8-12
三田と高田が営業所にもどったころ、悠斗は桜子と速仁をさそい、出町デルタの河川敷へ下りていった。
悠斗が予想したとおり、濁流のごう音と日没の薄闇につつまれた川岸には、ひとっ子ひとりいない。千年昔の世界へもどる速仁を人目にたたずに見送るには、うってつけの状況だ。
「おい一宮、こんどは十日後でなく、五日後にしよう。日没時に待ってるからな」
悠斗は、第五の品を探すための待ちあわせ日を繰りあげた。
「うん、わかった。おれ、もうれつに勉強するぞ!」
「ああ、頼むぞ。六条御息所は当代きっての教養人だから、同時代人の一宮と桜ちゃんのふたりが頼りだ。おれは、野宮について調べておくよ」
悠斗がそう言うと、桜子は笑みをこぼしながら悠斗に話しかけた。
「六条御息所さまとは一度しかお会いしていませんが、教養があるだけでなく、おやさしい方だったような覚えがあります。敬遠せずに言葉をかわされたらいいのに……」
悠斗は無言でうなずいた。
――頭が良くて、やさしい女の人か……。年は違うけれど、まるで桜ちゃんのようだ……。
悠斗の頬が自然とゆるんだ。だが、薄闇が悠斗の表情を桜子の目から隠していた。
――悠斗さんは、やはり年上の女君が苦手なのだわ、うふふ。
桜子は、心がはずんだまま速仁に話しかけた。
「五日後だよ。その日は悠斗さんの部屋に泊めてもらいなさいね。二十六夜の月が出るはずだから、鞍馬のお家で月待ちをしようね」
速仁は、小躍りしたくなるほどうれしかった。
――月待ちだ! そのときこそ桜ちゃんに……。
速仁は両腕を胸に近づけ、手を上むきに握りしめた。
すると、速仁の体が透きとおりはじめた。
「桜ちゃん! 鞍馬での月待ち、ぜったいにしような!」
「うん、約束ね」
上機嫌な桜子は、速仁の両拳を握って上下に振った。
速仁にとって、桜子の方から手を握ってくれたのは、これがはじめてのことだった。速仁は、透きとおっていく自分の顔がポーッと赤らむのを感じた。
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「若宮、お帰りなさいませ」
惟清が賢子邸の曹司で、もどってきた速仁を迎えた。
「お顔が赤いですが、……」
「ん!? そうかな……」
――ははーん、若宮は一の君と、いいことがあったようだな、クク。
速仁は、顔を上気させたまま、文机のうえの観音像に手を合わせ、吉田神社と神泉苑でのできごとを声に出して報告した。そして、五日後の日没時に、桜子がいる世界へまた送って欲しいと祈願した。そしてその日は、野宮で六条御息所から最後の品を渡してもらう、とてもだいじな日になるだろうと言い足した。
観音像を納める厨子の扉を速仁が閉じおえるのをまって、惟清は速仁の背中にむかって口を開いた。
「四つ目の品は檜扇だったのですか……。五日後に最後の品が見つかればよろしいですね」
「うん」
むきなおった速仁の顔には、まだすこし赤みがのこっていた。
「扇のほかに、うかがっておくべきことはございませんでしょうか?」
「うーん、そうだな……」
速仁は、天変地異のことを惟清が心配しているのだろうかと思った。
「べ、べつにないよ……」
と、速仁は顔をこわばらせて言葉をついだ。
惟清は、うろたえる速仁がおかしくてならなかった。
――一の君とのことは、内緒なのだな、クク。はいはい、聞きませんよ。
「どうしたのだ惟清? なにがおかしいのだ?」
「いえ、なにも……、クク。若宮が無事にもどられ、しかも一の君もお元気そうですから、うれしく思っているのです」
「そうか……。乳母ちゃんはどこ? 一の君のようすを教えてあげようと思うのだけれど……」
「乳母殿は、いま塗籠におられます。笛と鏡のほかに、うしなわれた家宝がないか、あらためて調べると仰っていました。源氏の新帖の手がかりになるはずだと、考えておられるようです。若宮のおもどりを迎えるために、日没までにはこちらに参上すると仰っていたのですが……。塗籠には日が差しこまないので、日が落ちたことに気づいておられないのでしょう」
「それじゃ、おれがいまから乳母ちゃんのところへ行ってくる。ついさっきまで、この屋敷の近くで一の君とおしゃべりしていたことを、乳母ちゃんに早く教えてあげたい。きっとよろこぶぞ」
「それがよろしいかと思います。ひとりでおられるはずですから、一の君のようすをお伝えするのに都合がよいでしょう。――ところで若宮、むこうの世で、天変地異はおこっていなかったですか? 鴨川の水があふれたりは、しておらなかったですね。天変地異で一の君が苦しむことになりはしないかと、乳母殿が気に病んでおられます」
速仁は、とっさに言葉が出てこなかった。桜子たちと見たばかりの濁流が目にうかんだ。そして、一言一言、考えながら言葉を返した。
「この数日、雨がつづいていたらしく、水かさが増していた。でも、おれがいるときは、雨は降っていなかった。――これを使わなくても、だいじょうぶだよ」
速仁は、直衣のふところから黄水晶を取りだした。
「この宝珠のことも、乳母ちゃんに話してくる。そうすれば、きっと安心するよ」
速仁は黄水晶を右手で握りしめながら、いきおいよく曹司を飛びだした。
速仁は、塗籠の入口で立ちどまった。そして一息おき、ソーッと板戸を開いてなかに入った。几帳のうしろに姿を隠したうえで、ころあいをみはからって飛びだし、賢子を驚かせようと思いついたのだ。
ところが、
――アレ!? ひとりじゃないのか……。
几帳の隙間からのぞき見すると、賢子のほかに、老女房がひとりいた。紫式部にもながく仕え、速仁とも顔なじみの、最古参の女房だ。
家宝の検分を手伝っているのだろう。桜子のことは曹司で話そう。速仁はそう考え、賢子に声をかけようとした。
と、そのとき、老女房のしわがれ声が速仁の耳にとどいた。
「一の君さまの弟君こそ、家の宝ではございませんか?」
――エッ!? 桜ちゃんに弟がいるのか?
速仁は賢子に声をかけそびれ、几帳に身を隠したまま、女房と賢子の話に聞きいった。
「一の君さまの行方が知れない今となっては、双子の弟君に、屋敷へおもどりいただくのがよろしいかとぞんじます。お血筋がお方さまの代で絶えることになれば、お母上の式部さまも、あの世でさぞかしお嘆げきになられるのではございませんか?」
「でもね、一の君が亡くなったと決まったわけではないのですよ。それに、弟君は比叡山の横川で出家なされると聞いています。生まれてからずっと、お山で仏道修行をしておられるのに、いまさら俗界におもどりを願うのは、お気の毒です」
「ですから、剃髪されるまえの、まだ稚児でおられるはずの今のうちにともうしあげているのです。お方さまも、お産みになってすぐに手放された男君の、大きくなられたお姿を見たいと、お思いになられませんか?」
「それはそうですが……」
「兼隆卿が屋敷においでになり、赤子の男君を連れていかれた日のことを、よく覚えております。お生まれになって二日目のことでした。双子は畜生腹だから縁起が悪い、この子は死んだものと思え、などと理不尽なことを仰って……。女君のほうは高貴な身分の者に嫁がせよう、とも仰って……。それはそれは強引でした。式部さまは不本意のごようすでしたが……」
「そうだったようですね。――わたしは難産のあげく、産後しばらく朦朧としていて、よく覚えていないのです。男君とは、顔をひとめ見た覚えがあるだけで……」
「ですから、このさい、この屋敷におもどりいただき……」
「でも、男君とはそれっきりなのですよ。未練は修行のさしさわりになると大殿が仰って、横川の僧都さまに預けられたあとのことは、どのような名を賜ったのかもふくめて、消息はなにもわからないのです。そのうえ、その僧都さまも、先年お亡くなりになられましたから、お山でその子を見つけだすのは難儀ですよ」
「………。だれにもけっして話さないようにと、兼隆卿から厳命されていることがございます。ですが、ご一族のゆくすえにかかわることですから、このさい、お伝えいたしとうございます」
「いったいなんなの? そんなにぎょうぎょうしく……」
「双子の男君には、わたくしが産湯をつかわし、産着のおせわも、わたくしがいたしました。おかたさまは男君のお顔しか見ておられないのでごぞんじないのですが、男君の左の胸には、桜の花びらのような、赤い小さなアザがございました。ですから、それを手がかりに……。お方さま! どうなさいました!? お顔が、すぐれないようですが……」
「な、なんでもありません! で、ですが、大殿が仰るように、そのアザのことは、けっして他言しないように……。いいですね」
コトン
小さな音が塗籠に響いた。
「だれか、いるのですか?」
賢子は、物音がした几帳のむこうへにじりよった。
そこには速仁が、童直衣の左胸に右手を当て、頭をたれて座っていた。右ひざのまえに、水晶の宝珠が転がっている。
「若宮さま……!」
賢子は、かぼそい声でそう言ったきり、言葉がつづかなかった。速仁の左胸には、老女房が言ったと同じアザが、たしかにある。賢子は、その左胸に手を伸ばした。手はブルブルと、こきざみに震えている。
だが、賢子の手が装束に触れるすんぜんに、速仁は右手で宝珠をつかむや立ちあがり、逃げるようにして塗籠から走りさった。




