらさず舞いこみ、多忙な日々をすごしていた。
晴明は、白狐の腹から産まれた輩だという噂が絶えず、公卿たちから後ろ指をさされていた。しかし、そのような生まれであるから呪術に長けているのだと、公卿たちは頼りにもしていたのである。
晴明の屋敷は、北から南へ流れる堀川と、東西を結ぶ一条大路とが交叉するあたりにあった。屋敷には結界が厳重に張られ、晴明の部下である式神でなければ、物の怪は一歩たりとも立ち入れない。
その屋敷の母屋で、さきほどまで紫式部を脅していた物の怪が、晴明をまえに頭をたれて座っている。
白肌の、妙齢な女性姿のその物の怪は、晴明が操る式神のなかでも最高位にある十二天将のひとり、大陰だった。武闘力ではすべての天将に劣るが、智恵にかけては随一無比の存在。晴明は今回の任務を託すのに、迷わず大陰を選んだのだった。
「式部殿はご健勝であられたか?」
『はい、晴明さま。仰せどおりに、書き物をしておられました。かたわらには、たわいない光源氏の生き人形がおりました』
「ほぉぉ! 式部殿が形代と語りながら物語を紡いでいるという、仏神界での噂は、まことだったのだな。これはおもしろくなってきた。――して、首尾はいかがであった?」
『源氏の物語の新しい帖を「世に問うな」という、当方の真意は正しく伝わったようでございます。下書きを灰にしたあと、鵺鳥に姿を変え、邸内の暗闇にまぎれて見張っておりましたところ、式部殿は成案らしきものを書きはじめられましたが、何十年か何百年先、遠い将来に日の目をみればそれでよいと、仰せでした。また、脅しはいたしましたが、お言いつけどおり、手荒なことをするまでもございませんでした』
「そうか、ご苦労であった。もう休むがよい。若い女人姿でおるのは、疲れるであろう。アハハ」
大陰の白い頬に、ほんのり朱がさした。大陰は、その頬を隠すように一礼し、一条戻橋とよばれる、堀川に架かる橋の下へ急いだ。式神は、暗い水のそばをながく離れていては十分に活動できない。それは、十二天将でも変わらないのである。
――さて、それでは報告にまいろうか。この歳になれば公の仕事だけでも疲れるというのに、公卿たちは身勝手な依頼を始終持ちこんでくれることよ。
晴明は大陰がたちさったあと、心のなかでそう愚痴をこぼしながら、もうひとりの十二天将を呼びだした。
そして晴明は、それに供をさせ、まだ夜明けに遠い都大路を南へ下って行った。
安倍晴明がむかった先は、三条大路にある藤原兼隆の屋敷だった。元関白の父から遺された屋敷だけあって、式部や晴明の屋敷より、はるかに広壮である。調度品も、唐渡りの高価なもので占められている。兼隆は寝殿内の母屋に晴明を招き入れ、家人を遠ざけてふたりきりで対面した。
「明朝にお伺いしようかとも思ったのですが、殿がお急ぎのようでしたので、夜分ご迷惑をかえりみず、ご報告に参上いたしました」
深々と頭を下げつづける晴明に、兼隆は、
「いやいや、こちらこそご迷惑をおかけもうした。さぁ、頭を上げられよ」
と、人のよさそうな声をつくって返した。
「ご用命の件、しかと片付けましてでございます。源氏の物語は、五四帖のほかはけっして書かれることはございません」
晴明は、頭を浅く下げたまま、簡潔に報告をすませた。
「そうか、かたじけない。もちろん、式部殿を傷つけてはおらんでしょうな?」
「はっ、たしかに」
――たしかに、体は傷ついてはいないさ。だが、心までは知らないぞ。大陰が上手く取り扱ったはずだがな。いったい、姑にあたる式部殿の思いをねじ曲げて、なにを考えているのだかコイツは。式部殿が源氏の物語を書いたおかげで、おまえの、いまの地位があるのだぞ。わけのわからない頼みを持ちこみくさって……。
兼隆を食えないヤツだと思う晴明だったが、顔と言葉は、いたってへり下っている。
「ところで殿、おさしつかえなければ、なぜ源氏の物語の続編を読みたいとお思いになられないのか、わたくしめにお教えいただけませんでしょうか」
晴明のその問いかけに、兼隆はわずかに眉をひそめた。下官が分をわきまえず口出しをしてきたと、腹立たしかったのである。
だが兼隆は、あいかわらず屈託のなさそうな声をつくって返した。
「じつはな、ある方から、せっかくの傑作に尾ひれをつければ、かえってその価値が損なわれるのではないか、と言われたのだ。やたらに長い、うつほの物語という悪い前例もあるから、それがしも心配になったのだ。式部殿は、そなたも知ってのように、たいせつな姑殿であるから、面とむかってご意見するのがはばかられてな。お察しくだされ」
晴明は、
――ふん!、下手な嘘を、
と心のうちであざけりつつ、あらためて深く頭をたれた。
「これは失礼なことをもうしあげました。ひらにご容赦くださいませ」
晴明が退室のあいさつをすませ立ち上がろうとしたとき、兼隆は、なにげなさそうに一言添えた。
「そういえば、ご子息おふたりも陰陽寮でご活躍だと聞いております。ご昇進も近いようですな」
晴明はふたたび、いんぎんに低頭した
「おほめの言葉、まことにありがとうございます。愚息たちのこと、よろしくお願いもうしあげます」
――餌を与えれば尻尾を振って働くと思っていやがる。ほんと、食えないヤツ。餌はもらっておいてやるが、おまえの頼みどおりに取り計らったわけではないぞ。式部殿は源氏の新しい物語を、世に伏せるにしても、書きあげられるにちがいないからな。
晴明は、自邸にもどる道すがら、源氏の物語の新帖が、一刻も早く完成することを願うのだった。
――何十年か何百年さきか……。生きているあいだに読むことはかなわないだろうな。だが、神に祀りあげられれば、だれかが新帖を奉納してくれて、読めるかもしれん。この国では人間が、怖れられるか感謝されるかで、神になれるのだからな。明日からまた老体にむち打ち、懸命に働くとするか。
晴明が自邸の門をくぐったとき、東の空がわずかに明るくなりはじめていた。