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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第3章 観音
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3-6

 桜子と賢子を乗せた牛車が、石山寺をめざし、夜明けと同時に、〈中川のあたり〉にある私邸を出立した。初瀬詣からもどっておよそ半月後の、八月十六日のことだった。


 桜子は、五歳のときに紫式部から贈られた真珠とガラス玉の玉鬘を、ようやく背中まで伸びた髪に留めていた。この十年間というもの、寺社に参詣するおりには、いつも身につけているのだ。

 牛車がガタコトと揺れるたびに、玉鬘も左右にちいさく振れる。桜子は、その一連を右指にからませながら、なんとはなしに速仁の顔を思いうかべていた。

 速仁は、桜子たちの石山詣に同行できなかったのだ。次期東宮の座をめぐる競争が最終段階に入っていたこの時期、藤原道長も兼隆も、そして東宮も、速仁が東宮御所から頻繁に外出することをよしとしなかったのである。


 桜子たちは、鴨川を西から東へ渡るのに、高野川との合流点を選んだ。比叡山西麓から洛中へ流れこむ川である。私邸に近いこの合流点の北側に下鴨神社があり、石山寺までの道中の無事を、ここでまず祈願するためだった。

 桜子は、鴨川に高野川が合流するこのあたりの風景が、幼いころから好きだった。北には〈(ただす)の森〉が広がり、その濃い緑のなかに、下鴨神社の白砂の参道が敷かれ、鮮やかな朱色の鳥居と社殿が点在している。鴨川と高野川に架かるそれぞれの橋からは、上流に北山連峰が望め、北東に目をやれば比叡山が遠望できる。そして比叡山の南に、東山が連なっているのだ。

 両川の合流点には水鳥も多い。桜子は、追い剥ぎなどを避けるために、牛車から降りることが許されていなかった。だが、なるだけ川岸に近づき、餌取りする水鳥の仕草を窓からながめるのが好きだった。そして東宮御所や賢子邸で鳥の絵を描いては、桜子よりもずっと外出のままならない速仁に、お気にいりの風景を伝えるのだ。速仁も、腹ばいで両手を頬にあてながら、そんな桜子を見るのが好きだった。


 下鴨神社の参拝を終えた桜子は、賢子といっしょに牛車で鴨川の東岸を南下しながら、東宮御所にいる速仁の顔をまた思いうかべた。

「東宮御所にもどったら、琵琶湖と瀬田川の水鳥を描いて、宮ちゃんにお話ししてあげようね、お母さま」

「そうね、宮さまは石山詣を許してもらえなくて、残念がっておられましたね。でもしかたありません。立派な東宮さまになっていただくには、礼儀作法や技芸、学問をしっかりと身につけ、皆から尊敬されるに値する人間になってもらわなければなりません。初瀬詣のすぐあとで石山詣をすることに反対された大殿にも、一理あります。物見遊山は控えめに、ということでしょう」

「でも石山詣は物見遊山ではないでしょ、お母さま」

「あっ、そうでした、そうでした。ほほほっ」

 賢子は、口もとを扇子でおおいながら、あきれたような眼差しをこっそりと桜子にむけた。

 ――どうして桜子は頭がこうも固いのでしょう!? 漢文の勉強のしすぎなのでしょうか? 名月を愛でたり、瀬田の唐橋で夕映えをながめたりするのが、石山詣の楽しみなのに、どうも桜子は察しが悪いですね。

 そして、

「石山の観音さまのまえで、しっかりお経を唱えましょう」

と、すまし顔でそう答えた賢子は、そのあとも、おしゃべりをだらだらとつづけるのだった……

「でもそのまえに腹ごしらえですね。逢坂山の走井(はしりい)に着けば名水を頂戴し、かげろうの日記のお方のように、幕をめぐらして食事もいたしましょう。破籠(わりご)頓食(とんじき)をたくさん詰めてきましたよ。それから石山では、勤行のまえに、しじみご飯をいただきましょう。あっ、鮒鮨(ふなずし)も食べなければ。あれを食べればお腹の調子がよくなり、いろいろなものをいっぱい食べられるようになりますからね。それから……」


 賢子の腹づもりどおり、桜子たちは走井で食事をとった。そして逢坂の関を越え、なだらかな下り坂になった街道を、琵琶湖南西岸の打出浜(うちではま)までたどった。そこからは舟に乗りかえる。

 陸路は、牛車のなかで揺られつづけ、暑さもあって苦しい道中だった。だが船旅は快適だった。桜子は、巨椋池よりもはるかに大きな琵琶湖をまのあたりにし、心を揺さぶられた。よせては返す波を見るのも初めてだった。

 ――不思議だなぁぁ、どうして水がよせたり退いたりするのだろう? 海の波はもっと大きくて早いんだよね。須磨の海を光る君さまに描いてもらったけれど、本物はちがうんだろうなぁぁ。この目で海も見たーい! だれか、わたしを須磨に連れていってくれないかなぁぁ。

 桜子は、琵琶湖を南下する船の縁に座り、惟清たちがいる京都の方向に目をやった。惟清の父は摂津国の受領を務めたことがあり、実家が須磨の浜に建っていると、桜子は母から聞いたことがあるのだ。

 ――惟清さんか……。うふふ。


 西の空を見あげる桜子の目のさきには、大きな黒い雲が広がっていた。そして、舟が瀬田の唐橋をくぐるころには、遠雷も聞こえはじめた。だが、琵琶湖から瀬田川に入ったこのあたりは、青空に大きな積乱雲が浮いているだけだった。その積乱雲が陽光を受けて銀色に輝くさまを、桜子はまぶしそうに見あげた。

 それからまもなくして、桜子と賢子を乗せた舟は、まだ日がかげらないうちに石山寺の舟着き場に接岸した。

 賢子よりもさきに舟を降りた桜子は、あたりを見わたした。瀬田川の両岸ともに、青空に代わって厚い雲が広がりだしていた。ひんやりとした風も吹きはじめた。だが、緑の山と、陽射しをさえぎる灰白(かいはく)の空、そして涼風が、日中の暑さをいやしてくれた。初めての石山詣をまえにして、桜子の心がますますはずんだ。

「お母さま、はやく!」

 桜子は、舟を降りようとしている賢子に手を差しのべた。

「ありがとう。どっこいしょ!」

 賢子は桜子の手をとり、太った体をユサユサさせながら岸に上がった。

「参籠部屋に入って、すこし横になるとしましょうかね……。そのあとで、しじみご飯です。瀬田の唐橋では、早かったせいで夕映えを観られませんでしたから、しじみご飯は絶対に外せません!」


 参籠部屋のある建物へむかう道すがら、桜子は賢子に話しかけた。

「お母さま、勤行は明日の朝からの予定だったけれど、日没まえに最初のお勤めをしてきていいかな? お母さまは、お疲れなら、部屋で休んでいてね」

「そうしましょうかね。女房と下男を連れていきなさいよ。それから、あまり遅くならないように。今夜は、しじみご飯ですからね」

「もぉぉ、お母さまったら、しじみご飯のことばっかりなんだから……」

「まぁぁ、そうですか!? でも、おいしいのだからしかたありません。――それと、今日は十六夜月(いざよいづき)ですね。しじみご飯をいただきながら、お月見をいたしましょう。琵琶湖に昇る月はすてきですよ」

 桜子は、食事のことに何度も言いおよぶ賢子にあきれながら、女房と下男にともなわれて石山寺の大門へむかった。

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