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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第4章 出会い
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4-8

 速仁が石山寺から京都へむかったこの日、桜子はふだんどおりの朝を、悠斗はいつもとことなる朝を、それぞれ迎えた。


 桜子は、いつものように、夜明けと同時に目が覚めた。平安貴族の朝は早いのだ。

 寝室の窓から外を見ると、緑の濃い山なみが近くに迫っていた。木枠のガラス窓を開けると、どことも知れず鳴きかわしている山鳥の声とともに、ひんやりした空気が入ってきた。一気に意識が冴え、〈若紫〉帖の一文が頭をよぎった。

〈明けゆく空はいといたう(かす)みて、山の鳥どもそこはかとなく(さえず)り合ひたり〉

 今日は鞍馬寺で、源氏の物語の新しい帖を探そう。桜子は、あらためて心に誓った。


 桜子は、昨夜のうちに春恵が整えてくれた服を着て、一階に下りていった。台所にいた春恵に声をかけると、春恵は笑顔でふり返った。

「まぁ、早いね。おはようさん。疲れたはるやろし、まだ寝てはったらええのに」

「ありがとうございます。でも、いつも夜が明けるころに起きますから。なにをすればよいのか分りませんので、言いつけてください」

「ほな、いっしょに朝ご飯を作りまひょ」

 桜子は家事の経験がまったくない。だから、初めての炊事が珍しく、おもしろくてならなかった。

 朝食の準備が整い、春恵が、作業場で餅づくりをしている一治を呼びにいった。すぐにふたりがもどり、朝食が始まった。

 だが、悠斗は下りてこない。


 昨日までの悠斗なら、午前中は惰眠をむさぼっていたはずだ。いまは夏休みなのだから、なおさらだ。おまけに、昨夜はなかなか寝つけなかった。ところが今朝は、桜子といっしょに朝食をとろうと、眠いながらもベッドから脱け出した。

 だが朝食タイムは、とっくにおわっていた。家には一治しかいない。食卓のうえに、春恵のメモが載っていた。

 〈悠くんへ。――さっちゃんと、散歩がてらに靴屋さんへ行ってきます。わてらが帰ってくるまでにお腹がすいたなら、冷蔵庫のもんを適当に食べておきなさい〉

 ――えぇぇぇ、まだ九時じゃない! いつもなら、祖母ちゃん、おれが起きるまでずっと家にいるのに……。それに、〈さっちゃん〉!? いつのまに、そうなったんだよ。

 祖父母の通常の朝食時間をろくに知らない悠斗は、いつもとちがう家のようすにとまどった。自分で朝食を作ったことがない。どうしようかと困っていると、店の方から一治の大きな声がした。

「さっちゃん、お帰り。ええ靴あったか?」

 ――祖父ちゃんまで、なんだよ。〈さっちゃん〉なんて、きやすく呼んじゃって。


 のけ者にされたようで、なんとなくおもしろくない悠斗だった。だが、うれしげな顔で居間に現れた桜子を見て、そんな気分は、半分だけだが和らいだ。

「あっ、悠斗さん、おはようございます」

「悠くん、起きてたんやね。おはよう」

「さ・く・ら・ちゃん、おはよー。――祖母ちゃんもね」

「悠くん、朝ご飯はどうした? まだなら、すぐ準備するえ」

「うん、まだ。――おれ、顔洗ってくる」


 洗面所へむかった悠斗のあとを、桜子もついていった。そして、タオルを両手に持ち、洗面所の床に正座した。

「桜ちゃん、どうしたの? あっ、さきに手を洗う?」

「わたしは悠斗さんのあとで結構です。どうぞお顔をお洗いください」

「ああ」

 悠斗は、顔を洗っているあいだも、桜子が気になってしかたなかった。そのうえ、洗いおわったとたんに桜子がタオルを渡してくれたので、仰天した。

「あ、ありがとう」

 悠斗は、ぎこちなく礼を言った。

 宮仕えでは、女房が洗顔の介添えをするのは当然のことだった。桜子も、蹴鞠のあとに速仁が洗顔するのを手伝ってきたのだ。

 だが、悠斗にとっては、初めての経験だった。気恥ずかしかったが、うれしくもあった。

 悠斗に替わって桜子が手を洗い、そのあいだ、悠斗は桜子の横に立ちつづけた。そして、洗い終えた桜子にタオルを渡した。

 今度は、桜子が驚いた。入浴など、女房にさまざま介添えしてもらってきた桜子だったが、男性からこんな風に手助けされたことはなかった。桜子は、男女の関係が、自分が昨日まで生きてきた時代とおおきく異なっていることを悟った。そしてうれしかった。


 桜子は、タオルを渡してもらった礼を述べたあと、思いきって悠斗にたずねた。昨日まで生きていた世界で、桜子がずっと引け目を感じていたことのひとつだ。

「あのー、悠斗さんは、漢詩文が読めたり作れたりできる女の人って、どう思われますか?」

「女だから男だからどうか、ってことはないけれど、そんなのが読める人って、すごいよな。作れるなら、もっとすごいよ。ひょっとして桜ちゃんは、古文だけでなく漢文も得意なの?――おれは、漢文、苦手。英語もダメ」

 桜子も、悠斗が口にした最後の言葉は、わけがわからなかった。だが、〈女だから〉などと悠斗が考えていないことは、よくわかった。それにしても、どう返事したものか、桜子は迷った。漢詩文が好きだと、本当のことを言っても、悠斗なら気にしないかもしれない。でも、そうじゃなかったら……。

「得意かどうかは分りませんが、……好きです。祖母からも教わりました。源氏の物語に織りこまれている、白氏文集(はくしもんじゅう)長恨歌(ちょうごんか)といった漢詩文を、祖母は教えてくれました」

「桜ちゃんのおばあさんは、大学の先生だったの?」

「大学には行けなかったようです。祖母の父が漢籍の学者で、その方から学んだと、祖母は言っておりました」

「おれの祖母ちゃんと、ぜんぜんちがうね。祖母ちゃんは家事が得意なだけだから」

「でも、得意なものがあるのは、すごいことです。わたしは、悠斗さんのお祖母さまも、亡くなった祖母も、同じぐらいに立派だと思います」

「うん、そうだよな。祖母ちゃん、喜ぶよ。ありがとう。桜ちゃんも、漢文が好きで得意なの、いいよな」

 桜子にそう答えた悠斗は、いまの自分には得意なものや、ましてや熱中できるものがないことが、気恥ずかしかった。

 桜子は、真顔で話す悠斗の返答を聞いて安心した。だが、居間へ朝食をとりにいく悠斗の横顔を見て、少し寂しげなようすが気になった。


 悠斗が朝食をとる横で、桜子と春恵はお茶を飲みながら料理作りの話をしはじめた。春恵が教師役だ。これまでなら黙々と箸を動かすだけの悠斗も、ふたりの会話に入りたくなった。

「祖母ちゃん、この納豆、うまいね。祖母ちゃんは料理が上手だよな」

「なにゆうてるの、悠くん。納豆はスーパーで買うんよ。料理のうちに入らへんえ」

「!………。この、筍と木の芽の佃煮(つくだに)がうまいよな。これは、祖母ちゃんが自分で作ったんだろ。すごいよな」

「悠くん、今朝はどうしたん? いつもと同じもんやんか。それに、その佃煮も、おとなりさんで買うてるんよ。知らんかったん? 悠くんは、小さいときから、筍が好きやしね」

「悠斗さん、そうなんですか。薫の君さまみたいですね。ふふふ」

「まぁ、とにかく、祖母ちゃんは料理が上手だよ。立派だよ」

「まぁ、どうしよう。今晩は、おおご馳走せなあかんね」

 悠斗は、桜子のまえで馬鹿のことを言っている自分が情けなくなった。もうなにも言わず、ご飯をかきこんだ。桜子といっしょに、一刻も早く鞍馬寺に行きたかった。

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