5-3
春恵と一治が寝室にしりぞいた鞍馬堂では、悠斗が自室でひとり、偽書『源氏物語雲隠六帖』の読解に取り組んでいた。そのなかの一帖〈雲隠〉によれば――
光源氏は、紫の上が死んだ翌々年の正月一日未明に主邸の六条院を抜けだし、異母兄の朱雀院が出家して籠もっている西山の御所へ入った。朱雀院から歓迎された光源氏は、ときおり嵯峨院や六条院、二条院などの自邸に姿を現すが、ほとんどの月日を、仏道修行しながら朱雀院と語り暮らしたのだった。三年後に朱雀院が死に、その翌年、光源氏はついに出家した。紫の上の七回忌の年だった。さらにその十三回忌の年、光源氏は奥嵯峨野で、空中にかき消えるように死んだという。
ここまで読みすすんだ悠斗は、もし紫式部が〈雲隠〉帖の中身を書いていたとしたら、その舞台は、嵯峨野を中心とした、京都の西郊である可能性が高いと感じた。そして、その帖の秘匿場所も、やはり、そのあたりの寺社なのだろうと考えた。
悠斗は、手元にあった源氏物語解説本にも、あらためて目を通した。それによれば、〈若菜・上〉帖において、出家後の朱雀院が〈西山なる御寺〉へ移り住んだことが語られているという。そしてその寺は、現存する仁和寺に比定されていることを知った。
偽書〈雲隠〉帖が嵯峨院なる建物を取りあげた理由もわかった。紫式部が実作した〈宿木〉帖のなかで、光源氏が〈嵯峨の院〉において出家したと書かれているのだ。そしてこの嵯峨院は、〈松風〉帖に登場する〈嵯峨野の御堂〉という寺であることもわかった。この寺は、現在の清涼寺だと考えられているらしい。
――それじゃ、紫式部は仁和寺か清涼寺に、〈雲隠〉帖を隠したんだろうか? でも、源氏物語では、嵯峨野の有名な神社も舞台になってるし……。
悠斗は、話に聞いているだけで行ったことのない野宮神社のことを考えていた。嵯峨野観光の中心地のひとつである。〈源氏物語の宮〉だと宣伝され、縁結びの神さまとして、若い女性から絶大な人気を得ている神社だ。
――それに、源氏物語には登場しないけど、たしか法輪寺も、平安時代からあったよな……。
悠斗が思いうかべたもうひとつの寺は、桂川をはさんで嵯峨野に隣接する嵐山地区にある。〈十三詣り〉で有名な寺だ。京都を中心に関西で盛んな十三詣りは、十三歳の厄難を払い、智恵も授けてもらうために、虚空蔵菩薩に祈願する行事である。
悠斗にとって、この十三詣りは忘れられないできごとだった。数え年十三の春三月、小学校の卒業式に先立って、わざわざ東京から両親に連れられて法輪寺にやって来た。京都生まれ京都育ちの母が、法輪寺での十三詣りに強くこだわったのである。春恵と一治も、病身の娘を気遣いつつ、いっしょに参詣した。
十三詣りでは、自分がたいせつに思う漢字一文字を毛筆でしたため、祈祷を受ける。悠斗は、京都へむかう新幹線の車中で母からそのことを伝えられ、法輪寺に着くまで、どの字にしようか考えつづけた。力、心、大、真……。たどたどしい手つきで悠斗が紙に書いたのは、〈健〉だった。
その日、十三詣りを終えた悠斗たちは、京都駅へもどるまえに、法輪寺からタクシーで五分ほどの清涼寺に立ち寄った。春恵が、本尊の釈迦如来像にもお詣りしたいと言いだしたのだ。生前の釈迦の姿を写したとされるその像は、日本三如来のひとつに数えられ、病気平癒はもちろん、効験の高い霊像として広く信仰されているのだった。
「悠斗さん、お部屋に入ってよろしいでしょうか?」
桜子が廊下から声をかけたとき、悠斗は、法輪寺で授かった御守りと、春恵が清涼寺で買い与えてくれた御守りを、手のひらの上に置いてみつめていた。
「ああ、いいよ」
悠斗は、御守りを勉強机の引き出しのなかにもどしながら返事した。
桜子は部屋に入るとまっさきに、ガイアのポスターのまえにむかい合って座り、居ずまいをただして頭をたれた。
――?………。
悠斗は、桜子がした辞儀の意味がわからなかった。ただ、ポスターを片付け忘れていたことを悔やんだ。
――今晩中にベッドの下に入れておこう……。でも、桜ちゃんはガイアが気にいったのかな? 平安時代の女の子は、現代の子と好みがちがったりして……。
ユルトラオムや怪獣の話をしても桜子なら気味悪がられないかもしれない。期待半分でぼんやりと考えていた悠斗に、桜子はむきなおって声をかけた。
「悠斗さんのご衣裳を仕立てますので、背丈などを測らせてください」
「………」
「悠斗さん、どうなさったのですか?」
「………」
「悠斗さん!」
「あっ、ごめん。ちょっと考えごとしてたから……。おれの背丈とか腕の長さとかだよね」
悠斗は、ベッド横の整理箱のなかから巻き尺を取り出し、使い方を桜子に教えはじめた。すると、――
「あれ? 地震かな?」
部屋の家具が、かすかに振動した。
そして揺れが収まるや、桜子と悠斗の目のまえの虚空に、とつじょ人の姿が現れた。
速仁だった。
「やっぱり生きていたんだ! よかった、……よかった……」
速仁は言葉がつづかなかった。桜子をみつめながら、右手の甲で涙をぬぐうことしかできなかった。
桜子も、目をまるくして速仁をみつめるばかりだった。
「桜ちゃん、この子は、もしかして匂宮?」
悠斗は、源氏物語の人物が現れたのだと思ったのだ。
「こいつ、だれだよ!?」
速仁は、ぶっきらぼうに桜子にたずねた。桜子の横に、自分よりいくつか年上の男が座っているのが、気にくわなかった。子ども呼ばわりされたことにも腹がたった。おまけに、桜子が名前を明かしているなんて……。桜子から信頼されている男なんだ、と速仁は思った。
「えっ!? あっ、悠斗さんよ。武藤悠斗さん……。そっ、そんなことより、どうして宮ちゃんが、ここに? あっ、もしかして宮ちゃんも、別の火事で死にそうになって、観音さまにここへ送ってもらったの?」
「えぇぇぇ! それじゃこの子も、平安時代からタイムワープしてきたの!?」
悠斗は大声をあげた。
「悠斗さん、声が大きいです。おばさまたちが、目を覚まされてしまいます」
「そ、そうだね。ごめん」
「あのな、桜ちゃん」
速仁は、横目で悠斗をときおりにらみつけながら、千年の時空を超えてきた事情を話しはじめた――
桜子が石山寺で火事に巻きこまれた翌朝のことだ。速仁は、御影堂に仮安置されていた本尊と胎内像五体に、桜子との再会を祈願した。そのときに霊験は現れなかったが、祈願は聞きとどけられ、時間と場所を越えて桜子に会えることが実現したのだ。だが、勉強した時間のぶんだけしか、速仁は桜子のいる世界に留まれないらしい。持仏にした末っ子観音の金銅像が勉強の監視役で、いつ時空を超え、そしていつもどってくるかも、その金銅像が決めるという。このたび時空を越えるとき、源氏の新帖を見つける手助けをするように、とも言われた。
「あの小さな観音さまは、そりゃ、桜ちゃんの命の恩人だし、おれの願いも聞きいれてくれたから感謝しているよ。でも、ちょっと、けちくさいよな。桜ちゃんといっしょにもどることができないんだって。それに、おれが桜ちゃんに会えることは、惟清以外の者には秘密にしろ、って言うんだよ。乳母ちゃんにも内緒にしろだって。桜ちゃんのようすを聞けたら、乳母ちゃん、安心するだろうにね。ほんと、けちくさいよな……」
観音にぶつぶつ文句を言いはじめた速仁に、桜子は、ガイアのポスターを見るように目配せした。
「んっ? なに? どうしたの桜ちゃん?」
桜子は、火事の煙のなかでしか金銅像を見なかったので、ガイアを観音だと思いこんでいる。だが、何時間も金銅像を見つづけていた速仁はちがう。そのうえ速仁は、悠斗の部屋のなかの物に、目がむかなかった。桜子の顔ばかり見ていた。桜子はなんども目配せしたが、速仁はキョトンとするばかりだった。
「宮ちゃんは、ほんと、頭だけじゃなく口も悪いんだから! 罰が当たるわよ!」
「それ、どういう意味だよ! こんなに桜ちゃんのことを心配してやっているのに!」
「わたしだって、宮ちゃんを心配しているから、口を慎みなさいって、言ってるの。わかった!?」
「全然わからない!」
速仁は、ふて腐れはじめた。おまけに、桜子の横に座っている悠斗が、さっきまでの仰天顔から、にこにこ顔に変わっているのだ。
「おまえ、なんで笑っているんだよ!」
速仁は、不満の矛先を悠斗にむけた。
「宮ちゃん! 悠斗さんに、なんて口のきき方をするの! 悠斗さんは、わたしの恩人なのよ!」
「だって……」
速仁は、今度は涙声になってきた。
「君は、一宮っていうんだろ? 桜ちゃんから君のこと聞いてたよ。おれ、君のことバカにして笑ってるわけじゃないよ。桜ちゃんとしゃべってるのを聞いてて、幼なじみっていいなーって思ったから」
悠斗は、速仁が、やんちゃな弟のようでかわいかった。それに、桜子のことを心配して、千年の時間をものともせず越えてくるなんて、とても勇気のある子だと感心もしていた。
「それに、桜ちゃんも今日の昼間、君に感謝していたよ。命がけで桜ちゃんを助けようとしたんだろ」
悠斗のこの言葉を聞いて、桜子は自分が恥ずかしくなった。まだ速仁に、ありがとうの一言も言っていなかったのだ。
「宮ちゃん、ごめんね。――わたしね、石山寺の火事のときに、宮ちゃんが来てくれて、すごくうれしかったよ。ありがとう。それに、わたしのことを心配して、ここに来てくれたことも、とてもうれしい。わたしは、もとの世にもどれないかもしれないけれど、宮ちゃんに時々でも会えるなら、とても心強い。お母さまのようすも、宮ちゃんから教えてもらえるから……。それで寂しくなくなるわ……きっと」
桜子は速仁に、悠斗と出会ってからの一部始終を語りはじめた。石山寺で桜子に手をさしのべてくれたのが悠斗だと知った速仁は、ボソッとつぶやいた。
「おまえ、いいやつだな。桜ちゃんを助けてくれて、ありがとうな」
ため口をきく速仁が、悠斗には、ますます弟のように思えてきた。
「おれの方こそ、桜ちゃんや一宮くんに会えてよかったよ。これからよろしくな」
「ああ、こっちこそな」
速仁は、おとなびた口ぶりをつづけた。自分が桜子の目に、悠斗と同じぐらいの、おとなの男に見えて欲しかった。
悠斗に石山寺で出会ってからのできごとを速仁に伝えようとする桜子は、しじみご飯を悠斗と食べたあたりまで話をすすめた。
「おいしかったわ。宮ちゃんも、お母さまといっしょに食べたの?」
「それどころじゃなかったよ。乳母ちゃんは、桜ちゃんがいなくなったあの夜、寝こんじゃったし。――でも翌朝は、なんとか元気になっていた。それに、乳母ちゃんのことはおれに任せて」
「うん、ありがとう。母のこと、よろしくお願いします」
桜子は、ていねいに両手を畳について頭もたれた。
「なんか、桜ちゃんが乳母ちゃんの母親みたいだ、エヘへッ」
「ほんとう、おかしいわね、うふっ」
悠斗も、姉弟のように気兼ねなく話すふたりが、ほほえましかった。
桜子は、ピーチパフェのことも速仁に話した。
「魔除けになるだけじゃないのよ! とてもおいしいの!」
「えっ!? 桃は魔除けになるんだ!」
悠斗は、桜子がなぜ桃にこだわっていたのか、得心がいった。
「おれ、桜ちゃんはただの桃好きの女の子かと思ってたよ」
「桜ちゃんには、そう思われてもしかたないとこ、あるよな。エヘへッ」
「たしかにね、うふっ」
三人は声をそろえて笑った。だがそのとき、速仁の体が透きとおりはじめた。
「あっ、宮ちゃん!」
「一宮くん! もうもどるのか!?」
「うん、そうみたいだ。あんがいに短かった」
「もー、宮ちゃんたら! あまり勉強しなかったのでしょ!」
「エヘッ、そうかな? つぎは、……」
最後まで言いきらないうちに、速仁の体は消えてしまった。
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「若宮、お帰りなさいませ」
惟清が曹司で、時空を超えてもどってきた速仁を、安堵の表情で迎えた。
「一の君さまは、ご無事でおられましたか?」
「うん、まあね」
速仁は、浮かぬ顔で生返事をした。
「若宮、お体に、どこか障りなどございませんか?」
行き帰り、合わせて二千年を越えたのだ。惟清は、速仁の体調が心配でならなかった。
「おれはまったくだいじょうぶだよ」
そう返事した速仁だったが、気分は落ちこんでいた。桜子と会っていたときは、心がはずんでいた。だが、曹司にもどると気が滅入った。桜子と悠斗が仲よく暮らしていたことが思いだされ、気持がモヤモヤとしてきた。速仁の目に、悠斗は爽やかで誠実な青年に映ったが、それがかえって気がかりの種になったのだ。桜子が悠斗を信頼しきっていたことにも、無性に苛立ちをおぼえた。
心ここにあらずといった速仁のようすに、惟清は、ただならぬものを感じた。
「若宮、千年先の世で、なにかたいへんなことが起こっていたのではございませんか?」
「うん……。一の君ちゃんが、親切そうな男に助けてもらっていた」
速仁のこの返事に、惟清は拍子抜けした。恋の悩みなのだ。好敵手が出現したらしい。
東宮候補である速仁の后妃選びに、惟清の出る幕はない。だが、影ながら応援し、悩みを聞いたり、おたがいに愚痴をこぼして慰めあうことはできるはずだ、と惟清は考えていた。自分も、安倍晴明邸で目にした女性に恋い焦がれているのだ。
「若宮、お疲れでしょう。そろそろ、お休みなさいませ。一の君さまのことは、また明日、あらためてご相談いたしましょう」
「うん。――寝るまえに、観音さまにお礼をもうしあげる」
「そうですね。それがよろしいでしょう。わたくしも観音さまにお礼をもうしあげたくぞんじます」
惟清は観音に、千年先の世界での速仁の身の安全を、あらためて祈願するつもりだった。
この日の夕暮れまえ、小さな金銅像が速仁と惟清のまえで光をはなち、桜子が住む世界へ速仁を送ってあげようと告げたとき、惟清は、とんでもない話だと猛反対し、力を貸さないと言いはった。だが、速仁が目に涙をうかべて懇願し、金銅像も、わけ預かっている父母と兄姉観音たちの力を合わせることにより、速仁をもとのこの時代へ呼びもどすことができると保証したことで、惟清は腹をくくったのだ。こうして、速仁が桜子のもとに行っているあいだ、速仁の不在がだれにもけどられないよう案配する、というのが、惟清のあらたな仕事のひとつになったのだった。
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速仁と惟清が東宮御所の曹司で、金銅像に頭をたれようとしているとき、採寸をすませた桜子と悠斗は、新帖探しの相談をしていた。仁和寺に行くか、清涼寺に行くか。それに、野宮神社と法輪寺も候補だった。
悠斗は、できれば法輪寺と清涼寺には足をむけたくなかった。母を眼前に思いだし落ちこむかもしれない自分を、桜子に見られたくなかった。桜子は自分よりもつらいはずだ。両親と生き別れなのだから。それでもけなげに振る舞っている桜子に引き比べ、自分は母の死をずっと引きずっている。そんな自分を桜子にさらしたくなかった。
「桜ちゃん、明日、光る君を呼んで、仁和寺に行ってみようか。朱雀院も呼びだせばいいかもしれない」
法輪寺と清涼寺を避けるなら、両寺の中間にある野宮神社も、今回は止めておこう、と悠斗は考えたのだった。
悠斗の、母親との痛々しい思い出を知らない桜子は、顔を輝かせて返答した。
「はい。そのような名前の寺のことを祖母が話しているのを、耳にした憶えがあります。光る君と朱雀院さまの、ご兄弟対面になりますね。――朱雀院さまとは、祖母が亡くなる数日まえに、祖母の部屋でお会いしたことがあります。でも、それ一度きりで、お顔をよく憶えておりません。どのような方か、楽しみです。連れていってください!」
桜子の快活な声で、悠斗も励まされた。
――いつか桜ちゃんと、法輪寺や清涼寺にも行こう! 行けるようになろう!
明日の相談を終えた桜子は、悠斗の部屋を出るとき、ガイアのポスターのまえに、あらためて居ずまいをただして座った。しばらく頭をたれたあと、顔を上げてポスターをにこやかにみつめた。
桜子が出て行ったあと、悠斗はベッドの下からガイアのフィギュアを取り出し、本棚にもどした。他のフィギュアも元の場所にもどそうかと、一瞬考えた。だが、それは止めにした。
――平安時代の女の子が、現代の子と、いくら好みがちがうといってもな……。とりあえず、ガイアだけにしておこう。
昨夜と同じように、一治と春恵は布団にくるまっていた。
「ばあさんや、さっちゃんと悠くんの、怪談ごっこはおわったみたいやな」
「そうどすね。あいかわらず悠くんは、怖がりやわ。声が裏返ってましたね」
「わてらも怪談ごっこしよか?」
「なにゆうたはりますの! 悠くんの怖がりのところは、おじいさんに似てるんどすえ。夜中にひとりでおトイレに行けなくなっても、わてはついて行きまへんえ」
「!………」
「雨の夜のことやったそうどす。タクシーが貴船口で、若い女性を降ろさはりましてな。運転手はんが、こんななにもないところで降りはってだいじょうぶですか、とたずねはったら、……」
「わ、わ、わ、わてはもう寝るさかい」
「きゅうに、街灯も車のライトも、みな消えてしもうて……」
「も、も、もう寝る!」
「ほな、お休み。おトイレは、ついて行ってあげますえ」




