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惟清は、用立てた牛車を女車に仕立てた。そして、女房たちに気づかれないように、忍び足で速仁を車寄へ導いた。
速仁は、牛車に乗りこむとき、
「下簾が外側にたれているよ。これ女の人用じゃない? これでいいの?」
と、小首をかしげながら惟清にたずねた。
だが惟清の応答は、速仁にとって、たのもしいかぎりだった。
「夜歩きは、人目がたたないように気をつけねばなりません。だから女車にするのです。こうすれば、女のもとへ通う男とは感づかれません」
――へぇぇぇ、勉強になった。こういうこと、漢文の先生は教えてくれなかったよな。
牛車には、速仁につづいて惟清も乗りこんだ。
惟清と牛飼童のほかに、従者は屈強な者が六人。牛飼童にも短刀を身につけさせ、惟清は万全を期していた。
「よろしいですか、若宮。これから宇治橋を渡って対岸へ行きます。渡りきったところで車から降り、大殿の別荘まで歩きます。そして透垣のそばで合奏を聴かせていただきましょう。もし運がよければ、廂まで垣間見られるかもしれません。いつも見慣れている乳母殿と一の君さまでしょうけれど、ここは将来のための練習だとお思いください。ともかくわたしの指示どおりに、お願いいたします」
動きだした牛車のなかで惟清は、夜歩き初心者のためにていねいに説明し、速仁もいちいちうなずいた。
「それからもう一点。宇治橋を渡っているあいだは、女の話をいっさいお控えください」
「えっ、どうして?」
「この橋には、橋姫という嫉妬深い鬼神がおり、橋を渡る者がほかの女をほめそやすと、危害をくわえるという言い伝えがあるのです。橋の途中に小さな祠がありまして、そこに、橋姫が祀られております」
速仁は目をくりくりさせながら、うれしそうにうなずいた。
――ワァァァ、なんだかすごそう。おとなって、楽しいなぁぁ。
速仁は、惟清の言いつけを守った。橋を渡りきるまで、女の話どころか、口をギュッとつぐみつづけた。祠が目に入ったとき、恐いものを見てみたいという思いがフッときざしたが、それは子どもじみていると自分にいいきかせた。おとなである惟清との約束を守る方が、速仁にはうれしくてならなかった。
車から降りると足もとが暗かったが、惟清は速仁を先に歩かせた。なるだけおとな扱いしようとしたのだ。
フクロウが一羽、近くにいるようだった。バサッという羽音や、ホーホーという声が、とつぜん、思いがけないほど近くに聞こえ、速仁はそのたびに身がすくんだ。しかし、美しい琵琶の音と、調子外れの箏の音がとぎれずに聞こえるので、道に迷うことはなかった。楽の音がしだいにおおきく聞こえるようになり、ほどなくして速仁は、別荘を囲む垣根にたどり着いた。
惟清は兼隆に命じられて速仁に仕えている立場だったので、この別荘の配置を熟知していた。垣根が柴になっているところを、惟清が手で分けひろげ、速仁を庭に通した。そして、
「若宮、どうもこちらのようですよ」
と言いながら、惟清は速仁を竹の透垣へ導いた。
速仁は、透垣の戸をすこし押しひらき、建物のなかに目をこらしながら、しばらく合奏を聴いた。御簾と几帳がじゃまして人の姿は見えなかったうえに、声もこちらまでは届かなかった。だが、おとなの男になれた気がして、十分に楽しかった。
合奏がおわり、速仁が戸を閉めようとしたとき、ふいに桜子の姿が目に入ってきた。桜子が簀子縁に近づき、右手を外側に差し出し、持っているものをながめだしたのだ。雲に隠れていた月がおりよく現れ、顔がほのかに照らしだされた。
――あっ、桜ちゃんだ。やったぁぁ! なにをしているのだろう? んっ、あれは撥だよね。やっぱり桜ちゃんが琵琶を弾いていたんだ。いい音だったものね。んっ? なにか言っているのかな? 明日はおれと仲直りしようと言っていたりして、エヘッ。
「若宮、宿直の者が近づいてくるようです。見とがめられると厄介ですから、そろそろ引き返しましょう」
速仁は、惟清の言葉に素直にしたがった。満足げな顔だった
速仁が見たとおり、桜子が月明かりにかざしていたのは撥だった。宇治の姫君三人姉妹のひとり、中の君の真似をしようと、母の賢子が使っていた撥を借りうけたのだ。
――中の君さまは、撥が月を招きよせたのだと仰ったのよね。それで、月影に照らしだされた中の君さまと大君さまのお姿を、薫の君さまが垣間見ておられて……、うふっ、すてき。
だが、速仁たちが立ち去ったあと、桜子の顔がくもった。桜子は、左手で髪の毛に手を触れ、それをみつめた。
――月に照らしだされたら、わたしの髪が短いことがすぐにわかってしまう。宮ちゃんなんか、いつもわたしをからかうし……。明日、宮ちゃんがまた髪のことで冷やかしてきたら、この撥でたたいてやろう。ああぁぁ、わたしって、不幸な女の子……。
桜子が速仁の顔を思いうかべて腹をたてていたとき、ほかならぬ速仁は、惟清とふたりで牛車に乗り宇治橋を渡っていた。速仁のほほは、ゆるみっぱなしだ。
――垣間見すると、女の人って昼間よりもキレイに見えるのかなぁぁ。不思議だよな。これがきっと、おとなの付き合いなんだ。おれ、すごいこと体験しちゃった。エヘッ。
「なぁ、惟清は何歳のときに初めて体験したの?」
「わ、若宮、そ、そういうことは、また別の機会にお教えいたしますから……」
――なにをあわてているんだ? 変なヤツ。
速仁は肩をすくめたが、すぐに笑顔を取りもどし、ふたたび惟清に話しかけた。
「琵琶を弾いていた人は、おれが思っていたとおりの人だったよ。上手だったよね」
「わぁぁぁ、ダメです若宮!」
「えっ、なにがだよ?」
速仁はキョトンとするばかりだったが、惟清は御簾をすばやく押しあげ、橋姫が祀られている祠を横目で見ながら従者たちに命じた。
「みなの者、おおいそぎで橋を渡れ! 若宮さまを、お守りしろ!」




