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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第1章 新帖
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1-3

 藤原兼隆が式部邸からいそいで立ちさったその日のたそがれどき、光源氏が、式部によって物語世界からまた呼びだされた。今日は等身大の姿だ。

 光源氏は文机に片肘をついて式部のよこに座り、源氏の新帖にとり組んでいる式部の、その険しい横顔と、あまり書きすすめられていない料紙を、心配げな顔で交互に見ていた。 

 しかし、光源氏はおしゃべり好きだ。とくに女君にたいしては、それがかなりの年配者であっても、なにかと話しかけることを止められないのが光源氏だ。いまこのときも――


『今日は小さな姿で呼びだされなくて、たいへんうれしいです。体が小さいと、書いておられるものを読むには、文机の上に座らなければなりませんが、それだと、なんというか、雛人形のようで恥ずかしい、ハハハ』

『それに、あの粗忽(そこつ)犬君(いぬき)に踏まれでもしたら、つぶれてしまいそうで……、ハハハ』

『わたしのことを、いま、お書きのようですね。わたしが来世に旅立つ場面ですか? 死んでいく自分をよこでながめるのは、なんというか、へんな気持ちです、ハハハ』

『きっと、たくさんの女君が涙を流すのでしょうね。わたしは悪い男だ、ハハハ』


 だが、さきほどから目をとじ、筆を手にしていても微動だにしない式部は、光源氏に言葉ひとつ返さない。光源氏は、そんな式部のようすに、苦笑いして肩をすくめた。

 すると式部が、目は閉じたままながら、ようやく口を開いた。

「光る君が亡くなるとき、たしかに女君たちは涙にくれるでしょう。でもそれは、光る君の死を嘆いてのことなのか、それとも、不実な男を愛してしまった後悔の涙なのか……。さて、どちらでしょうか。その判断は、読んでくださる方々がなされることです」


 グサッと心にささる、とりつくしまのない式部の返答だった。しかしそれでも、光源氏は笑顔をとりつくろった。

『仰せはごもっとも至極。わたしは、まな板の鯉の心境です、ハハハ』

 頭をわずかにたれてそう答えた光源氏は、そのとき、燈台の明かりが届かない部屋の片隅で、なにか得体のしれないモノが、こちらをジッとうかがっている気配を感じた。

 だが光源氏は、なにも恐ろしくなかった。新帖の構想をねるために、式部が物語のなかから物の怪を呼びだしたのだろう。光源氏は、そうたかをくくり、また冗談めかして式部に話しかけた。

『今宵の式部殿は、ほんに怖い。わたしの死の場面を考えるのに、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)さまの死霊を呼びよせるなんて……。わたしが来世に旅立つとき、御息所さまの霊が現れ、わたしに怨みごとを言うのですか? ハハハ』

「そんなことは、考えていませんよ」

 あいかわらず式部は目を閉じたままだ。

『それでは、どの女君の霊を、物語のなかからお呼びになったのですか?』

「どなたも、お呼びしていませんよ」

 式部のその返事に、光源氏は一瞬にして身をふるわせた。

『えっ!? それじゃあれは? そ、そこに、なにかがいるような気がします。どうも女のようで……』

 だが、あいかわらず式部は目を閉じたままだ。

「光る君さまの、心の鬼ではないのですか? 女君たちを悲しませてしまったという思いが、すこしだけにせよあるせいで、ご自身を責める鬼を、心のなかにつくりだしておられるのではありませんか?」

『あ、あれですよ、式部殿!』


 光源氏がおそるおそる指さすさきに、式部は、やれやれといったていで目をむけた。すると、たしかに虚空の一部が、うずを巻くようにして歪んでいる。

「まぁぁ! な、な、何なんですか!?」

『だから、さきほどから言っているではないですか!』

 光源氏の叫声とともに燈台の火がフッと消え、それに代わり、暗闇につつまれていた一隅がしだいに明るくなった。式部にも光源氏にも、そのモノの輪郭(りんかく)がはっきりと見えだした。

「も、も、もののけ! ほ、ほ、ほんものののももけ!」

 式部と光源氏はあとずさりしながら、恐ろしさのあまり舌をもつれさせて同時に叫んだ。


『ククク。本物の物の怪とは、おかしなことをお言いだ。闇の世界のわれらは、この世の実存だと、はたして言えるのかどうか、ククク』

 その声は冷たく、しわがれてもいたが、透きとおった白肌の美しい女だった。しかし、血がまだらに混じっている金色の目と、床上に浮いて座っているさまが、まぎれもなく物の怪であることを示していた。

『式部殿、お願いだ、六条御息所さまであっても何でもいいですから、物語から呼びだした死霊か生き霊だと仰ってください!』

「ち、ちがうと、なんども言っているではありませんか。光る君さまこそ、禁裏を警護する近衛府の大将だったこともあるのですから、あれを退散させてくださいませ」

『そっ、そんなぁぁ! こんなときに大将の務めをもちだされても困ります。さきほどまで、わたしのことをあんなに捨ておいておられたのに……』


 それでも光源氏は、なにかと恰好をつける男だ。

『式部殿、物語の賭弓(のりゆみ)から、わたしに弓をお出しください!』

「あっ、はい、そうですね」

 式部は両目を閉じた。するとその直後、空中に弓と矢が現れた。光源氏はおおげさに右腕を振りあげ、弓だけをつかんだ。矢はつがえられず、床の上にバラバラと落ちた。

 いくら目のまえだといえ、的に当てる自信が光源氏にはなかったのだ。光源氏は大将であって、日々鍛錬し実戦経験も豊かな舎人(とねり)ではない。

 光源氏は、手で弓の弦を鳴らしながら、

『悪霊退散!』

と、ふるえ声を懸命に絞りだした。

『ククク。夕顔の女君のときも、そんな弓鳴らしで守ろうとなさいましたよな。でも無駄だった。女君は悪霊にとりつかれ、はかなく亡くなってしまわれた。ククク。さて今回は、うまくゆきますかな?』

 物の怪は冷ややかに笑い、右手の人差し指を弓にむけた。

『なみの(あやかし)であれば、このような弦打で退散させられもいたしましょうがな。このオババにかかれば、ほれ、このとおり、ククク』

 弓はボロボロの灰になり、床の上にこぼれ落ちた。


『エッ、オババ!?』

 光源氏は、おもわず叫んだ。弓が灰になったことよりも、物の怪の言いぐさが不思議だった。若い女なのになぜだろうと、光源氏は問いかけるような目差しを式部に送ったが、式部も、驚きの目を返すだけだった。

 すると物の怪が、

『なにも、とって(くら)おうというのではない。むしろ、式部殿にお願いがあって参上したのじゃ』

と言いながら床に座りなおし、いんぎんに両手をついて辞儀をした。そして、ゆっくりと顔を上げると、さきほどの、つややかで白磁のようだった面貌は、皺深い老婆のそれに変化していた。

『うぁぁ、やはりオババだぁぁ!』

 光源氏は息をのみ、恐怖で体を凍りつかせた。だが両袖をひろげ、式部を守るような恰好だけは、かろうじてする源氏だった。


 老婆は、あざけりの一瞥(いちべつ)を光源氏に投げたあと、式部にむかって言葉をついだ。

『このオババの願いを聞き届けていただければ、ご息女と孫姫さまを、この世にお留めいたしましょう。それとも、ご息女さまたちを、さきほどの弓のように灰にしてしまわれますかな? ククク。孫姫さまから先の子孫代々の方々も、いつでも灰にしてさしあげますぞ、ククク』

 恐ろしげなその物言いに、口まめな光源氏も、もう言葉がついて出なかった。

 光源氏は、片袖のうしろにいる式部に顔をむけ、どうすればよいだろうかと、もの問いたげな目差しをおくった。


 式部の顔面は蒼白だったが、それでも瞳のなかには、決然とした光が差していた。

 式部は、

「ど、どういうことでしょうか?」と、

声を震わせながらも懸命に言葉をしぼり出した。

『なに簡単なことじゃ。嘘をつくなかれ。あなたが帰依している仏も言っておろうが。不妄語戒(ふもうごかい)、とな。物語などという絵空事を書いて人びとを惑わせるのは、おそろしい罪障じゃ。これ以上の罪を重ねるのは、お止めなされ』

「しかし、人の世の真実は、人の心を語る物語のなかにあるのではないでしょうか。絵空事の物語を通じてこそ、真実を語ることができるのではないでしょうか」

 式部の一途な抗弁に、光源氏はウンウンとおおきくうなずいた。

 物の怪の皺がいっそう深くなり、目もますます赤みを帯びてきた。

『ククク。絵空事を書く人は、さすがに口も達者だわい。だが、話しあいに来たわけではない。これはお願いなのじゃ。だいじなご息女と孫姫なんじゃろ、ククク』

 光源氏は、『どこが「お願い」なんだよ、このババァ!』と口に出しかけたが、すんぜんのところで思いとどまった。なにせ相手は物の怪だ。用心するにこしたことはない。


「わかりました。どうすればよろしいのですか?」

 小声ながらもキッパリとした言葉が、式部の口から発せられた。かけがえのない娘と孫なのだ。式部に選択の余地などなかった。

 物の怪はニヤリと笑い、ふたたび口をひらいた。

『源氏の物語は、五四帖のほかは一切、世に問おうとなさらぬことじゃ。そして、下書きもすべて、いまここで焼き捨てなされよ』

 物の怪の言葉に、光源氏はポンとひざをたたいた。

『なーんだ。たやすいことでよかったですね、式部殿』

 そう言って笑顔をむけてきた光源氏にはこたえず、式部は、物の怪を正面から見すえ、一言一言、かみしめるようにして言葉をはなった。

「ですが、五四帖を補ってこそ、源氏の物語は、人の世のありさまを曲がえず描くものになるはずだ、と思っているのです」


 式部のその言葉に、光源氏はちいさく肩をすくめた。そして口もとを手で隠しながら、

『ここらあたりで手を打っておいた方が無難ですってば。相手は物の怪なんですよ』

と、式部にささやいた。

 すると、

『ククク。もういちど、このオババの力を見せねばならぬのかな……』

 物の怪は、右手を光源氏の顔のまえに突きだし、ぱっと指を広げた。

『この男が形代であっても、わが手で灰になれば、この世に現れることは二度とかなわぬわぁぁ!』

 光源氏は全身をこわばらせ、すがるような目を式部にむけた。


「わかりました。どうかその手を、お引きください。新しい帖を世に出すのは、金輪際もう止めることにいたします。下書きも、いまこの場で焼くことにいたしましょう」

 式部はそう言うと、文机と草紙箱にあった草稿を取りあつめ、燈火を目で探した。すると、物の怪が右手を差しのべた。

『このオババの力をお忘れか? ククク』

 式部が手に持っていた草稿は、炎をあげずにジリジリと燃えていく。その焼け跡は黒から白へ変わり、式部がそれを手放すと、灰となって空中に舞ったあと、床の上にフワリと落ちていった。

『女どうしの約束、たがえなさるなよ。いや、ババァどうしの約束かな』

 クククという笑い声とともに、物の怪は暗闇のなかに溶けるように消えていき、代わって燈台の火がともった。


 ふだんは多弁な光源氏も、さすがにしばらくのあいだは、口が重かった。うなだれながら、

『お力になれず、もうしわけありません』

と言うのがせいぜいだった。

 そして一息あけ、式部をみつめながら、もう一言を口にした。

『ありがとうございました』

 光源氏の目から、涙があふれ出そうだ。

 式部は、うるんだその目をまっすぐにみつめながら、ゆっくりと口を開いた。

「娘も、ちい姫も、わたしにとってかけがえのない存在です。そして光る君さま、あなたも、とてもたいせつなおかたですのよ」

 とうとう涙が一筋、光源氏のほほを濡らした。光源氏は式部の右手を取り、それを両手で愛おしく包みながらほほにあて、だまったまま頭をたれた。


「たいせつなかたですのよ。光る君さまが、どれほど頼りなく、その場その場の口だけのおかたで、あっちでは若い女君にふらふらし、そっちでは義理の娘に懸想し、こっちでは若い女房たちに戯れ言して興がるおかただとしても、……えっ、どうなさいましたの?」

 光源氏は顔を上げ、下唇を突きだして恨めしそうな視線を式部におくった。

「まだまだありましてよ。つづけましょうか?」

 光源氏は情けなさそうな顔を、はげしくよこに振った。

「でも、わたしが産みおとしたたいせつなかたであることに、やはり変わりはないのです」

 式部は、からかいが消えた目差しを光源氏にそそいだ。


「さて、今夜は、もうすこし仕事をいたしましょう。手伝ってくださるでしょ、光る君さま」

『えっ!? で、でも、さきほどの約束をやぶれば、まずいのではありませんか?』

 心配する光源氏に、式部は、手箱から新しい料紙を取りだしながら、

「物の怪との約束は、下書きを焼くことと、新しい帖を世に出さないことのふたつだけです。五四帖を補うものを書いても、世に出ないように仕舞っておけばよいのです」と、

きっぱりとした声でこたえた。

『そりゃそうかもしれませんが……』

「それに、わたしはもちろんのこと、ちい姫も、人である以上は何十年、何百年と生きられるわけではありません。わたしたちの死後に新しい帖が日の目を見れば、それでよいのです。たとえ物の怪であろうと、死人を害することはできませんからね」

『理屈ではそうでしょうが……。あの物の怪ババァが、それで納得するでしょうか?』

 光源氏は、まだ気がかりだった。

「それで文句があるなら、あの物の怪はもういちど現れるでしょう。そのときに、約束の内容について思いちがいがあったと言いわけすれば、一度目は見のがしてくれると思いますよ」

『物の怪をたぶらかすとは! 式部殿も、もしかして物の怪ですか? 物の怪ばあさんどうしの二度目の対決には、もう出くわしたくないものです』

 饒舌を取りもどしはじめた光源氏をうながし、式部は文机にむかった。

「物の怪に脅され、かえって、やる気がわいてきました。さぁ、がんばりましょう」

 式部こそ物の怪だと、光源氏は本気で思った。

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