4-9
鞍馬寺は、平安京の誕生と相前後して創建された。京都盆地の北方を囲む北山連峰のひとつが鞍馬山であり、その南斜面に諸堂が点在している。創建当時の本尊は毘沙門天である。世界の中心にそびえる須弥山の、その四方を守護する四天王のひとつで、北方を守るとされる仏だ。
桜子と悠斗は、昼まえに仁王門をくぐって境内に入った。参道は巨木に覆われ、日が高くなっても薄暗い。ふたりはケーブルカーに乗らず、人影がない参道を登っていった。五分ほど歩き、鞍馬寺の鎮守社である由岐神社の鳥居まえに着いた。
「光源氏が若紫を見つけたのは、このあたりらしいよ」
悠斗の説明に、桜子はおおきくうなずいた。わらわ病みの快復祈祷を受けに〈北山のなにがし寺〉に来ていた光源氏は、僧坊に祖母と滞在中だった若紫を、偶然に垣間見たのである。光源氏十七歳、若紫十歳の晩春だった。
桜子は、グルッとまわりを見やった。僧坊を思わせるような建物はない。だが、参道脇で、山水の小さな流れが音をたてている。それは、光源氏が僧坊のなかで、北山の僧都に詠んだ歌を彷彿させるものだった――吹き迷ふ 深山おろしに 夢さめて 涙もよほす 滝の音かな――
わずかな段差の滝だが、その歌にちなんで〈涙の滝〉と書かれた駒札も立っている。
桜子は、やさしげな音をたてて岩肌を伝う山水をみつめながら、光源氏と若紫が〈北山のなにがし寺〉に現れてくれるよう、心のなかで念じた。悠斗に光源氏たちを会わせ、自分の秘密をすべて打ち明けるつもりだった。
ところが、光源氏たちふたりは、いっこうに姿を現さない。
不安になった桜子は、あらためて悠斗に確かめるしかなかった。
「悠斗さん、〈北山のなにがし寺〉って、鞍馬寺なのでしょ?」
「うん、そうだよ。すくなくとも、祖母ちゃんのような、地元の人間はそう思ってるし、寺に来る観光客もそのはずだよ。そうでなきゃ、若紫餅を買ってもらえなくて、うちの店、困るじゃない、ハハハ。でもね、……」
――えっ!?
桜子は、悠斗の「でもね」という言葉に、心臓が締めつけられる思いがした。
「でもね、〈北山のなにがし寺〉は鞍馬寺ではなく、もっと京都の町中に近い大雲寺というお寺だ、という説もあるよ。金閣寺のあたりに、昔は神明寺という名前の寺があって、その寺が〈北山のなにがし寺〉だ、と考える学者もいる」
悠斗の説明に、桜子は思い当たる節があった。北山連峰には鞍馬寺だけでなく、ほかにも寺がたくさんある。「きんかくじ」は初耳だったが、桜子には、大雲寺や神明寺という名に聞き覚えがあったのだ。
――〈北山のなにがし寺〉に来てください、と念じてしまったから、光る君さまたちは、大雲寺か「きんかくじ」へ行ってしまわれたのかしら? だとしたら、迷子になってしまわれる。どうしよう……。〈北山のなにがし寺〉って、いったい、どこなのだろう?
桜子は、おもいきって悠斗にたずねた。
「悠斗さんご自身は、どのお寺が〈北山のなにがし寺〉だと考えておられるのですか?」
鞍馬寺ではない名前が悠斗の口から出てくれば、光源氏と若紫がすぐに物語へもどるよう、桜子は念じるつもりだった。
だが悠斗の返答は、桜子には予想外のものだった。
「源氏物語には、実在のお寺や神社が名前付きで登場するだろ。長谷寺や石清水八幡、それに、昨日の石山寺もそうだし。そういう寺とちがって、紫式部は〈なにがし寺〉って書いたのだから、特定の寺を想定したのではないと思うよ。鞍馬寺をふくめて、北山にあったいくつかの寺の印象を混ぜこんで、〈北山のなにがし寺〉を創作したのじゃないだろうか。それに、読者が自由に想像できる幅を、わざと持たせたのかもしれない。その方が、読んでて楽しいじゃない」
桜子は驚いた。物語というものは、書く人と読む人の双方の想像力によって創られる。紫式部が常々そう言っていたことを思いだしたのだ。
「悠斗さんは、源氏の物語を書いた人の心を、ふかく考えておられるのですね」
「そんなふうに言われると、恥ずかしいよ。おれ、桜ちゃんとちがって原文が読めないし。文学とか日本史が好きなだけだよ」
悠斗はそう言ったあと、自分の唇に人差し指を押しあてた。
「でも、〈北山のなにがし寺〉は鞍馬寺でない、という説があること、祖父ちゃんと祖母ちゃんには内緒だよ。祖父ちゃんたち、がっかりするから」
「はい!」
桜子は、悠斗になら秘密を打ち明けてよいと、ますます確信した。悠斗なら、源氏物語の新帖を探しだすのに、きっと力を貸してくれるはずだ。桜子は、〈北山のなにがし寺〉などと言わず、自分のかたわらに、いますぐ光源氏と若紫のふたりを呼びだそうと、あらためて決心した。それに、〈なにがし寺〉が架空の寺なら、光源氏たちは、現れる場所がなくて困っているにちがいない。
桜子は息を整え、いったんおおきく開いた目を、ゆっくりと閉じようとした。
だがそのとき、人影が目の片隅に入った。
――あっ、いまはダメだわ! 光る君さまたちがとつぜん現れてほかの人に見られたら、おお騒ぎになってしまう。
桜子の目に入ったのは、サングラスとメガネの男ふたり組、三田と高田だった。桜子と悠斗の動きを、つかず離れず見張っているのだ。ふたりは、桜子と悠斗に感づかれないように〈涙の滝〉には近づかず、由岐神社の境内に入り、みくじを社務所で買い求めた。
高田が、その場でみくじを開け、とたんに頬をおおきくゆるめた。
「やったぁぁ。先輩! おれのおみくじ、大吉ですよ。恋愛運は……」
――んっ!?
〈身近なところに恋が芽ばえる。だいじに育てれば大輪の花が咲く〉――みくじにはそう書かれてあった。
――ふーん、身近なところって言われてもな、おれの部署は男ばっかりだし……。
高田は肩をすくめながら、三田に顔をむけた。
「先輩のは、どうでした?」
三田は、由岐神社の境内に入ってからも、桜子と悠斗のようすを遠目にうかがいつづけていた。そして、自分のみくじを開けず、スーツパンツのポケットにしまった。
「どうして読まないんです?」
高田からそう問われても、三田は桜子の背中に視線をむけたまま、質問に質問で返した。
「おみくじを、なぜわざわざ買ったのか、おまえ、わかっているのか?」
「恋愛運とか金運なんかを占うんでしょ?」
この返答に、三田は冷たい眼差しを高田に浴びせた。
「開けなくても、大凶だとわかる」
「えっ、どうしてです?」
「おまえといっしょの出張だからな。――さっ、もう行くぞ!」
「あっ、待ってくださいよ。おれ、おみくじを枝に結びつけなきゃ」
「大吉なら、持って帰ればいいんだ! おれは行くぞ!」
みくじをどうしようかと、もたもたする高田をおいて、三田は社務所を立ち去った。そして、参道をふたたび登りはじめた桜子と悠斗の後を追った。
参道は、由岐神社をすぎるあたりから、幾重にも曲がる九十九折りとなる。桜子と悠斗は、歩くこと二十分ほどで、本殿金堂まえの広場に着いた。うっそうとした木立の参道だったとはいえ、やはり盛夏の季節だけあって、ふたりの額は汗で光っている。
広場は、山なみを見渡す展望台でもある。吹き抜ける風が、ふたりには心地よかった。
その風に乗って、うしろの方から、ざわめき声が桜子の耳に届いた。ふり返ると、女性参拝客すべての視線を一身に集め、年の頃二十歳まえの光源氏が、直衣に指貫姿で立っていた。金堂まえの、金剛床と呼ばれる石畳の真ん中にたたずむ光源氏は、まばゆい陽射しを浴び、文字どおりの光る君だった。超美形の青年が、浅縹色の平安装束をまとい、涼しげな瞳で山なみを見やっているのだ。おおかたの女性が魅惑されないわけがない。光源氏自身も、まわりからの視線を楽しんでいるようだった。
桜子は不思議でならなかった。どうして光源氏がここにいるのだろう。やはり鞍馬寺が〈北山のなにがし寺〉だったのだろうか。そうだとすれば、さきほど〈涙の滝〉のまえにいたときに、なぜ光源氏は姿をみせなかったのだろうか。桜子は頭が混乱し、無言で光源氏をみつめつづけた。
そんな桜子に、光源氏は悠然と歩みより、作り笑顔で声をかけた。
『どこかでお会いしませんでしたか?』
「えっ!?」
桜子は、ますます頭が混乱し、どう答えたらいいのかわからない。
悠斗は、
――こいつナンパ? おれが見えないのかよ!
と、おもわず眉根をよせたが、石山寺での桜子と同じ平安装束なのが気になった。ほんとうに知りあいかもしれない。悠斗は、ふとそう思った。
とまどう桜子に代わって、悠斗が光源氏に、
「ひょっとして、どこかのコスプレ大会で彼女を見かけたのですか?」
とたずねた。
そして悠斗は、桜子に顔をむけた。
「なにか憶えてる?」
「こすぷれ?――うーん……」
桜子は、どう答えたらよいのか、ますますとまどった。
「ゴメン、思いだそうとして無理しない方がいいよ。頭が痛くなったりしたらたいへんだ」
心配してそう声をかける悠斗に、桜子は心のなかで謝った。
――ごめんなさい。光る君さまのことを、いまここでは打ち明けられない。まわりの人たちがみな、わたしたちを見ているから……。
たしかに、三田と高田のふたり組も、桜の木のかげから、桜子たちの様子をそれとなく探っているのだった。
ひとり光源氏だけが、どこ吹く風といったようすで、にこやな顔つきだ。
光源氏たちを呼びだす力があることは、秘密にしておかなければならないことだった。光源氏だって、そのことは承知している。それなのに光源氏は、衆人環視の的になっているのを楽しんでいるようだ。桜子は、光源氏にだんだんと腹がたってきた。
「お会いしたことはないと思います」
桜子は、できるだけつっけんどんに、光源氏に言葉を返した。
『それは失礼いたしました。以前、わたしを鞍馬寺に連れて来てくださった方に、お顔がたいへん似ておられるものですから、つい勘違いをしてしまいました。あはは』
光源氏は、素知らぬ振りで作り笑顔をつづけている。
『以前この寺に来たのは春でした。そのおりには、ここから、下の方の僧坊を見通すことができたのですよ。いまは木がたいそう生い茂っておりますね。それにしても、いまは夏ですから、九十九折り坂を上ってくるのはたいへんだったのではないですか。わたしは、ひとっ飛びで金堂まえに来ました、アハハ』
あいかわらず調子のよい光源氏だと、桜子は合点がいった。
――上り坂が嫌だから、金堂まえでわたしたちを待っておられたのにちがいない。女君さまたちのところへ通うのには、とても熱心なのにね。……でも、待っていてくださっただけでも、感謝しなきゃ。きっと、源氏の新帖を探すのに智恵を貸してくださるはずだ。
「いっしょに鞍馬寺に参拝された方と、大雲寺にもお詣りされたのですか?」
桜子も、なに食わぬ顔で光源氏にたずねた。
『はい、もちろんお詣りいたしました。北山にかぎらず、都のいろいろな寺社に、いっしょに参詣したのですよ。神明寺にもお詣りしました。わらわ病みに効験あらたかな行者がおられました。――今日は、北山の寺のどこにお詣りしようか、それこそ、身が裂かれるほど迷いました、ハハハ』
そして光源氏は、イタズラっぽい目で話しをついだ。
『鞍馬寺に足がむいたのは、どなたか、わたしと宿世の糸で結ばれている方が、ここにおられるからなのでしょう、ハハハ』
やはり〈なにがし寺〉は、悠斗の推測どおり、さまざまな寺の印象から創りだされたものなのだ、と桜子は得心した。
――でも、それだと、おばあちゃまが源氏の新帖を隠す相談をされそうな寺社の数が増えて、探しだすのがたいへんだな……。鞍馬寺のご本尊さまに、まずはおたずねしよう。
「悠斗さん、金堂に入りましょ。そのあとで、魔王殿にも連れていってください。それから、お祖母さまが仰っていた冬柏亭も見てみたいです。源氏の物語を今の世の人びとにわかりやすいよう書き直された方の、お仕事部屋だったのでしょ。たしか、与謝野晶子とか仰る方の……。すてきな方ですよね」
「うん、そうだね。それじゃ行こうか」
悠斗はそう言って桜子と金堂へむかったが、直衣姿の男のことが気になっていた。
最初は、てっきりナンパだと思った。だが、語り口が桜子と同じように、なにかしら昔めいている。やはり桜子と面識がある青年なのではないかとも感じた。
――神明寺に行ったって言ってたけれど、そんなお寺はもうないよな。わらわ病みって言い方も、変だし……。それに、京都のことを〈みやこ〉って、言ってた……。宿世の糸だなんて、ナンパするヤツの割には教養がありそうだし……。
「桜ちゃん、あの男の人と、あとでもうすこし話してみない? 記憶がもどるきっかけになるかもしれないよ」
「そっ、そうですね。――悪そうな人ではなさそうですし、金堂の参拝をすませたあとに、またお話ししてみましょう」
桜子が悠斗にそう返事したとき、ふたりの背後で、子どもの元気そうな声がした。
『源氏のお兄さまぁぁ! 見っつけた! わたしのこと、置いてきぼりにしないでくださいね』
ふたりがふり返ると、平安装束の女の子が、光源氏にかけよっていた。幼い若紫だった。
――源氏? 兄妹でコスプレ? スゲェー!
感心して見ていた悠斗だったが、光源氏が目尻を下げながら、しゃがみこんで若紫に頬ずりしたので仰天した。
――えっ!? そ、それって、兄妹でまずいでしょ……。
これまで憧憬の眼で光源氏をみつめていた女性たちもみな、そっと視線を外し、波が引くように光源氏から離れていった。
「ねぇ、桜ちゃん。あの男と話すのは、止めにしよう」
悠斗は桜子をうながし、足早に金堂へむかった。




