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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第5章 手がかり
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5-1

 大文字の送り火がおわると、京都は残暑の季節に入る。山里の鞍馬は朝晩めっきり涼しくなり、町中では、汗ばむ日がまだしばらくつづく。


 桜子が悠斗に秘密を打ち明けた翌日、ふたりは昼まえに家を出て鞍馬駅へむかった。駅前の喫茶店に高田といっしょに入っていた三田が、ふたりにすぐ気づいた。

「高田、今日は悠斗さんたちの監視を、全部おまえに任せるのだからな。しっかりやれよ。夕刻にホテルで落ちあおう」

 三田は、アイスオーレを飲み干そうとしてモタモタする高田に、桜子と悠斗の後を早く追うようにと、目と顎で指図した。

「今日も暑そう。あまり歩かなくてすめばいいんだけどなぁぁ」

と愚痴りながら、高田は、ようやく腰をあげた。


 桜子と悠斗は、出町柳駅のひとつ手まえの駅で電車を降りた。そして、そこから歩いて十分ほどの京都大学文学部へむかった。源氏物語にはうしなわれた帖がある、という話しを耳にした憶えのある悠斗は、図書室で本を借りだして調べてみようと思ったのだ。

 悠斗は、まだ半信半疑ながらも、桜子のためになるなら手助けをしようと、心にかたく決めていた。虚空に光源氏が現れるのを目の当たりにしたのだ。桜子が紫式部の孫娘で、現代にタイムワープしたことは疑いようがなかった。だが源氏物語に、はたして新帖はあるのだろうか。そこのところが、悠斗にはまだ確信が持てなかった。というのも、昨夜の光源氏の話しぶりが、どうも怪しかったのだ。――


 悠斗の部屋で光源氏は、桜子から新帖のことを問われ、紫式部が新しい話を書いていたのはまちがいないと請けあった。そして、式部が桜子たち子孫の命を物の怪から守るために、新帖を公表しないと決心したことを明かした。

『恐ろしい物の怪は、わたしが退散させました。しかし式部殿は用心され、いつの日か、何百年か先に日の目を見ればよいのだと仰って、新帖を秘匿されたのです。その日が今、この千年後の世で訪れたのでしょう』

 光源氏は、すこしも言いよどまずに、そう語ったのだった。だが、秘匿された場所は知らないという。新しい話は何帖あったのか、そして帖名はなんだったのかと問われても、光源氏は首をかしげるばかりだった。紫の上に仕える女房たちが料紙を綴じて冊子にしていたとき、自分は横に座っていたものの、なぜかは思いだせないが表紙に目をむけなかった、と言いはったのだ。内容についても、自分が往生して極楽に旅立つことと、空蝉の女君がずっと自分に恋い焦がれていた、ということしか知らないという。

 桜子は、光源氏のこの説明に納得がいかなかった。

「おばあちゃまが極楽や地獄についてお書きになるなんて、信じられない。そのうえ空蝉さまがねぇぇ!?……、ほんとうですか?」

 桜子がそう問いつめると、光源氏は視線を明後日の方向に漂わせるばかりだった。

 光源氏は自分の都合のいいように話しを創りがちなんだと、そのとき悠斗は感じたのだった。


 その夜おそく、光源氏が物語世界へ帰り、桜子も自室にもどっていったあと、悠斗はベッドのなかで考えた。光源氏が極楽に行くという話は、かなりあやしい。だが、新帖が書かれていたとしたら、現在は題名だけが知られている〈雲隠〉帖の、その本文である可能性が高いだろう。明日、文学部の図書室で、〈雲隠〉について書かれている本を借りだそう。

 そう決めた悠斗は、もう眠ろうと寝返りをうった。だが、すぐには寝つけなかった。紫式部と光源氏を脅したという物の怪が気になったのだ。ちょっと怖いかも、と思わずにおられなかった。

 でも、光源氏が退散させることができた物の怪だ。自分が光源氏に加勢すれば、桜子を守ることができるだろう、と悠斗は思いなおした。いざとなれば六条御息所にも助太刀を頼めばよい。源氏物語中の最強の死霊であるどころか、生霊にもなれる人物だ。心強いこと、このうえない。

 それに、悠斗は六条御息所に会ってみたかった。彼女を呼びだして欲しいとは、照れくさくて、桜子に言いだしにくい。でも、手助けを頼むんだったらいいよな。変に思われないよな。言いわけがましいことを考えている自分自身が、悠斗はおかしかった。


 これが昨夜のことだった。

 いま、悠斗は桜子を連れて、半月ぶりに大学キャンパスに足を踏み入れようとしている。文学部の図書室に入るのは、さらにひさしぶりのことだった。


 悠斗は、手がかりになりそうな本を、書庫内ですぐに見つけた。『源氏物語雲隠六帖』である。

 閲覧室は、夏休み中なので空席が多く、冷房も効いていた。だが悠斗は、そこに長居したくなかった。悠斗には、読書を楽しむお気にいりの場所が、近くにあるのだ。

 本を借りだした悠斗は、桜子を連れて出町柳駅へむかった。そして、駅前の店でパンと飲み物を買い入れ、すぐ近くにある河川敷へ下りていった。鴨川と高野川の合流点である。悠斗は、冬以外の季節なら、この河川敷の木陰や日なたに座り、本のページをめくるのだ。

 今日は川風があって、いつにもまして心地よい。浅瀬では、保育園児の集団が水遊びに興じている。そのはしゃぎ声は、絶好のBGMだった。

 河川敷で読書しているとき、悠斗は、大学を京都にして正解だったと、いつも思う。京都の大学はどこも、市街地にあるせいで敷地は広くない。だが、鴨川公園と呼ばれる河川敷が、広大なキャンパスの替わりをしてくれるのだ。


 桜子にとっても、出町柳あたりの河川敷は、千年まえからのお気にいりの場所だ。おまけに、いまは両足を地面に下ろすことができる。これまでにもまして、鴨川が身近に感じられた。桜子は、東岸の木陰に悠斗と座り、買ったばかりのデッサン用鉛筆を手に取った。

 昨夜、光源氏を物語世界にもどしたあと、桜子は、悠斗から小遣いを渡され、お金の使い方も教えられた。さきほど、京都大学から出町柳へむかう道すがらにあった店で画材を買ったのが、桜子にとって、初めての買い物だった。

 桜子は河川敷で写生をはじめ、悠斗は、その横で本を読みだした。


 川のあちこちで水鳥が、保育園児から離れて、羽を休めたり遊んだりしている。

 桜子は、〈胡蝶〉帖の一文を思いだした――〈つがひを離れず遊びつつ、細き枝どもを食ひて飛ぶ違ふ……〉

 そのなかの一羽、全身まっ白なコサギが、賀茂大橋の真下で流れに脚を浸し、さきほどから桜子をジッと見つづけていた。おおきく見ひらかれたその目は、赤まじりの金色をしている。涙で潤んでいるようでもあった。


 西岸に建つカフェでは、高田が、対岸の桜子と悠斗を監視しながら、珍しげに水鳥たちをながめていた。高田は、高校まで大阪で育ち、大学は東京の私立を選んだ。京都には、高校二年生のとき、祇園祭の夜に一度だけ遊びに来たきりだった。そんな高田の目には、鴨川の昼間の風景が、とても新鮮に映っていた。

 高田は、自分と同じように桜子たちを見やっているシラサギのようすが、おかしくてならなかった。まるで彫像のように、身動きひとつしないのだ。高田は、シラサギをまねて、首筋と背筋をまっすぐに伸ばしたまま、口もとを引き締め、手も首も動かさずシラサギをにらみはじめた。

 ――競争だ。先に動いた方が負けだぞ!

 そんな高田の視線に気づいたかのように、シラサギがとつじょ長い首をクルリとまわし、高田のほうを見た。

 ――勝った! 首をかしげて、こっち見てるよ。カワイイなぁぁ。

 高田は、シラサギに右手を振った。シラサギの金色の目が、赤みを増していった。

 シラサギは、高田と桜子を交互に見るようになった。高田は、シラサギがふりむくたびに手を振り、シラサギの目は、ますます赤くなっていった。


 桜子は、シラサギと高田の視線に気づかないまま、なめらかに絵筆を動かしていた。だが、悠斗の読書は、悪戦苦闘だった。『源氏物語雲隠六帖』は、現代語訳でなく、翻刻本だったのだ。

 桜子にたずねれば、文章の意味をすぐに教えてもらえるだろう。だが悠斗は、独力で原文と格闘しようと考えていた。新帖を探しだすという目標ができて、勉強への意欲が湧きはじめていた。

 ふたりは、ときおり言葉をかわしながら、それぞれ写生と読書をつづけた。

「悠斗さん、このクルミパンという食べ物は、とてもおいしいですね」

「そうだろ。これ、小さい頃からのおれの好物なんだ。母さんと鞍馬の家に泊まっていたときに、よく食べてた」

「あのぉぉ、悠斗さんのお母さまは……?」

 桜子は、悠斗には母がいないのだろうと、昨日あたりから察しがついていた。

「うん、おれが中学生のときに病気で死んじゃった。――中学生というのは、大学生の下の下。あいだに高校っていうのがある。千年間で日本や世界はおおきく変わったから、知らないことがたくさんあって、桜ちゃん、たいへんだよな」

「はい、牛若丸さまのことも知らなかったですし……。この千年間のことや、今の世の中のことを勉強してみたいです」

「それじゃ、おれが高校生のときに使ってた教科書があるから、読めばいいよ。わからないことがあれば、遠慮せずに聞いて。それに、桜ちゃんが使ってる部屋は、むかし、母さんの部屋だったらしくて、母さんの本がまだ何冊も置いてあるから、それも読めばいい」

「ありがとうございます」

 桜子は、そう返答しながらも、悠斗が父親のことを一言も話さないのが気になった。

 ――亡くなられたのかしら? それとも、難しい間柄なのかなぁぁ? 夕霧さまと光る君さまもよく口げんかなさるし……。でも、あのふたりは、あれであんがい、仲がいいところもあるよね。悠斗さんたちは、ちょっとちがうのだろうか?


「ねぇ、桜ちゃん。桜ちゃんの秘密のこと、祖母ちゃんと祖父ちゃんに、やはり黙ってる方がいいのかな? 石山寺の観音さんとの約束があるようだけど、あのふたりは口が固いよ」

「ええ、それはよくわかります。でも、きっとたいそう驚かれると思います。お年ですから、心配です。悠斗さんも、あんなに驚かれましたし」

「ごめん、面目ない。でも、たしかに怖かった。祖母ちゃんはともかく、祖父ちゃんなんか、腰抜かすかもな」

「源氏の物語の新しい帖がひとつでも見つかれば、それをお見せしながら、おばさまたちに打ち明けようと思います」

「そうだね。おれも、新しい物語をこの目で確かめたい。――いま、雲隠六帖というのを読んでるんだ。桜ちゃんがいた平安時代の、次の次の時代の室町時代に、どうも書かれたものらしい。だから、まったくの偽書だよ。だけど、紫式部が、……あっごめん、桜ちゃんのお祖母さんが〈雲隠〉の中身を書いておられたら、それが漏れ伝わって、雲隠六帖の記述に反映してるかもしれないと思うんだ。おれ、今晩中に読むよ。光源氏が、……あっ、これもちがったね。光る君が言ってたことから考えて、〈雲隠〉の本文が書かれてた可能性が高いから、まずは、これを探そうよ」

「ありがとうございます。それに悠斗さん、どうぞ悠斗さんの言いやすいように祖母たちを呼んでください。わたしの母が乳母を務めていた一の宮ちゃんは、祖母のことを、式部ばあちゃん、なんて呼んでいました。光る君さまに対してだって、好きにお呼びになればいいですよ。一の宮ちゃんは、光るじいさん、なんて呼んでいたのですよ」

「その一宮って、おもしろそうな子だね」

「はい! わたしの口げんか相手だったけれど、なにか姉弟のようで、いっしょに勉強したり遊んだり、楽しかったです。わたしが石山寺で火事に巻きこまれたときは、命がけで助けようとしてくれたみたいです」

「へぇぇ、いいやつだな」


 河川敷での話しはつきなかった。だが悠斗には、鞍馬にもどるまえに、もう一か所、桜子を連れて行きたいところがあった。京都随一の繁華街である四条河原町で、桜子に服を買おうと思っていたのだ。春恵からも、そのためのお金を渡されていた。

「桜ちゃん、いまから買い物に行こう」

「は、はい。なにをお買いになるのですか?」

「桜ちゃんの服さ。母さんのだと、やはり流行遅れだろ」

「でも、服はだいじに、長く着なければ……。高価なものですし。昨日いただいたお金で足りるとは思うのですが……」

「ごめん、昨日渡したお金は、日常の小遣い程度だから、足りないと思う。おれに任せておいて。それに、すてきな服を買うようにと、祖母ちゃんも、たくさんお金をくれたんだ」

 桜子は、物が豊かにあるこの世界でも、やはり服は貴重品なのだと思った。

「それだと、ますますもうしわけないです」

「そんなことないよ。それにおれは、桜ちゃんの兄さんなんだろ。お兄さんには恥をかかせないこと。わかった?」

 悠斗は、上機嫌でしゃべりつづけた。

「それに、桜ちゃんは長髪だろ。平安時代の女の人からすれば短い方なのかもしれないけど、現代では超ロング。あっ、とても長い、という意味だよ。超ロングだから、母さんの服では、ちょっと合わないかもしれない。その長い髪に似合う服を見つけようよ」

 悠斗から長髪だとなんども言われた桜子は、このとき、ようやく気づいた。石山寺の観音に祈願したことのひとつは、とっくにかなっていたのだ。

「はい、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 桜子は、悠斗に出会ったのも観音の導きなのだと思った。だから、悠斗のもうしでをありがたく受けよう、そしていつか、悠斗や春恵、そして一治に恩返しすればよいのだ、と思いなおした。


 桜子と悠斗は、電車に乗ろうと河川敷をあとにした。そんなふたりを、シラサギが、賀茂大橋の下で、流れに脚を浸しながら目で追っていた。そしてシラサギは、ふたりが地下駅への階段を下りていくのを見届けると、今度は、カフェにいる高田に顔をむけた。

 高田は、あいかわらず右手をシラサギに振った。そして、コップの水を飲み干すと、もういちどシラサギにむけて手を振り、カフェを出た。その足は、カフェのまえの今出川通りを、まっすぐ西へ、ゆっくりとむかった。

 その直後にシラサギは飛びたち、桜子と悠斗が消えた階段へむかって翼をはためかせた。だが、途中で方向を変え、賀茂大橋の上を二度三度旋回したあと、高田を追うようにして真西へ飛びさった。

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