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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第3章 観音
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3-2

 惟清は、用立てた牛車を女車に仕立てた。そして、女房たちに気づかれないように、忍び足で速仁を車寄へ導いた。

 速仁は、牛車に乗りこむとき、

下簾(したすだれ)が外側にたれているよ。これ女の人用じゃない? これでいいの?」

と、小首をかしげながら惟清にたずねた。

 だが惟清の応答は、速仁にとって、たのもしいかぎりだった。

「夜歩きは、人目がたたないように気をつけねばなりません。だから女車にするのです。こうすれば、女のもとへ通う男とは感づかれません」

 ――へぇぇぇ、勉強になった。こういうこと、漢文の先生は教えてくれなかったよな。


 牛車には、速仁につづいて惟清も乗りこんだ。

 惟清と牛飼童のほかに、従者は屈強な者が六人。牛飼童にも短刀を身につけさせ、惟清は万全を期していた。

「よろしいですか、若宮。これから宇治橋を渡って対岸へ行きます。渡りきったところで車から降り、大殿の別荘まで歩きます。そして透垣(すいがい)のそばで合奏を聴かせていただきましょう。もし運がよければ、廂まで垣間見られるかもしれません。いつも見慣れている乳母殿と一の君さまでしょうけれど、ここは将来のための練習だとお思いください。ともかくわたしの指示どおりに、お願いいたします」

動きだした牛車のなかで惟清は、夜歩き初心者のためにていねいに説明し、速仁もいちいちうなずいた。


「それからもう一点。宇治橋を渡っているあいだは、女の話をいっさいお控えください」

「えっ、どうして?」

「この橋には、橋姫という嫉妬深い鬼神がおり、橋を渡る者がほかの女をほめそやすと、危害をくわえるという言い伝えがあるのです。橋の途中に小さな(ほこら)がありまして、そこに、橋姫が祀られております」

 速仁は目をくりくりさせながら、うれしそうにうなずいた。

 ――ワァァァ、なんだかすごそう。おとなって、楽しいなぁぁ。


 速仁は、惟清の言いつけを守った。橋を渡りきるまで、女の話どころか、口をギュッとつぐみつづけた。祠が目に入ったとき、恐いものを見てみたいという思いがフッときざしたが、それは子どもじみていると自分にいいきかせた。おとなである惟清との約束を守る方が、速仁にはうれしくてならなかった。

 車から降りると足もとが暗かったが、惟清は速仁を先に歩かせた。なるだけおとな扱いしようとしたのだ。

 フクロウが一羽、近くにいるようだった。バサッという羽音や、ホーホーという声が、とつぜん、思いがけないほど近くに聞こえ、速仁はそのたびに身がすくんだ。しかし、美しい琵琶の音と、調子外れの箏の音がとぎれずに聞こえるので、道に迷うことはなかった。楽の音がしだいにおおきく聞こえるようになり、ほどなくして速仁は、別荘を囲む垣根にたどり着いた。

 惟清は兼隆に命じられて速仁に仕えている立場だったので、この別荘の配置を熟知していた。垣根が柴になっているところを、惟清が手で分けひろげ、速仁を庭に通した。そして、

「若宮、どうもこちらのようですよ」

と言いながら、惟清は速仁を竹の透垣へ導いた。


 速仁は、透垣の戸をすこし押しひらき、建物のなかに目をこらしながら、しばらく合奏を聴いた。御簾と几帳がじゃまして人の姿は見えなかったうえに、声もこちらまでは届かなかった。だが、おとなの男になれた気がして、十分に楽しかった。

 合奏がおわり、速仁が戸を閉めようとしたとき、ふいに桜子の姿が目に入ってきた。桜子が簀子縁に近づき、右手を外側に差し出し、持っているものをながめだしたのだ。雲に隠れていた月がおりよく現れ、顔がほのかに照らしだされた。

 ――あっ、桜ちゃんだ。やったぁぁ! なにをしているのだろう? んっ、あれは(ばち)だよね。やっぱり桜ちゃんが琵琶を弾いていたんだ。いい音だったものね。んっ? なにか言っているのかな? 明日はおれと仲直りしようと言っていたりして、エヘッ。

「若宮、宿直(とのい)の者が近づいてくるようです。見とがめられると厄介ですから、そろそろ引き返しましょう」

 速仁は、惟清の言葉に素直にしたがった。満足げな顔だった


 速仁が見たとおり、桜子が月明かりにかざしていたのは撥だった。宇治の姫君三人姉妹のひとり、中の君の真似をしようと、母の賢子が使っていた撥を借りうけたのだ。

 ――中の君さまは、撥が月を招きよせたのだと仰ったのよね。それで、月影に照らしだされた中の君さまと大君さまのお姿を、薫の君さまが垣間見ておられて……、うふっ、すてき。

 だが、速仁たちが立ち去ったあと、桜子の顔がくもった。桜子は、左手で髪の毛に手を触れ、それをみつめた。

 ――月に照らしだされたら、わたしの髪が短いことがすぐにわかってしまう。宮ちゃんなんか、いつもわたしをからかうし……。明日、宮ちゃんがまた髪のことで冷やかしてきたら、この撥でたたいてやろう。ああぁぁ、わたしって、不幸な女の子……。


 桜子が速仁の顔を思いうかべて腹をたてていたとき、ほかならぬ速仁は、惟清とふたりで牛車に乗り宇治橋を渡っていた。速仁のほほは、ゆるみっぱなしだ。

 ――垣間見すると、女の人って昼間よりもキレイに見えるのかなぁぁ。不思議だよな。これがきっと、おとなの付き合いなんだ。おれ、すごいこと体験しちゃった。エヘッ。

「なぁ、惟清は何歳のときに初めて体験したの?」

「わ、若宮、そ、そういうことは、また別の機会にお教えいたしますから……」

 ――なにをあわてているんだ? 変なヤツ。


 速仁は肩をすくめたが、すぐに笑顔を取りもどし、ふたたび惟清に話しかけた。

「琵琶を弾いていた人は、おれが思っていたとおりの人だったよ。上手だったよね」

「わぁぁぁ、ダメです若宮!」

「えっ、なにがだよ?」

 速仁はキョトンとするばかりだったが、惟清は御簾をすばやく押しあげ、橋姫が祀られている祠を横目で見ながら従者たちに命じた。

「みなの者、おおいそぎで橋を渡れ! 若宮さまを、お守りしろ!」


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