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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第2章 幼なじみ
12/160

2-5

 翌日は、桜子たちが東宮御所へもどる日だった。

 ところが、式部の体調が朝から思わしくない。母屋の寝台から起きあがれないのだ。

 昨日の昼間、源氏の物語の執筆にまつわる秘密を桜子に伝えて、精気を使い果たしたのだろうか、と式部は思った。

 ――でも、思いのこすことは、もうありません……。


 賢子は式部を看病するために、もうしばらく里下がりをつづけることにした。

 だが、速仁は予定どおり東宮御所にもどらなければならない。

「ぼくも、まだここにいる!」

とダダをこねる速仁をなだめすかし、賢子は、速仁を牛車に押しこんだ。あとは、式部邸に主人顔で泊まっていた兼隆が、仰々しい行列を仕立てて、速仁を東宮御所まで送った。


 東宮御所の車寄(くるまよせ)に着き、速仁がふてくされたまま牛車から降りたころ、桜子と賢子は、寝台に横たわっている式部のそばで、人形遊びをはじめていた。式部がそれを望んだのだ。

 式部の目に、南庭のやわらかい光を背にしたふたりの姿が映っている。

 桜子が、

「これは光る君さまでございましてよ」と、

おませな口調で、きれいな衣装につつまれた人形を手に持っている。

 桜子は、その人形を、おもちゃの御殿のなかに座らせた。

 すると、賢子がべつの人形を手に取り、

「それでは、わたくし若紫も、おそばに座らせていただきましょう」

と言いながら、それも御殿にすえた。

「だめ! 若紫ちゃんはわたしよ。母上は、若紫ちゃんほどお若くはないでしょ! 母上は、末摘花さま役ね」

「ちい姫! それはないのではありませんか!」

 賢子の顔は、かなり本気で怒っていた。


 式部は、ふたりのやりとりに口もとをゆるめた。そして、ふたりに聞こえないような、かすかな声で、源氏の物語中の和歌を口にした。

「今はとて 荒らしや果てむ 亡き人の 心とどめし 春の垣根を」*

 ――でも、庭など、荒れてもかまいませんよね。あなたたちふたりが、天寿をまっとうしてくだされば、それでよいのです。


 桜子と賢子の人形遊びは、まだまだつづいた。

 そして、そのようすを見ていたのは、式部だけではなかった。白いスズメが簀子縁の欄干に留まり、赤みがまじる金色の目で、御簾(みす)のすきまから室内をうかがっていた。


 桜子と賢子が、末摘花の人形をどちらが持つかでふたたび言いあらそいになったとき、兼隆が東宮御所からもどり、母屋に現れた。上機嫌だ。黒斑(くろぶち)の子猫を胸に抱いている。

「お体のぐあいは、いかがですか?」

 兼隆から声をかけられた式部は、体を横たえたまま、頭だけをすこし上げた。

「お気遣い、ありがとうございます。おかげさまで、朝よりはよくなったようです」

 式部は、言葉とはうらはらの苦しそうな声でそう答えると、頭を枕にもどし、かぼそい声を絞りだした。

「かわいい猫ですこと……」

「はい、一の宮さまを御所におもどししたあと、東宮さまから拝領いたしました。乳母殿(めのとどの)へのお礼に、と仰せでした。東宮さまは一の宮さまを、それこそ猫かわいがりしておられますからな、アハハ」


 賢子は猫を受けとると、すぐにそれを桜子に抱かせた。

「うふっ、かわいいぃぃ」

と、桜子は頬ずりしながら猫をつよく抱きしめた。

 だが猫は、迷惑顔であらがい、桜子の胸からヒュッとすり抜けた。

「あっ、待って! そっちはお庭だよ」

 桜子に大声で追いかけられた子猫は、ますます速くかけだし、御簾の下をくぐりぬけて簀子縁に出た。

 子猫の目と、欄干にいた白スズメの目とが合った。赤みが濃いその金色の目に、子猫はたじろいだ。


 ――猫のくせして、スズメが怖いとは、ククク。

 スズメ姿の大陰はせせら笑った。だが、子猫に気をとられるあまり、大陰は、べつの大きな黒猫が背後から迫っているのに気づかなかった。

 子猫を追って簀子縁に出た桜子が、大声をあげた。

「きゃぁぁ、だめ! スズメちゃん、逃げて」

 桜子のその声でスズメが首を後ろにまわしたのと、黒猫が両腕を伸ばしながら跳びかかったのが同時だった。スズメは欄干から勢いよく飛びたち、間一髪のところで猫の鋭い爪を逃れた。だが、黒猫をにらみつけたまま飛びあがったせいで、大陰は、軒先に吊りさげられていた釣燈籠(つりどうろう)に気づかなかった。

 コーン

 燈籠に頭をぶつけた白スズメは、桜子の足さきに落下した。


 その日の夕方に、大陰はようやく意識をとりもどした。頭だけでなく、翼も脚も痛かった。目を開けると、心配そうな桜子の顔がまぢかに迫っていた。

 その顔が、大陰の目のさきで、パッと明るくなった。

「お母さま! スズメちゃんが目を開けたよ」

「まぁぁ、よかったですね!」と、

式部の額の汗を拭っていた賢子が、ふりむいて桜子に答えた。

「やっぱり、このまえ伏籠から逃げたスズメちゃんだったよ。目が金色だもの」


 スズメ姿の大陰は、式部の寝台の近くで、木箱のなかに横たえられていた。真綿(まわた)のうえに柔らかな布が敷かれた箱だった。花を数輪つけた八重桜の小枝も添えられている。

「スズメさんは蜜が好きだって、おばあちゃまが教えてくださったのよ。桜の蜜を飲んで、元気になってね」

 桜子は、はきはきした声でそう言うと、箱に顔をますます近づけ、小声でささやいた。

「でもね、早く元気になっちゃだめだよ。飛べるようになったら庭に放しなさいと、お母さまに言われているの。だから、ゆっくりと元気になってね」


 賢子が、式部のかたわらを離れ、桜子のよこに座った。そして、箱のなかをのぞき込みながら口を開いた。

「また猫に襲われないように、気をつけてやらないといけませんね。やはり、大きな伏籠に入れて、母屋のなかに置いてやりましょう」

「飛べないうちは、東宮御所につれ帰ってもいいでしょ、お母さま」

「はい、そうしましょう。御所には、ここよりも猫がたくさんいますから、気をつけて面倒をみてやりましょうね」

「うん!」


 桜子と賢子が頬をよせあいながら交わしている話し声を、式部は安らかな夢心地で聞いていた。そして大陰も、穏やかな思いにつつまれながら、ふたたび目を閉じた。

 ――心ばえのよい女三代の家族か……。助けてもろうて、礼をせんとな。

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