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藤原道長の甥の藤原兼隆は、ちかごろ機嫌がよかった。
六年ほどまえのこと、兼隆は式部の娘である藤原賢子を妻のひとりとし、その縁から、式部を彰子付き女房にするよう道長に推薦した。ほどなくして、式部の書いた源氏物語が宮中でもてはやされるようになり、彰子への帝のおぼえがめでたくなった。おかげで、兼隆にたいする道長の評価が、うなぎ登りなのだ。
兼隆は、賢子とのあいだに娘をひとり得ていた。そしておりよく、道長の六女である嬉子が東宮妃となって速仁親王を産み、その乳母に賢子をあてることにも成功した。いつの日か、東宮の長男で〈一の宮〉とよばれている速仁が、次代の東宮に、さらに帝になれば、宮中での兼隆の力は、いま以上に大きくなるだろう。速仁を産んで二日後に嬉子が他界したのだから、なおさら都合がよかった。道長と、その息子の頼通の栄華を凌駕することさえ、可能になるかもしれない。兼隆の野望はふくらむいっぽうだった。
兼隆の正室は賢子でない。賢子は、父も祖父も中級貴族の受領であり、亡父が関白だった兼隆とのあいだには、大きな身分差があるのだ。兼隆は、皇族出身の女宮を正室に迎えていた。
しかし、兼隆にとって賢子は、だいじな手駒である。兼隆は、賢子が東宮御所から里下がりすることを知ると、当日の朝そうそうに、里邸の式部邸に牛車を乗りつけた。
「一の宮さまは、お元気でおすごしでしたかな?」
兼隆がひさしぶりに会う賢子に話しかけた、これが最初の言葉だった。
「お元気すぎて、手を焼いておりますのよ。一昨日も、鬼やらいだ! と仰って、大きな音をたてながら御所中を走りまわっておられました。お怪我をなさらないようにと、あとを追いかけるのが一苦労でしたのよ」
「アハハ、源氏の物語の、匂宮さまのようで、おかわいいではないか」
笑いながら兼隆がこぼした最後の言葉に、賢子のよこで人形遊びをしていた女の子が、パッと顔をあげて小さな口をひらいた。
「宮ちゃまは、かわいくない! いじわるで、らんぼうで、だーいきらい! わたしのかみの毛を、みじかーい、みじかーい、ってひっぱるんだよ。それに、おべんきょうもできないのよ」
口をとがらせて訴えたのは、兼隆と賢子のひとり娘にして、式部の五歳の孫娘である桜子だった。
桜子は、速仁にとって乳母子にあたる。速仁と同い年の桜子は、幼いながら賢子とともに東宮御所で宮仕えし、速仁の遊び相手を務めていた。古歌の手習いや絵筆など、宮中暮らしに欠かせない技芸の稽古事もいっしょだ。昨年の秋から、速仁には漢詩文の教育もはじまっていた。
困り顔の両親を尻目に、歳のわりに口が達者な桜子は、こんどは目をかがやかせて話しつづけた。
「宮ちゃまはね、先生のおっしゃるからうたが、おぼえられないの。わたしは、そばできいているだけだけど、すぐにおぼえられるわ。おべんきょうが好き。それにお絵かきも、だーい好き!」
「これこれ、絵はよいにしても、唐詩を吟ずる姫君では、男君にきらわれますよ。父はね、高い身分の公達を婿にと考えているのですから、ちい姫、あなたもそのつもりでおいでください」
兼隆からいさめられた桜子は、小首をかしげた。漢字が得意な桜子だといっても、「身分」という言葉の意味がまだわからないのだ。それに、勉強が得意なことをほめてもらえなかったようで、それが桜子にはふしぎでならなかった。
きょとんとしている桜子をよそに、兼隆は、おうように笑っている賢子にむかって小言を口にした。
「ちい姫が寝床で夫に漢文の講釈をするような女になったらたいへんだ。貴女も気をつけてくださいよ」
「ほほほっ、殿ったら、それは母が書いた物語の読みすぎですわ。物語の世界と、この世とはちがいますのよ。おかしなかた、ほほほ」
ひとしきり笑った賢子は、まだ合点がいかなさそうな桜子の、その短い髪の毛をいとおしそうになでながら、兼隆にまた話しかけた。
「そうそう、源氏の物語を愛読しておられる殿なら、大喜びされることがありましてよ。母がさいきん、五四帖を補うものを書いているようです。下書きは、かなりたまって……」
賢子が言いおわらないうちに、兼隆は喜色満面となり口をひらいた
「おっ、なんと、それはありがたい。帝と皇后さまが、さぞかし喜ばれるにちがいない。それに、源氏の物語の評判が上がれば、わしの昇進もかなうというもの……、ワハハッ。姑殿にお礼を申しあげてこなければな、ワハハッ」
すっかりご満悦の兼隆は、賢子親娘が使っている対の屋をしりぞき、式部が寝起きしている寝殿の母屋へむかった。
だが、式部は母屋にいなかった。念誦堂で勤行しておられます、という侍女の取りつぎを受け、兼隆は式部の部屋で、ひとり待たせてもらうことにした。
「姑殿は、そろそろ出家を考えておられるようだな。朝から熱心にお勤めか……。んっ!?」
立ったままでひとり言を口にした兼隆の目が、文机の上の料紙をとらえた。文机のよこには草紙箱もある。
兼隆は、源氏の新帖だと見当をつけ、文机のまえに座って料紙に手をのばした。
最初は満足げに読んでいた兼隆だった。だが、四、五枚ほど目を通したあたりから、顔がくもりだした。そして、草紙箱のなかのものまで読みおえたころには、はじめの上機嫌さが、すっかり消えてしまった。
兼隆は料紙と草紙箱を元通りにしたあと、眉間に深い溝をこさえ、半眼で料紙をしばらくにらみつけていた。そして、本邸での急用を思いだしたと女房たちに告げ、賢子へのあいさつも捨ておき、式部邸をあとにした。
兼隆に取りのこされた賢子は、ひとりで人形遊びしている桜子を見るともなく見つめながら、物思いにしずんだ。兼隆が式部邸に泊まらず本邸へもどったことが、賢子にはやるせなかった。兼隆は正室への気兼ねから、本邸に帰っていったのだと、賢子は考えていた。たかが受領の娘では、皇族出身の女宮である正室にかなうはずがない……
「ねぇねぇ、お母さま。お母さま、ったら!」
桜子が何度もよびかけて、賢子はようやく物思いからさめた。
「あっ、ごめんなさい。どうしたの?、ちい姫」
桜子は人形をにぎりしめながら、賢子に、
「あのね、お父さまがおっしゃっていた、みぶんって、なんなの?」
と、たずねた。
「それはね、……お父さまは別のお家へ帰られた、ということかしらね……」
「えっ!? お父さまは、かえられたの?」
「ええ、そのようですよ」
「いっしょにお人形であそぼうと、おもってたのに……」
半べそ顔になった桜子に、賢子は、おもわずほほえみを返した。
「殿方は人形あそびが苦手なのでしょう。お父さまは、それでお帰りになったのですね、ほほほっ」
まだ残念そうな桜子に、賢子は言葉をついだ。
「身分が高くなくても、光る君さまのような、お人形で遊んでくださる優しい男君に、ちい姫は出会えるといいですね」
「うん!」
桜子は、身分ということがまだわからなかったが、それでも、曇りのないひとみを輝かせ、コックンとうなずいた。